奈良県の戦跡



第二大和航空隊基地
(阿太峯飛行場) 五条市大野新田町


戦争末期の旧制の中学生のグライダー練習風景
数少ない
阿太峯飛行場の写真です

 

奈良県内の神風特別攻撃隊のプラットホーム

 近鉄吉野線福神駅より南西1〜2kmにある丘の上に、
かつて、第二大和航空隊基地(通称:阿太峯飛行場)がありました。
阿太峯飛行場は、長さ600m、幅60mで、
現在、その滑走路跡には、「今昔の里」、工場、そして牛舎などがあり、
人に聞かないと全くわからないくらい面影が残っていません。

奈良県下の朝鮮人強制連行でも紹介した旧北宇智村トンネル群の大谷地区の燃料トンネル群は、
阿太峯飛行場の250キロ爆弾を装備した神風特別攻撃隊千早隊機の
93式中間練習機(通称:赤とんぼ)に給油する為につくられました。


中学生によるグライダー整備風景


中学生の記念写真

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阿太峯飛行場の航空写真昭和22年米空軍撮影
黄色い線のなかに微かに細長い滑走路跡が見えます。

※戦後2年目の写真で滑走路が砂利や草・芝生だった為自然に帰りかけています

(上下画像・奈良テレビ放送、ゆうドキッより)



写真の範囲を広げた状態。青い点線内に滑走路跡が僅かに見えます。
右下に吉野川・中央〜下〜吉野川沿いに近鉄吉野線が確認出来ます。
 

 Aさん  元、特攻隊員の証言

「45年8月13日、柳本から五条の第二大和航空基地へ自動車で行く命令があり行ったが、
着くと、特攻に出る順番が貼り出されていた。
そこで、いろんな基地から特攻に出たという情報を聞いていたが、
第二大和航空基地には特攻出撃の命令は出なかった。当時私は17歳でした。」
(朝鮮人強制連行・強制労働ガイドブックより)

※上の写真は、写真の中の一人の方が近年、現地を訪問された時に
 地元の公民館に寄贈された写真で、 公民館で拡大されて飾れています。

 
現在の滑走路跡、面影は全くありません。


飛行場建設のために移転させられた神社


滑走路跡より少し東にある兵舎跡


基地の北の端にある『今昔の里』竪穴式住居などが復元されています。

 

畝傍高校の金属供出 橿原市 八木町


畝傍高校の正門側フェンスの鉄柵跡

時期は不明ですが畝傍中等学校(現:畝傍高校)の外周フェンスの鉄柵が軍に供出されました。
現在は、コンクリートの縦の柵が二本着いていますが、当時は横の鉄柵が三本入っていました。
畝傍高校の教員の方やOBの方にお聞きしましたが、あまり、知られていないようで詳しい情報は分かりませんでした。


真ん中の柱にくの字型の鉄柵跡が今も残っています。

※お願い、詳しい情報お知りの方、お知らせください。
 宜しく、お願いします。


 

畝傍高校の機銃掃射 橿原市八木町


昭和20年(1945)7月31日畝傍中等学校(現:畝傍高校)校舎への機銃掃射がありました。
米陸軍P51マスタングの銃撃で中央の校章周辺に気銃弾が打ち込まれました。

当時、畝傍中等学校は海軍経理学校橿原校として接収されていました。
海軍軍人?軍属?機銃痕を見上げた写真が残っています。
一番上の飾り窓に現在も機銃痕が残っているとのことです。

在校生は晩成小学校を仮校舎として使用していました。
同日、晩成小学校も機銃掃射にあったとのことです。


海軍経理学校橿原校時の朝礼、屋上に軍艦旗が掲揚されています。

参考:東京飛鳥会 次世代へ語り継ぐ戦中戦後の中学生活

 

榛原の近鉄線高架の機銃掃射跡 宇陀市榛原地区


近鉄榛原駅を下車して、すぐ前の商店街を線路沿いにひがしへ行くと、高架橋が見えてきます。
高架の下に萩原交差点があり国道369号線が通っています。
この高架の西面側(榛原駅側)に戦争末期(詳しい日時は不明)に
米軍戦闘機が関西急行鉄道(現:近鉄)の電車を銃撃したと思われる機銃痕が,今もなお残っています。

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1945年(S20)7月24日、艦載機から機銃掃射を受けました。
死者11人、負傷者27人と言われています。


西側橋げたの全体の写真、銃撃跡が生々しく残っています。
右下に慰霊碑がみえます。


上記写真の一部弾痕の拡大写真、
交通量は、とても多いですが戦跡がある事を知る人はほとんどいません。

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榛原近鉄線高架下の慰霊碑を見てきました。

碑文
前面
南無法蓮華経 戦争犠牲死者之霊位養日塔
右面
この犠牲者は昭和二十年七月二十四日午前九時すぎ近鉄大阪線の
電車をねらった米軍戦闘機の機銃掃射の際乗客死者
十一名負傷者二十七名を出した未だガードコンクリートに無数
の弾こんが当時を思い出されるように残っている

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上記写真の西側の高架に弾痕が残っています。


上記の高架とは違い県道や国道とは交わっていないので
交通量が少ないので見学しやすいです。

宇陀市が建てた説明版が立っています。


一部の 弾痕をアップにして撮影しました。
こちらも生々しく残っています。

※お願い、詳しい情報お知りの方、お知らせください。
 宜しく、お願いします。

 

奈良38連隊 奈良市高畑町(現:奈良教育大学)


奈良市高畑町に建つ奈良連隊記念碑

奈良市高畑町に戦前から、戦中まで陸軍部隊が常駐していました。 奈良38連隊です。
奈良38連隊は、日中戦争の頃から徐州作戦や南京攻略戦にも参加していました。
南方やビルマに転戦しインド侵攻のインパール作戦にも参加しましたが、
他の部隊と同じく大損害をだして敗退しました。
その後も転戦をしながら負け戦を戦いました。
奈良38連隊にとって、事実上、最後の戦いはグァム島死守戦でした。
この戦では、同島の日本陸軍・海軍陸戦隊の守備隊が全滅!
奈良38連隊の郷土の兵隊もグァム島でほぼ全滅しました。


奈良連隊記念碑の上部の拡大写真、38式銃と連隊旗が再現されています。


奈良教育大学の正門

現在、奈良38連隊の跡地には奈良教育大学のキャンパスが置かれていて
当時の面影は、徐々に無くなっていっています。
奈良教育大学に通っている学生の多くも、
ここに旧日本軍の駐屯地があったことを知っている人は、ほとんどいないようです。

増補


南京事件での38連隊の行動を伝える大阪朝日新聞奈良版
赤い囲みの助川部隊これが奈良38連隊の事です。
 

奈良海軍航空隊と予科練本部跡  天理市田井庄町(天理教名東大教会信者詰所)


昭和18年12月1日、当時の奈良県山辺郡丹波市町の天理教宿舎を接収して(現天理大学などは教練場)
三重海軍航空隊奈良分遣隊として発足昭和20年3月1日奈良海軍航空隊として独立
昭和18年頃から増えだした海軍飛行予科練習生(予科練)13・14期生の教育活動が行われた。
教育訓練部隊のため航空機の配備などは無いとのこと。
独立後は柳本飛行場の整備に追われたそうで敗戦と同じく奈良空は解散しました。
 

笛吹神社のロシア製大砲  葛城市(旧新庄地区)笛吹
 


神社の前に白い神明鳥居が見えてきます。
鳥居をくぐって左の大きい石の階段を登るとデ〜ンと置いてあります。
説明によると日露戦争
【1904(明治37年)〜1905(明治38年)】
の戦利品で明治42年に、明治政府より献納されたとの事です。
なお、大砲本体は当時のままですが車輪はS51年に復元されました。
 

 

龍田大社の大砲・砲弾   生駒郡三郷町


石碑:表
陸軍省奉納、明治三十八年之戦役○○
三十五口径 十珊七 加農砲
三十珊半 堅鉄弾丸

裏面に
大正三年吉日奉納、とあるので大正期に奉納された、
日露戦争の戦利品のロシア製の大砲と思われます。


駐車場から本殿正面に行くと、左側の目立たない所に置かれています。
 

広瀬神社のロシア軍大砲と砲弾 河合町


砂かけ祭りで有名な広瀬神社の前に展示されている。
明治40年に日露戦争の戦利品として奉納された大砲と砲弾
長らく本殿の東側の藪の中に放置されていたのを神社前に移したそうです。
砲身が無くなっている、暴発したのか?
 

二上山、雌岳の高射砲陣地跡 葛城市(旧當麻地区)


万葉集にも詠まれた二上山、左が雌岳
S20年3月の大阪大空襲では、
山の背後が夕焼けのように赤く染まったと言われています。

郷土史研究家の、故・堀江彦三郎さんの記録には、

「同三日(S20.1.3) 空襲警報、B29九十機、
銀翼をつらねて、金剛、葛城を北行、大阪、神戸へ向かう。」
「二上山雌岳山頂付近に高射砲陣地あれども一発も放たず、
弾丸のよういなきや、不審のことなり。」と書かれています。
 


雌岳山頂より、奈良盆地

その他のお年寄りに聞き取り調査をしましたが、
この陣地の高射砲で米軍機を撃墜したと言う証言は得られませんでした。

 


山頂広場は日時計やベンチが置かれていて登山客でにぎわっています。
登山客のほとんどが陣地の事を知らない、その跡形も無い。



北宇智小学校の空襲 五条市北宇智(現北宇智保育所)



現在の北宇智保育所の所在地に、北宇智国民学校が存在しました。
当時の空襲を受けた先生の証言によりますと、
1945年(S20)8月8日に神社での必勝の祈願にお参りした後学校に帰ってきている時に
空襲警報が発令され校庭に出た所を爆撃された。
その際、教師2名が死亡、教師2名が負傷、児童の5年生1人が負傷しました。

※大勝奉戴日
、毎月8日を太平洋戦争開始と共に国民の士気高揚のため
1942年(S17年)に設けられた記念日、開戦詔書奉読式・神社寺院での
必勝祈願・各戸での日の丸掲揚などの行事が行われた。


当時の痕跡を探しましたが、東側のコンクリートが?
当時のものかも知れません?


散策すると、保育所の建物の裏に二之宮金次郎像を発見。
当時の小学校のものか?空襲を見ていたのかも知れません。

 

 

北宇智駅、停車列車への攻撃   五条市北宇智 
 


昭和1945年(S20)8月8日
北宇智駅に停車中の列車に艦載機が攻撃を加える。
死者5人、重傷者19人、軽傷者30人が出たそうです。

北宇智駅は、08年春まで近畿で唯一のスイッチバック駅で
有名で鉄道ファンが集まる駅でしたが、
現在、スイッチバックは廃止され訪れる人は
少なくなりなくなり草が生え放題になっている。
現在の駅の南側に旧駅舎が残っています。

※2019年2月現在、旧北宇智駅の駅舎は取り壊されていました。
現場に行かれてもホーム跡と線路跡しか見学できません。



 

五條市の大川橋北詰の空襲   五條市五條

 


上記と同じく昭和1945年(S20)8月8日に攻撃されました。
大川橋北詰に爆弾が投下され近くの散髪店で死傷者を出す惨事となりました。


架け替え前の旧大川橋です。
この手前に爆弾が落とされたそうです。


大川橋の上より北詰を見ています。
袂に散髪店がありますが関係あるのか?

 

 

天川村のB29エンジン 天川村洞川(村立資料館)

記録によるとS20年6月1日、458機のB29スーパーフォートレス(超要塞)が
紀伊半島を縦断して大阪を空襲しました。
この時、日本軍の高射砲陣地の砲撃により8機が被弾し
そのうちの1機が大峰山中まで飛行し墜落しました。
クラウン機長の機体で搭乗員10名中、6人が墜落死、
4人が落下傘降下で天川・川上村に下りました。
 1人が川上村で投降、6月1日中に2人が大峰山寺に手を揚げて投降、
6月6日神童子谷で山林作業員に投降しました。捕虜は処刑されたようです。

S26年に機体のほとんどが搬出された様ですが分解できなかったエンジンは放置されました。
 数年前まであった2つあったエンジンも一つだけになり、
敗戦61年目の6月1日歴史の証言者として山中より運び出されました。

 

愛新覚羅溥儀と奈良ホテル 奈良市


1935年(S10)関東軍が造った傀儡国家、満州国の皇帝溥儀が来日、
奈良来県の際、当時鉄道省の管轄であった奈良ホテルに滞在しました。
溥儀を歓迎しろとの指令がありホテルをあげての歓迎したそうです。


ホテルのレストラン前の廊下に飾られている溥儀使用の豪華な食器 

 
食器一つで当時の従業員の給料をはるかに上回っていたそうです。  


溥儀来館時に新調の説明版、今も国賓・皇族用として使用されている。
 


ホセ・ラウエルと奈良ホテル 奈良市


ホセ・ラウエルは、日本がフリィピン占領後、1943年に
日本軍政の傀儡政権のフリィピン第二共和国の大統領で、大東亜会議に
フリィピン共和国代表として出席、日本の敗戦が濃厚となった
1945年3月にフリィピンを脱出して奈良で亡命生活を送りました。
そして奈良ホテルでの不自由な潜伏生活をおくりました。
日本の降伏後、GHQに逮捕され東京の巣鴨拘置所に投獄されました。
敗戦の2日後にフリィピン第二共和国の解散宣言をしました。

1969年(S44)ラウレル元大統領の一家が奈良ホテルに訪れ
(ラウレル元大統領は、1959年に死去)亡命生活時の感謝の胸像を
設置しに奈良ホテルへ来館されました。
現在も、ラウレル元大統領の胸像が休憩室に置かれています。

※大東亜会議:1943年(S18)11月5日〜6日に行われた首脳会議
当時、日本の影響下にあったアジア諸国の責任者を招いて行われた。
大東亜共栄圏の憲章とも言うべき大東亜共同宣言が採択された。
大東亜共同宣言は、日本が製作し一切の変更を許さないと言うものであった。
連合国から「会議は東条首相の操り人形の集まり」と言われている。

参加国:日本国・満州国・中華民国南京政府・フィリピン第二共和国
ビルマ国・タイ王国・自由インド仮政府(オブザーバー)


奈良ホテルの防空壕と銅鑼


奈良ホテル駐車場の横にある防空壕
戦時中に有事があればここへお客さんを避難させる為に作られました。


この銅鑼は戦争中に空襲警報が出た時にお客さんに叩いて知らせて防空壕に誘導したそうです。

 

矢田坐久志玉比古神社のプロペラ 大和郡山市矢田


やたにいますくしたまひこじんじゃ、と呼ぶそうです。
ここの門に、九一式戦闘機一型のプロペラが飾られています。



プロペラのアップ写真と開戦時の航空参謀の源田実氏の「航空祖神」の書
よく分からないが、ここの神様は天磐船に乗って天から降りてきた故事から 
航空機の神様となっていたそうです。


生駒山防空監視所  生駒市菜畑町(生駒山上遊園地)


昭和18年8月の金属回収令に伴い全国的に金属が強制的に回収させられました。
生駒山上遊園地でも他の遊具が撤去されていきましたが飛行塔は
海軍航空隊が接収し防空監視所として使われました。
ゴンドラやエレベーターが撤去されましたが奇跡的に本体は残され現在に至ります。


昭和4年3月開設当時の飛行塔、土井式飛行塔と呼ばれ
国内の遊園地の黎明期に各地に設置されました。
大正末期から昭和初めの遊具が
改修を繰り返しながも生駒の山上遊園地にだけ現存しています。
※画像は生駒山上遊園地の入り口説明より


御吉野防空監視哨跡  黒滝村御吉野


黒滝村で偶然見つけた防空監視哨跡
黒滝森物語村の黒滝吊はしの裏山から登って行くとたどり着きます。
登山口から約一時間程度で到着します。
元防空監視哨と言う事で見晴らしが良いです。


登山コースとして整備されていて監視哨跡はベンチが置かれ休憩できるようになっています。
お弁当を持って登山してランチタイムを楽しめそうです。
思ったより急登でアプローチが長いので軽装での登山は注意してください。


黒滝村が建てている説明を見ると
1944年(S19)年着工、1945年(S20年)2月末から立哨開始8月16日廃止
国民学校高等科を卒業した青年が24時間体制で勤務についていたそうです。
資材は戦後、家屋などに転用されたとの事です。



賀名生小学校の青い目の人形「パトリ」五條市西吉野賀名生
(賀名生の里歴史民俗資料館)

昭和29年 賀名生小学校の物置小屋を片付けていた児童が炭俵に隠されていた真っ黒になった人形を発見
戦前に迎え入れられた時は目を動かし「ママー」と発言したそうです。
奈良県に来た144体の青い目の人形も県内に高田小学校も含めて4体にしか存在していません。
高田のコーナーでも述べましたがその多くが敵国の人形として竹やり訓練の的になったり火に放り込まれました。
現在は賀名生の里歴史民俗資料館で展示され静かに賀名生の里を見守っています。
(高田の教育に高田小の青い目の人形を掲載)

 

 

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