空 襲

高田に空襲があった!と聞いても若い人にはピンとこないでしょう。

少し、年配の方なら判ると思いますが国鉄高田駅(現:JR高田駅)東側にあった大日本紡績高田工場です。

戦前から戦中にかけて、日紡・高田工場は中和地区の繁栄高田の象徴でした。

しかし、時代の流れで大日本紡績からユニチカに変わり1977年閉鎖されました。

現在、ユニチカ・オークタウンに名前の名残りがあり同駐車場の南東に記念碑と大和高田市教育委員会の立てた案内板が歴史を物語っています。

 

高田工場は戦時中、軍の管理下に置かれていました。

工場東側では、延焼防止の家屋強制疎開の通達を受けていました。

町国民義勇隊と警防団の手で実施するのであったから聖戦の為と言う「指令」

で気を抑えても動揺したようだ。(家屋強制疎開、詳細)

《市史参照 後編P864》

1945年(昭和20年)七月二十五日正午過ぎ高田日紡を銃撃宿舎の一部が焼失七月三十日再び火災と記録に残っています。(「高田 の空襲」に詳細)

高田工場へは、動員された学徒が動員されていたが幸い無事のようでした。

 

大日本紡績高田工場  幸町・大東町

現在の日紡・高田工場あと付近

増補 

大日本紡績 高田工場の画像

 

当時の工場内の略図(強制疎開に米軍航空写真掲載)

 

オークタウン南東の記念碑

 

市教委の設置した案内板

 

増補 

 

六反田池公園(日之出町)の梵鐘は、大日本紡績(のちユニチカ)にあった梵鐘で

昭和11年大阪福島工場より高田工場に移されました。


 

昭和53年の工場閉鎖のさい天神橋筋商店街にあった馬冷池公園に移設され

平成6年にさざんかホール建設のため再び六反田池公園に移されました。

昭和20年の空襲を見ていた数少ない日紡の遺品となっています。


 

 

日本鋳鋼所(高田製鋼) 昭和町

 

現在のマンションの北側の入り口付近?

 

 

現在の三喜精麦との境付近

増補 

帝国製鐵高田工場時代の画像です。
手前に線路が見えます。旭町郵便局辺りからでしょうか?

 

1950年代(S30年代)の高田製鋼、建物は戦中の面影を残しています。

写真は組合の労働争議の写真です。

元組合員の方写真提供有難うございました。

 

日本鋳鋼所では艦載機による銃撃で1名重傷・1名死亡の記録が残っています。

現在、同製鋼所は、伊賀上野に移転されました。

増補
 

高田鋳鋼所では、戦争末期に特殊潜航艇「蛟 龍」(こうりゅう)の
クランクシャフトが製作され呉工廠へ送られていました。

蛟龍」は、海軍の最終兵器として終戦時150隻が完成配備されていました。

更に450隻の増産が要求されていましたが
終戦により呉にて多数が放置されました。
開戦時、世界に誇る連合艦隊がありましたが終戦時この4人乗りの小さな潜水艦が
主力兵器だった事は、国力の無さがを物語っています。

 

 

 

現在、跡形も無くマンションが建っています。

小生も跡地近くに住んでいますが戦跡を探しましたところ全く見当りませんでした。

 

 

水道局給水塔の被弾 大東町

S11年完成のタンク、

戦後修理されそのまま使われていました。

 

水道局の給水塔が銃撃され被弾した、という事実もあったようです。

この銃撃は、すぐ隣にあった大日本紡績高田工場の銃撃と同じ、1945年の空襲と思われますが、日時の断定はできていません。

その後、白黒のゼブラ迷彩に塗り替えられたのことです。

 

本町一丁目の空襲 現:南本町

 

1945年の空襲で日時は不明でしたが、住民の方の証言で新しい事実を発見しました。

1945年に空襲警報は出ていなかったのに西の空より米軍機が来襲し、長谷街道周辺で通学途中の高田高等女学校(現:県立高田高校)の生徒にむかって5インチロケット砲と思われるロケット弾が発射されました。

このロケット弾は、付近にあった民家の壁を打ち抜いて、長谷本寺と神社にあった玉垣(石柵)に命中しましたが不発。この時、玉垣 が一本折れ落ち、その他の玉垣は傾いて、ひびが入ってしまいました。

その後、ロケット弾は不発のまま跳弾となって、当時、「辻甚」の所に在った石垣に跳ね返って現在の長谷街道と本郷通の交差点で回転して止まったと言うことでした。

この空襲で死傷者は出ませんでしたが非常に危険な状態だったそうです。

 

 

手前がロケット弾が命中したと思われる玉垣?

 

民家の壁を貫通した後、

手前の玉垣に当たり奥の交差点で回転して止まりました。

 

※この玉垣は、2002年11月に撤去されました。

戦争の遺跡が一つ無くなったのは残念に思います。

 

本町一丁目の防空壕 現:南本町

 

当時:本町一丁目の防空壕があった場所

 

江戸時代の道標が残っている事で有名な南本町の長谷本寺の境内に、本町一丁目の防空壕がありました。

聞き取り調査を行なったところ、防空壕をつくるのにどこからか酒樽か醤油ダルを貰って来て枠組みを作ったとの事です。

木樽の木材で作ったので「腐りにくい防空壕」と言っていたのを覚えておられました。

大きさは、「4〜5メートル四方で20人ぐらいは入れた」、「当時小学生だったが、立ったままで歩ける位でした。」と記憶されていました。

教えてくださった方は、「この防空壕に入ったのは一度きりで、空襲警報が出ていなかったのにロケット攻撃されたが不発弾だった。」(詳しくは、空襲:本町一丁目の空襲)

「普段は、遊び場だった。」と思い出して話してくれました。

 

曙町の防空壕 曙町

 

S50年代に住宅建て替え時発見しました。

元住人の証言で防空壕と判明しました。

 

 

当時このようなコンクリート製の防空壕は裕福な家でしか作れませんでした。

通常は床下に直接、土を掘ったり、土手などに横穴を掘って空襲警報時に避難していました。

 

北本町の空襲(北本町、藤田邸の機銃弾)

 

今も残る藤田邸の機銃弾

 

外壁を貫通した後に、貫いた掛け軸の穴

 

1945年の空襲で日時は不明でしたが、大日本紡績高田工場が襲撃され、高田町水道局の給水塔が被弾した同日とまで絞り込む事が出来ています。

この攻撃で米軍機の銃弾が、藤田さん宅2階の部屋で壁を貫通して部屋の掛け軸に穴が開きました。

その後、部屋の中を飛び跳ねた機銃弾は障子の上の鴨居にあたって、その横の柱にめり込みました。

機銃弾と掛け軸を見せて頂いたところ、ほぼ水平に打ち込まれていました。

藤田さんによると、この機銃弾は一発しか部屋内に入って来ていなかったので、かなり遠い所から大日本紡績高田工場などに打ち込まれたうちの流れ弾の一つだったのでしょうとの事でした。

 

北本町の不発弾  

北本町の不発弾の話

藤田さんの話によれば、旧大和高田市庁舎の北側付近に爆弾が投下されたとのことです。

この不発弾は、郷土史家の故堀江彦三郎さんの日記と照らし合わせると、当時、高田上空に艦載機・陸上単発機の爆撃機の来襲は無く、P51ムスタング戦闘機かF6Fグラマン・ヘルキャット戦闘機の積んでいた軽爆弾(30kg〜250kg)だと思われます。

さいわい、この時も被害は出なかったようです。

 

本郷町の銭湯への銃撃

 

 

1945年8月8日に本郷町の銭湯に機銃掃射が行われました。

この時、ご近所の奥さんの顔を機銃弾がかすめて重傷を負われたとの事です。

 

 

片塩国民学校(旧片塩小学校)への銃撃

 

 

1945年7月28日?の勤労奉仕中に、空襲警報が発令されました。

突然にグラマン戦闘機が超低空で銃撃、運動場に一直線に砂埃が上がったそうです。

※片塩国民学校は、片塩小学校の前身で元の高田男子尋常高等小学校です。

現在のキンショー高田店 ・南都銀行高田支店・コスモスプラザにありました。

大和高田市の奉安殿」に関連記事があります。

増補

仕事中に偶然知った荒れ果てた旧片塩小学校記念碑

ほとんど知られていない。

記念碑の説明文

 

この、空襲の情報は02年 8月11日に高田太郎さんの掲示板への書き込みを独立させました。

詳しくは、一番下の「市民の空襲体験」を御覧下さい。

高田太郎さん、有難うございました。

 

 

高田の空襲

太平洋戦争で日本全土は空襲に見舞われた。

東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・地方都市も次々とやられていった。

そして、この奈良でも例外ではなかった。

奈良市、香芝市、高取町、橿原市、桜井市、明日香村、郡山市による焼夷弾の投下や、艦載機による機銃掃射を受け、死亡者も数名でた。

しかし、この高田にも空襲があったのである。

一九四五年七月二十三日、二十八日、三十日、八月八日、十四日と5回あり、死亡者も出た。

当時、高田には大日本紡績《ユニチカ》、日本鋳工所《高田製鋼》などの軍需工場があり、これらが目標とされたらしい。

それでは、高田における空襲はどうであったか。

これは、郷土史家、堀江彦三郎氏の日記より抜粋させていただいた[高田の空襲]である。

 

1944年(昭和19年)

     7月 4日  朝、警戒警報

     7月 8日  午前1時、警戒警報

     8月11日  はじめて空襲警報

12時、警戒警報 1時半

    11月24日  正午すぎ、空襲警報

    11月27日  12時40分警戒警報ついで空襲警報

    12月13日  警戒警報

    12月22日  高田上空に敵機(B29)初飛来!

午後12時半警戒警報。12時50分空襲警報

            3機編隊、6機編隊、3機編隊、合計3編隊

が高田上空を通過

12月23日  正午、空襲警報。まもなく解除

 

1945年(昭和20年)

     1月 3日  午後1時ごろ、警戒警報、ついで空襲警報

     1月 8日  夜、10時、空襲警報

     1月 9日  午前1時・4時・正午すぎ空襲警報

     1月17日  空襲警報、30分で解除

     2月25日  空襲警報、敵機数編隊で飛来

     6月29日  午前2時〜3時、空襲警報

     7月15日  空襲警報、30分で解除

     7月23日  高田空襲を受く!

            正午ごろ、阪神地方にP51ムスタング戦闘機

110機が侵入

            まもなく、高田上空に襲来!

                                機銃掃射・焼夷弾投下

           大日本紡績(現:ユニチカ)・高田工場の寄宿舎の一部が火災!山内(曙町)1名重傷、銃撃で下顎骨折

     7月28日  高田上空にP51再び襲来

            旋回を繰り返し後に、機銃掃射この時、大日本紡績・日本鋳 鋼所(高田製鋼)が主に狙われる。

     7月30日  高田で、1名死亡・1名重傷

           午前5時50分ごろ、グラマン戦闘機が町の北側より襲来!東へ急降下をしながら機銃掃射!

           大日本紡績(ユニチカ)で再び火災!    

           日本鋳鋼所(高田製鋼)で1名死亡・1名重傷、

     8月 8日  風呂屋が銃撃される、近所の婦人の顔をかすめ重傷(場所、本郷2丁目の銭湯)

            王寺発の列車、銃撃され十数名の負傷者がでる。

            救護隊、高田駅にて救護活動を行う

8月14日       8月14日  高田にP51またもや襲来

            付近の民家に銃撃を加え、午後3時頃引き揚げる。

 

 

この年表は、先にも述べましたが、郷土史家の堀江 彦三郎さん

の日記をもとに制作しました。

※一部、市民の方の情報を付け加えました。


増 補堀江彦三郎氏の日記

 

増 補

戦後30年目にあたる、1975年(S50)に発行された、高田郷土文庫 発行 『大和の星』 《著者 故・堀江彦三郎 氏》の中で、昭和二十年を自身の日記を引用し回 顧されているところがありましたので、ここに紹介しておきます。

 

 

今年は、戦後30年の正月めでたくもあり、めでたくもない思い出の一齣を、回雇することとする。

 昭和二十年一月一日 神仏に灯明をあげ、皇国必勝を祈る。馬見村H君応召につき訪問。

男児二人を伴い近くの巣山古墳に至る。ここには戦いは無く、悠久の静寂あり。

 同三日 空襲警報、B29九十機、銀翼をつらねて、金剛、葛城を北行、大阪、神戸へ向かう。

二上山雌岳山頂付近に高射砲陣地あれども一発も放たず、弾丸のよういなきや、不審のことなり。名古屋に向かえるもの、十七機撃墜され、神風号体当たり二機、三名生還(大本営発表以下同。)

 三月一日 硫黄島日本軍全滅。

 三月三十一日 B29東京大空襲のため在学中の娘、花籠のみ提げて帰る。

 四月一日 敵、沖縄上陸。

 六月十五日 大阪へ三百機、一、七両日の残り全部焼き払う。この時、大和へ二,三機侵入焼夷弾を持って磯城郡平野村満田七十戸を焼く。

 七月二十三日 六大都市のうち京都を除き、悉く焼亡した。中都市も三分の一失った。正午頃P51艦載機百数十機来襲阪神侵入の報とともに、三機高田上空に現れ、機銃掃射、焼夷弾投下、日紡倉庫、寄宿舎火災。

 同二十八日 P51上空旋回、柳本飛行場、王寺火災。京都、奈良の無事なるは、米軍勝つ時兵隊の遊覧地として残すためと言う者あり。

 同三十日 朝五時半頃、頭上にグラマン、正午再来、日紡又もや火災、日本鋳工所では、一名死。一名重傷、われら救護班、泣いて負傷者を運ぶ。

 八月八日 朝小型機銃掃射、近所の軒瓦多数散乱をみる。一人軽傷手当て。この時警察より電話、王寺より到着の列車銃撃され負傷十数人。救護班全員‐医師、看護婦、我ら十人出動。

 八月十五日 天皇陛下、ポツダム共同宣言受諾のむね放送あり。一億慟哭(どうこく)。

 同二十五日 明朝紀伊南海岸関東方面に台風来る。風速四〇メートル、米軍上陸四十八時間延期、神風は遅かった。

 十月二十日 夕刻今里のYさん方で、芋十貫目分けてもらう、一貫二十五円他。入れ替わりに青物屋荷車で来る「ヤミ売」の言葉通り、町では五、六十円となる。

 九月二十五日 近畿地方最初の上陸米軍、和歌山より大阪、神戸へ、高田駅近く停車、米兵の投げるキャンディーに人々争い拾う、浅まし。今日から二十八日まで和歌山線運転休止。

 十一月十四日 天皇陛下 畝傍山陵へ終戦報告。六年前紀元二千六百年の威風堂々たるにくらべ、今昔の感ふかし。

 十二月三十一日 公園のヤミ市迎春物資大繁昌、敗戦の年末、インフレ言語道断也。巡査もすべなし。

国汚(けが)す奴(やっこ)あらばと太刀抜きて仇にもあらぬ 壁に物いう  橘曙覧

                    (昭和五〇・一・一八 大和タイムス)

堀江 彦三郎さんは、先年他界されました。

感謝の意をこめて、ご冥福をお祈りいたします。

 

 

市民の空襲体験

8月のはじめに掲示板にて、

高田太郎さんからの情報提供がありました。

当時の空襲の状態を詳しく書いていただきましたので

ここに紹介させていただきます。

高田太郎さん、情報有難うございました。

市民を狙い撃ち 投稿者:高田太郎 投稿日: 02年 8月11日(日)

戦争の体験を語り継ぐことこそ重要で有意義なことです。このHPをもっと充実して下さい。
応援します。私は65歳高田出身です。終戦時には国民学校3年生だったと思います。
  空襲の項目で8月8日フロ屋(公衆浴場)攻撃は本郷2丁目の△さんの奥さんが2階の窓越しに機銃掃射の弾が顔をかすめ重傷。同じ日に今井町曲川で屋根修理中銃撃されて1名死亡と聞いていました。
いずれも市民を狙い撃ちした米兵に憤りを感じる。
7月23日の日紡への焼夷弾攻撃はすさまじいものでした。
突然ヒューヒュー、ザーザーザーザーという音がして地上400メートルで爆発、無数の火の弾になって広範囲に落下
その時の音はあられ,雹がトタン板に激しくたたきつけるような音で身がすくむ思いでした。
60年経ってもその音は鮮明に耳の奥に残っています。
市街地を米機に攻撃された東京,大阪、沖縄、広島,長崎、ヴェトナムの人々の恐怖は想像以上の物だったでしょうね。
あれは確か7月28日だったでしょうか片塩国民学校(現片塩小)に夏休みなのに勤労奉仕で野原につた(ロープを作る為と聞かされていた)を取りに行くため教室に集合していました。空襲警報になり突然グラマンが超低空で来週窓越しに見ると運動場に機影がはっきり映りバリバリと機銃のおと運動場に一直線の砂埃を見ました。みんなあわてて机の下に潜りました。
  当時の食べ物は高粱(こうりゃん)大豆、とうもろこしごはんばかりでした。
当時高田からも15歳で予科練に行かされた少年が多くいました。そしてその多くは帰って来ませんでした。生還した少年もなぐられ、なぐられで長い期間心身とも朦朧うとしていました。
高田ではこの戦争に反対して警察に引っ張られたのは一貫して反対をつらぬいた共産党関係者以外に多くの宗教関係者(特にキリスト教関係者)のことも特筆すべきでしょうね。
日本聖公会の主教さんは京都でずっと特高の拷問にたえられ終戦まで牢獄に繋がれたままだったそうです。
若い人へ
 ビデオで一度は是非見てくださいね。「きけわだつみの声」「人間の条件」「暁に祈る」他
 

現在の聖公会・高田キリスト教会

 

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