戦時下、高田では

満州事変(1931年)をきっかけとして、しだいに深められていく戦時体制は、1937年(S12)からの中国との全面戦争で戦争の影響はしだいに厳しくなった。

それが、泥沼に落ち込むように太平洋戦争となると人々のあらゆる暮らしの面まで、近代総力戦のための規制・統制がされていきました。
 

1937年(S1277日、藘溝橋(ろこうきょう)事件より日中戦争が拡大していきました。

すでに、軍事支出は膨張、財政は急速に圧迫しあいつぐ増税でも歳出をまかないきれないで、多額の赤字国債を発行していました。

国民精神総動員令(S12)国民総動員令(S13)が制定され政府は議会の承諾なしに経済と国民生活の統制する権限を持ちました。

軍事に関係した上級官庁からの通牒は、増えるばかりで役所の仕事は多忙をきわめました。

各役場では動員・召集事務・戦死者を迎え町葬・村葬を行なうほか遺族の援護などの仕事がきわめて大切なことになっていました。

1940年(S15)砂糖・マッチ・木炭などが切符制に、翌年には米が配給制になり、ついで衣料が切符制となっていきました。

日用品への統制は強まるばかりで農村では40年(S15)より米の供出制が実施

されました。

小作料の制限や生産者米価の優遇はあったものの、労働力や生産資料の不足ために、食料生産が減り始め食糧不足が深刻になってきました。

出征兵士におくる慰問袋の割り当ては、S12711月にあったがS13年になると出動将兵の増加に伴い奈良県で二千数百袋を用意する事となった。

 

                                 慰問袋割当数

 

  高田町  磐園村 浮孔村 陵西村 天満村
昭和138 2,012  383 382  362 348
昭和146 2,683  512   510  484 467

 

増補

慰問袋の積み込み、本町(現:内本町、専立寺前)

大日本国防婦人会が慰問袋を車に積み込んでいるところ

自動車には、「銃後の力を発揮致しませう」の横断幕



大日本国防婦人会の記念写真、高田女子国民学校講堂での記念撮影1942年ごろ
 


葛城高等女学校の記念撮影、右前に慰問袋が積まれている。



出征壮行会:旭町の八幡神社にて

増補


出征時の親類との記念写真
1937年(S12)高田町市町
遠く、岡山・鳥取からも親戚が駆けつけました。

 

昭和14年にはなら県内の養鶏農家が一戸につき鶏卵二個分をだして軍用機を献納する運動が起きました。

 

高田町 浮孔村 磐園村 陵西村 天満村
26.04 8.00 15.36  27.70   2.70

             単位 円

 

別に、養鶏業者として高田で2人(3円・1円)浮孔村(1円)が応募している。

これとは別に、昭和19年には海軍機を2機、陸軍機を1機が高田町町民号として献納しました。

町村の予算・決算書は神の国・天皇の国日本と言う事で神社費がトップに出され、警防団・警備費または防空費・軍事費が歳出に並びだしました。

「国力の培養」が叫ばれ貯蓄がほとんど強制的に実行するようになった。

奈良県内で6千万の貯蓄目標がたてられ現高田市域では260万5千円の目標、

つまり、割り当てを実行し報告をしなければなりませんでした。

 

増補

 

報国第一九三五号奈良県第一高田号・報国第一九三六号第二奈良高田号の絵葉書

 

 

 

昭和14年度貯蓄目標

                       

高田町 陵西村 浮孔村 磐園村  天満村
1,754,000 232,000 194000  211,000 214,000

単位:円

警防団

戦時下の地方財政は、昭和15年に大改正となりますが昭和11年より政府は、

負担過重な町村へ、翌年から全地方団体へ臨時町村財政補給金をだしました。

その頃には、消防組が組織されていましたが戦時下の防空業務機関として、防護団が満州事変以来、しだいに編成されていきました。

この防護団は日中戦争が始まるとともに急速に増えたが法的根拠が無いままで

従来の消防組としっくりこないところがありました。

そこで、昭和14年警防団令(14125日公布、41日施行)によって、消防組と防護団は統合して警防団が発足しました。

奈良県知事が各市町村会に諮問する形で設置をすすめていました。

浮孔村の例では318日付の県からの通牒で、村会は324日に205人の団員を決定、県へ上申しました。

浮孔村の警防団費は143249銭の支出とある。

陵西村野口では団費割当108円の支出を承認しています。

警防団は警察の下に入り一種の民兵的な軍事組織として、やがて銃後で活躍しました。(銃後:直接戦闘に参加しない一般国民)

昭和20年の高田町の決算では警防団費3311939銭となっています。

昭和1612月太平洋戦争が勃発、翌17年には葛城地方事務所が高田に開設されました。(葛城地方事務局:南北葛城郡内519村を管轄)

事務所から役場へ政府の訓令・通達の伝達・配給・公債の消化・貯蓄・防空演習・防諜などのことが、つぎつぎと指令されてきました。

政府の町村へ統制指導は厳しいもので役場は国事に殉じる気がまえの報告を地方事務所経由で送り忠誠を誓っていました。

税制・農家への供出

昭和15年、巨額の軍事費をまかなうために税制改正(改悪?)がありました。

国は収入の大きい所得税を独占する変わりに地方分与税制度を施行しました。

財源が、いちだんと国に集中された結果、独立税の比重はいちじるしく低下しました。

そんな中、19年には地租・家屋税・営業税に引き上げ20年には市町村税の増税がありました。

人々は、税金面でも苦しい生活をしていました。

戦局は、昭和17年のミッドウェー海戦での大敗北から転換しました。

町や村の働き手はほとんど兵隊にとられていたし、肥料などの不足で生産はいちじるしく低下しました。

農村部には、米・麦だけでなく薩摩芋・じゃが芋などの増産・供出を指示していました。

やがて、わら・馬の餌草・干し大根・梅干・縄・むしろ、にいたるまで割当があって大字ごとに役場に供出しました。

役場では、食料の配給が遅れがちになり配給が行き届かなくなる日も、ありました。

野菜・薩摩芋を植える人が増えだし、道ばたや、川の堤防も畑にかわりだし、この頃から、学校でも校庭や運動場が畑にかわっていきました。

土庫小学校の廊下にある学校年表

1944年(昭和19年)に「運動場は農場として作物を増産」とあります。

金属回収

高田でも金属回収が行われました。

補助貨幣(硬貨)はもちろんのこと、お寺の梵鐘・橋の欄干・家庭にある金属の置物・火鉢にいたるまでたびたび行われたほか、白金・ダイヤの買い上げもありました。

他に火薬用綿のために家庭の綿の回収も行われました。

1942年(昭和17年)1125日 岡崎の金属回収(銅器)

 

これまでの、町や村の暮らし向きのことは、昭和15年以来、指令・命令の徹底して服従するように仕向けられてきました。

大字総代会を活用して、これを村常会のもと大字常会、部落会にかえ、戦争行政の浸透をはかりました。

町場では町内会のもと隣組の仕組みにして下部組織を強化しました。

これらの会合には必ず、皇居遥拝・戦地に行く兵士の武運長久・戦死兵士の霊に黙祷することから始まりました。

供出・配給・国債の応募・防空・勤労奉仕にいたるまで常会は真心をつくす努力をしていました。

昭和19年になると町や村に参与条例が公布されました。

戦時下の町村全般の審議機関に町議や村議、町村の各種団体から、町村長が数人を選任し参与としました。

たとえば、高田町で8人選ばれたが、この参与制は町村会をさしおいてでも、町や村の重要方針を決めるほどの実権をもっていました。

戦争も敗戦が決定的になっていた、昭和19年奈良盆地は、大変な干ばつにみまわれました。

これは、生産に大きな影響を与えました。

農家では、食糧の供出に困りじか保有米も割当供出に組み込んだと思い出を語る、老人もいます。

 

学童集団疎開も行われましたがこのことは

(学童疎開をご覧ください)

奈良日日新聞で見る

(S20年)の高田の行政

 

一月三日(戦ふ大和路)

親元を離れて疎開地で初めて正月を迎える疎開学童に対し、高田町ではお祝餅は町民と同様に一人当たり約七合を配給、この餅搗は町警防団員が奉仕し、更に元旦は地元の各家庭を寮付近の家庭に二人を最小限として招待し、戦ふヨイコのために心からなる中食と夕食を供し、家族と共にお正月一日を楽しく過ごさせた。

 

必勝の新春を迎へた高田町民は今年こそ米英撃滅だと早朝より氏神神社に必勝祈願の参拝、

各国民学校では遥拝式に続いて戦ふヨイコへの必勝信念と楠公七生報国精神昂揚訓話をなし、各工場は今年こそ造れば勝つ、補給増産を誓ひ二日より平日通り生産戦にハンマー、旋盤に取り組んで各職場に体当たり、必勝生産増強に突撃している。

 

一月四日(戦ふ大和路 )

高田町では、来る十五六両日行はれる家庭金属、鉄、銅、鉛、アルミニューム、アンチモン、アルマイトの各製品並みに廃品の回収に際し、必勝の兵器航空機の動脈である発動機の軸承けに必要な銀や、翼や胴体に不可欠のアルミニュームを確保すべく、銀、アルミニュームの回収運動が強力に展開されているが、其の回収は○に行なわれたる白金回収の如く強制買い上げでない関係上ともすれば回収日を忘れ、比島に於ける決戦場への必勝兵器としては白金に劣らぬ重要な資材で廃品といへども現用品と同一の条件で以って買上げられる事になっているから手持ちの金属製品、廃品といへども金と名のつく物は根こそぎ供出して決戦兵器に忠誠で体当たりを敢行積極的な協力を要望している。

 

一月一八日戦ふ大和路 )

高田町に於ける金属回収は十五、六の両日女子国民学校に於いて翼壮幹部の応援を得て実施されたる処町民の家庭金属根こそぎ供出に依り、予定回収量を突破する事三〇の好成績を以って回収された。

 

二月九日高田町回覧板 )

決戦が烈しくなるだけ前線の奮戦に応へて生産増強と戦時生活を徹底せしめ、貯蓄に遇進せねばなりません。

貯蓄にも特別攻撃を本町としても開始、目標突破に手持現金の貯蓄徹底、進行所得者層の応能貯蓄、国債貯金の割当完遂の実践に依り、二、三月中追撃戦に呼応、町目標額の完遂に町内会を指導完遂せられたし。

町内会貯蓄組合長殿(庶務課)

 

三月一一日高田町回覧板 )

野生末利用草根實木皮及び水草鳥獣昆虫等の資源の見本の採取の件

 

各地に繁茂せる上記の未利用資源も研究の如何に依って戦力増強資源となること故区長に於て一般へ周知徹底、来る二十日までに見本採取に上奈良市県立商工館内帝国発明協会県支部へ直送相成度く。

(庶務課)

 

三月一七日高田町回覧板 )

罹災者が訪れたる場合は縁故を問はず前住番地、氏名、生年月日と共に隣組組長、町内会長の手をなしに主要食の臨時特配を受け罹災者受け入れに万全を期されたし。

(勧業課)

 

三月二五日高田町回覧板 )

町出身名誉の戦死者葉山伍長以下六勇士の英霊は二十八日午後四時〇六分省線高田駅到着列車にて無言の凱旋をされますので各戸に弔旗掲揚多数出迎方区長に於て周知徹底を御願ひ致します。

(兵庫課)

 

三月二六日高田町回覧板 )

本籍外町在住者在郷軍人現況調査は四月一日現在を以って実施される事に成っているので各区長に於いては満一八歳以上、四十五歳以上までの男子にして本籍地外の町在住者を配布調査票に基づき二日中に役場兵庫係りに提出相成度く候。

(兵庫課 )

 

四月二十五日(高田町回覧板)

戦没軍人遺児育英の重要性に鑑み、国民学校、青年学校、中等学校、大学に在学の遺児に対し、国に於いて学資を給付せられるに付き、該当者は(中学校以上は在学証明書必要)印鑑携帯、三〇日までに兵事係田中書記へ届け出る様区長に於て周知方お願ひ致します。

(兵事係)

 

六月三日(戦ふ大和路)

高田町六月常会は一日午後三時より町役場会議室に於て開催、甘藷の増産、稲の早植、六百億貯蓄の完遂等に就いて指示、増産に空地、不急庭園の開放開墾と共に空襲時に於ける待避防空活動を阻害する如き鉄条網等を使用する柵の除去等の即時励行、農作物盗難防止等に就いて協議、個人主義的行為を排除、各自が監視となり闇取引の絶対防止に協力、空襲下の戦友愛を以てお互いの戦時生活の徹底擁護に全力を傾注する事に成って散会

 

四日午後二時より各町内会備蓄組合長会を開き、本年度貯蓄目標額二千四百五十万円の貯蓄達成並に各町内会の割当を決定、必勝貯蓄の完遂に就いて協議するが、之が貯蓄は一戸当り五千円、一人当たり約九百円平均に成っている。

 

六月一一日(高田町回覧版)

各職場義勇隊の結成に依る隊員証明書は一両日中に町内会長(小隊長)を通じ町役場国民義勇隊事務局に提出せない場合は高田町国民義勇隊の地域隊員として出動命令を発せられますから町内会長は一般にお知らせ願ひます。

(報道部)

 

六月一三日(戦ふ大和路)

高田町に於ては十二日午後二時より町役場会議室に於て敵の空襲必至下に於ける町内防空公共貯水槽設置に関し、関係町内会長、警防団幹部高田署警防主任等が参集、設置方法に付いて協議の結果、町内に十ヶ所の内務省指定貯水槽の設置に関しては出来る限り地元町内会の勤労奉仕に依って即日着手する事と成りて午後四時散会した。

 

 

高田町役場の建物

現在の北本町にありました。

 

 

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