奈良県下の朝鮮人 強制連行

 

 

奈良県下においても朝鮮人連行の歴史があります。

現在まで次の6箇所が確認されています。

 

.天理市の大和海軍飛行場(柳本飛行場)

2.香芝市屯鶴峯(どんずるぼう)の旧航空軍地下指揮所

3.五條市北宇智の燃料貯蔵用地下施設

4. 菟田野町の大和水銀鉱山

5. 野迫川村の金屋淵鉱山立里鉱業所

6.耳成山トンネル

 

1 大和海軍航空隊大和基地(柳本飛行場)
 


 

1942年6月5日のミッドウェー海戦の敗戦、
1943年2月1日のガダルカナル島からの撤退など戦局が悪化してきました。

このような中で、現在の天理市から田原本町にまたがる300ヘクタールもの

広大な農地に大和海軍航空隊基地の建設が始められました。

防衛庁文章では1944年6月から飛行場建設が始まったとされていますが、
1943年秋ごろから飛行場建設に関わる動きが激しくなってきたとの証言があります。

この飛行場には、強制連行された朝鮮人が3000人、県内から集められた軍属・成人男女の
勤労奉仕隊・中学生を主とした学生・予科練習生があたりました。

当時、強制連行された朝鮮人 宋將用さんの証言によると、「夜、突然、村のえらいさんがやって来て連行された、
論山から釜山まで貨車で、釜山から船で下関に着いた。
トラックで運ばれた後、貨車列車に乗りついたところが柳本だった。
昼間は飛行場の建設に、夜はトンネルを掘った。ごはんは一サジぐらいで汁をぶっかけたらもう無い。
腹が減っているからイナゴとか食べられるものは生で食べた。」
また、金永敦さんは、「朝5時半に起きて食事をし、6時半ごろから仕事を始めた。
休日は2年間で
1日もなかった。結婚していた。故郷から年貢を収めても足らん。
どうしようかという手紙がきたが、送る金がなかった。」 と証言されています。

飛行場建設中に3人の朝鮮人徴用工の犠牲者がでました。

 

    慰安所に朝鮮人女性が

柳本飛行場には、朝鮮人徴用工の宿舎、軍関係者の宿舎の近くに慰安所があり、40人ほどの強制連行された朝鮮人女性がいました。

敗戦後、すぐに帰国できなかった救出した姜正市さんは、「朝鮮人女性の連行を計画したのは、
桜井町(当時)の特高警察で慶尚南道普州郡、東普州郡から「家事の手伝いの仕事」と偽って女子挺身隊の名で連行し、
柳本飛行場の慰安所で売春を強要した。女性たちは17歳から26歳までの20人で、昼は豆、夜は乾パンだった」と証言しています。

 

 

柳本・岸田に残る 南側の防空壕

その内部、小さな部屋が1つと大きな部屋2つを確認

解放出版社、朝鮮人強制連行・強制労働ガイドブックによれば

内部に「電信室」と壁書きがあるそうです。

私が行った時は、豪内の水溜りが酷くはいれませんでした。

 

 

北側の防空壕 この壕は、現在コンクリートがむき出しになっていますが、

戦時中は、他の壕と同じように土で多いかぶせてあったそうです。

 

その内部:埋められていて隙間から手首で撮影

解放出版社、朝鮮人強制連行・強制労働ガイドブックによれば

戦闘308飛行隊のM氏は、零戦と飛行交信し通信指令所であったと証言しておられます。

 

滑走路の一部が、あった付近 
 

 右:敗戦直後、米軍撮影

規模:幅100m(コンクリート部分50m)長さ1500m


増補

1945年10月米軍撮影の柳本飛行場、零式艦上戦闘機が並んでいます。

武装解除されていてプロペラと機銃が外れています。※毎日新聞より


上記写真と同日時と思われる緑十字が描かれた輸送機の写真新聞記事には米軍 DC-3輸送機と書いてるが

色が塗りなおされているためライセンス生産していた零式輸送機と思われる。

※上記と同じ日の毎日新聞より

緑十字機、昭和20年8月19日〜同10月10日まで敗戦・終戦の連絡事務処理のために
占領軍(GHQ)が許可を出して飛行していた日本軍機白い塗装に緑の十字を書いていました。
有名なのは降伏文書を持った代表が沖縄・伊江島を経由しマニラに飛んだ海軍の一式陸攻

 

現在面影は無く生活道路となっていますがアスファルトの下に滑走路のコンクリートが残ってます。

 

特別養護老人ホーム「ふるさと園」に天理市教育委員会の立てた案内板があります。

※2019年2月現在天理市によって撤去されています。

 

B29に対して迎撃戦闘機が飛び上がって紫電・零戦(海軍戦闘機)が撃墜されたり帰還しなかったり

訓練中の飛行機と小学生が接触し子供が死亡しました。

神風特別攻撃隊・千早隊が柳本で訓練され前線基地へ転戦していきました。

私たちの住む、奈良県でも悲しい時代があった事を知ってて頂きたいです。

 

※奈良県の戦跡のコーナーに、関連記事を更新しています。
 

 

2 香芝市 屯鶴峯(どんずるぼう)の旧航空軍地下指揮所

 

現在、景勝地なっている屯鶴峯

 

太平洋戦争末期、本土決戦に備えた陸軍管轄の防衛司令部は、1945年4月に組織の編成替えを行い、
飛行機部隊の作戦強化のために航空関係のみを指揮命令する組織として航空総軍を新たに編制しました。

屯鶴峯の地下トンネルは、この航空総軍の全国で1ヶ所の航空指揮所として1945年5月から工事が始まりました。

この地下トンネルの建設に徴兵された朝鮮人兵士100人が従事しました。

地下トンネルの採掘を行ったのは師19502部隊です。

師19502部隊は航空総軍の施設部隊の一つで、正式名称は弟19地下施設隊といいます。

地下施設隊臨時編制要領によると、東海軍管区と朝鮮軍管区との調整より衛生兵や下士官より14人、
朝鮮軍管区から兵
200人が派遣されることになっていましたが、
実際の部隊編成にあたっては、東海軍管区と朝鮮軍管区との調整より
100人が(証言による)が派遣されました。

地下トンネルは、東側(E)と西側(W)の2ヶ所にわかれており、総延長は2kmにもの及びます。

2箇所のうち東側は航空総軍の地下施設であることが判明していますが、
西側は他の用途で掘られた可能性があります。 敗戦により工事は放棄されました。

朝鮮人兵士たちは敗戦を知りお祭り騒ぎのようになりました。

朝鮮人兵士たちは8月17・18日にトラックで大阪におくられました。

 

西側のWと言われた壕現在、

京都大学の地震観測所が設置されていて、

立ち入り禁止になっています。

増補
最近、京都大学が一般公開した時の画像です。

機械類は地震観測の機械です。



階段状に見えるのはトロッコのレール下の枕木の跡だそうです。
 


壁にツルハシの跡がくっきり残っています。
 


壁にドリルの刃の跡が残っています。

 


 

 

Eと言われた東の壕

現在、崩壊の危険のため立入禁止?

 

 

 

3 五條市北宇智の燃料貯蔵用地下施設 (旧北宇智村 岡・大谷)

 

 

京奈和道路工事前に、残っていた岡地区の燃料庫の写真

 

増補

現在、岡地区の燃料庫は京奈和道路の建設工事のため、ほとんどが取り壊されています。

上記写真のトンネルも、写真のように、工事車両の進入路建設のために、

山は削り取られ平地になっています。



増補

三在の横穴、もの凄い藪を分け入ってようやく見つけましたが、

写真では、草で覆われているので判りにくいです。

 

本土決戦にそなえ、北宇智村(当時)に燃料貯蔵用の地下トンネルの建設が進められ、
この作業に約200人の朝鮮人が強制労働を強いられました。

工事は1944年から始められ、作業には地元の人の他、
近隣の御所市、大淀町、橋本市に住む人も含まれていました。

多い時で1000人を越える労働者によって作業が進められました。

トンネルは飛行機燃料の種類によって2ヶ所に建設され、
朝鮮人労働者は三在町大谷ガソリン貯蔵用のトンネルの建設にあたりました。

工事が完了したのは1945年3月でした。 200人の朝鮮人労働者は、
次の工事現場である高槻成合の「タチソ」と呼ばれた飛行機部品の地下工場の建設現場へ連行されました。



 

4 菟田野町の大和水銀鉱山

 

強制連行された人達が働かされていた工場

 

大和水銀鉱山は全国屈指の鉱山で、ここで多くの朝鮮人労働者が強制労働を強いられました。

1939年に85人、多い時(1940年)には121人が働かされていたことがわかっています。

水銀は、爆弾に使用されたり、潜水艦に貝殻がつかないように塗られたりしたりし、
日中戦争に突入すると増産につぐ増産体制がしかれ、そのため多くの朝鮮人労働者が強制労働を強いられました。

敗戦まで朝鮮人労働者は、強制連行を強いられましたが、敗戦を迎えると、其の多くが祖国に還りました。


増補

 正門から撮影しました、当時の面影はまったく無く上記の建物の痕跡もありませんでした。


横の県道より撮影しました。

鉱山自体は、戦後も掘り続けられました、昭和30年代には本州最大の最大4トンの産出量を出しました。
昭和40年代には鉱害が発生し、全国各地でも水銀病(水俣病など)が発生し需要が低迷昭和46年に閉山されました。
現在は後継会社の研究施設となっており関係者以外立ち入り禁止となっています。



 

5 野迫川村の金屋淵鉱山立里鉱業所

 

強制連行された人達が働かされていた坑道の入り口

現在、コンクリートで塞がれています。

 

  1940年10月から1942年9月の間に北海道紋別の住友鴻之舞鉱山に強制連行されていた朝鮮人労働者のうち、
戦争激化に伴う砲弾などの兵器、資材に使われる銅の消費の増大に対応するため、
1943年4月に近畿で有数の銅山であった野迫川村の金屋淵鉱山立里鉱業所に50人が転属させられて来ました。

当時、この鉱山では500人の労働者が採掘にあたっていました。

朝鮮人労働者の宿舎は立里の里からもっとも離れた急傾斜の谷側に設けられていました。

宿舎に隣接して慰安所が設置され、日本人女性が3〜4人いました。

宿舎管理などの労務担当は、少尉クラスの軍籍を持った社員が2人あたり軍刀で威圧していました。

周囲は獣道しかない山奥で逃亡事件も何度か起きましたが、すべて捕らえられ引き戻されたといいます。

金屋淵鉱山立里鉱業所は、1945年5月に休山しますが、就労していた朝鮮人労働者についてのその後は、わかっていません。

 

当時の強制連行された人達の名簿

半島労務者と書かれている所に注目

 

 野迫川村立里の連行された人達の住居跡

 

 

6 耳成山トンネル

 

1996年4月の毎日新聞の写真

 

大和三山の一つで有名な耳成山の山中に十数本トンネル跡があります。

戦時中に、畝傍男子中等学校(現:畝傍高校)を接収していた海軍が建設したトンネルと思われます。

耳成山トンネルはこの海軍関係の地下倉庫か、経理学校生の避難用防空壕と
思われ工事には朝鮮人労働者が従事させられていました。

近くには朝鮮人労働者のための版場が建設していたことや敗戦後に
全員帰国していることからこの朝鮮人労働者は強制連行されたのではと思われます。

 

増補
 


耳成山トンネルを見てきました
鳥居の左側に木の柵がされています。



トンネルの上に灯篭が見えます。参道の下にあります。


状態のいいトンネルに柵の間から中を撮影しました。

証言によれば15本程度のトンネルが掘られていたようですが
現在5本程度しか残っていません。
大半は埋め戻されたり崩れたとの事です。




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