学童疎開

 

昭和一九年七月サイパン島が陥落、続いてグァム島も九月に陥落し日本の絶対攻防圏が米軍によって突破され本土への空襲も必至になってきました。

学童の縁故疎開も増えました。

 

高田町事務報告書によれば(昭和一九年七・八月)

男子校(片塩) 女子校(高田) 浮孔校  磐園校 土庫校
105名 180名 81名  63名 48名

の縁故疎開があり入学したみたいです。

 

縁故の無い、いわゆる「少国民」を都会に残しては、大変な被害が出ると言うことから、昭和一九年六月末には「学童疎開推進要綱」が閣議で決定しました。

それにもとづいて、現:大和高田市域には、大阪の中本国民学校、東小路国民学校が集団疎開しました。

その状況は昭和一九年の町役場の事務報告は、次のように記録しています。

 

集団疎開状況

中本国民学校 高田町

  20,1現在 20,5,15現在 20,7,1現在
専立寺 138人 115人  
正行寺 38人 43人 33人
弥勒寺   32人 27人
名称寺   53人 49人
順照寺   47人 28人

 

東小路国民学校 陵西村

  20,1現在 20,5,15現在 20,7,1現在
大谷別院 50人   40人

 

    中本校は、他に馬見村・瀬南村へ、東小路校は、当麻村・磐木村・新庄町へ、

疎開しています。

先にあげた町役場、事務報告書は次のように記録している。

 

九月九日、第一次学童集団疎開トシテ、大阪市中本国民学校ヨリ百七十六名来町、本町・専立寺、有井・正行寺ヲ宿舎トシテ、之ヲ収容セリ

 

十二月六日、更ニ第二次疎開トシテ、同校ヨリ九十名追加来町、第一次ト合ワセテ、本町・専立寺、有井・正行寺、磯野・順照寺、曽大根・名称寺、土庫・弥勒寺、ニ分宿収容セリ

 

コレラノ学童ニ対シ、関係区ノ応援ヲ得テ、便所・炊事場、ソノ他ノ設備ヲ新調シ、物資ノ配給ハ固ヨリ、教育運営ニ関シ、積極的ニ之ヲ応援シ、各種団体及一般有志ヨリモ種々ノ慰問品ヲ贈リテ、之ヲ慰メ、婦人会ハ毎週二回、衣服ノ洗濯・修理ヲ奉仕シ、物心両面ニ亘リテ援護、慰籍ノ方法ヲ講セリ

尚、秋祭並ニ新年ニ際シテハ、町内有志ハ、各戸ニ学童ヲ招待シテ、之ヲ歓待シタリ

 

なお、高田では疎開と言えば学童疎開や集団疎開の住民受け入れのことを思う人が多いが、家屋の強制疎開も行われました。

後記の、家屋強制疎開を参考にしていただきたい。

 

 

疎開先を訪ねて見ましょう。

 

 

弥勒寺   

 

現在、無人で当時の面影が残っています。

 

 

専立寺   内本町

きれいに、整備され当時の面影が残っている

 

増補

市民語る、疎開児童森本なずなさんの掲示板への投稿より、)

 

お母さんに聞いてみました。彼女は高田でも昔ながらの本町通りの映画館に生まれ、
御坊と呼ばれる専立寺に、どこかしらない生徒さん(中本国民学校の児童)らがたくさん来ていたそう。
彼女の家の、弁天座=花月劇場ヨコの弁天湯にはその生徒さんらで貸し切りになった。
姉がようけシラミわかした子の髪をすいたってなぁ、とか
籠に入れた服からシラミがうつってお客さんがいやがって、おばあさんナンギしはったと。
また、高田のなかでも親戚の家に大阪から呼んだ女の子が地元の小学校へ通っていたようです。

 

 

正行寺   有井

ここも、改修がされているが当時の面影は残っている

お寺の人に聞けば、疎開時の炊事に使った鍋が残っています。
 

正行寺の現在の寺門
 

疎開当時の記念写真(寺門、前にて)

補足:この写真は敗戦直後に大阪に引き上げるときの写真です。

   子供達は大阪に帰っても空襲で焼け落ち

   住む家も無かったそうです。

 

大谷別院   大谷 (旧、北葛城郡陵西村)

当時の、面影は全く無く寺門のみ時の流れを告げている

大和高田市史とに東本願寺(大谷派)のHPによればよれば、

太平洋戦争の学童疎開受け入れの為、

荒れだしS53年に荒廃のため取り壊したとの事だ

当時、児童が生活した本堂です。
 

S53年、解体前に撮影された大谷別院の写真です。

 

荒廃が進んでいますが当時の面影を残していました。 

 

由緒のある旧本堂の規模の大きさがよくわかる一枚

 

寺門、だけが当時を偲ばせる。

 

順照寺   磯野

ここも、当時の面影が良くのこっていました。

 

名称寺   曽大根

本堂内は、昔のままのようです。
 

かなり、改修が加えてありました。

お寺の皆さん、勝手に撮影しました。申し訳ありませんでした。

不都合あれば連絡ください。

 

撮影協力、大和高田市教組・大島智一 書記長

写真提供、大谷の市民の皆さん

 

 

親元を離れて、高田町へやって来た中本国民学校児童を報道した、

当時の新聞写真です。

※接写の為、見ずらいです。

左の目次が重複してる場合は、左上のTOPを

左に、目次が出ない場合は下をチェックしてください。