■嬪(ひん)は、天皇の后の名称のひとつで、『日本書紀』には、天智天皇の時代は「皇后=皇女、嬪=大臣の娘、宮人=それ以下」、天武天皇の時代は「皇后・妃=皇女、夫人=大臣の娘、その他」という使いわけが記述されており、家柄によって呼称の違いがあったようです。その後、律令で明文化され、「妃=皇女、夫人=大臣の娘、嬪=それ以下」という分類が定められました。唐では、「妃」が夫人の称号として一般的に用いられて、細分として「夫人」と「嬪」を区別していたようです。
<参考>
天智
【皇后】倭姫王 【嬪】遠智娘、姪娘、橘娘、常陸娘
【他】色夫古娘、黒媛娘、越道君伊羅都売、宅子娘
天武
【皇后】さらら皇女 【妃】大田皇女、大江皇女、新田部皇女 【夫人】氷上娘、五百重娘、おおぬ娘
【他】額田王、尼子娘、かじ媛娘
■大宝令や延喜式には、皇后の下に妃(ひ)二員、夫人(ふじん)三員、嬪(ひん)四員と定めた制があります。妃は皇族出身の女性、夫人は三位以上の女性、嬪は五位以上の女性の中から選ばれました。
■平安時代には、後宮には「妃」「夫人」「嬪」「女御」「更衣」・・などが置かれることになっていました。実際には「妃」はめったに置かれず、「夫人」は平安時代初期まで存在しただけで中期以降置かれることはなく、「嬪」は奈良時代初めに存在したがその後は全く存在しないままでした。女御から生まれた親王が皇位に即き、天皇の母である女御が皇太夫人、さらに皇太后と位が上るにつれ、女御の地位が次第に高くなってきました。醍醐天皇の女御藤原穏子が皇后になった後は、臣下出身の皇后は女御から冊立されるのが例となりました。