高田の戦時教育

当時、学校では、満州事変から昭和12年7月7日には、日中戦争へと戦線が拡大し教育も次第に戦時色が濃くなっていきました。

昭和92月には、防空演習も始まりました。

 

昭和10年11月 国民精神作興週間

昭和12年11月 国民精神総動員強調週間

     12月 銃後週間 (直接戦闘に加わらない一般国民の週間)

 

と何々週間の名の元に戦時態勢への移行が行われていった。

文部省より出された「国体の本義」は戦時教育の聖典として、昭和12年には高田男子校(片塩小)において東南部教職員組合・会員にも講義が行われ教職員に対しても指導が強化された。

昭和1341日「国家総動員法」が公布され教職員、生徒、児童は「建国奉仕隊」として、橿原神宮の奉仕作業に動員された。

現:浮孔小学校(おおくぼまちつくり館にパネルで確認)

 

昭和14年には「満州国開拓義勇軍」に参加する児童が出て、それ以来、毎年、数名の参加者が出ました。

昭和15年には、「満州国開拓義勇隊教学奉仕教員団」の名の元に各校々 長が満州国視察を行っていました。

昭和15年は、建国「皇紀2600年」(神話で神武天皇が建国して2600年目)にあたり、国を挙げて祝賀行事が行われた。

橿原神宮でも盛大なる式典が行われ天皇の行幸があり高田男子校(片塩小)の生徒・児童も動員され神宮沿道に整列し待機中に数名が日射病で倒れました。

昭和163月、「国民学校令」が公布され小学校は国民学校に変わりました。

この日をさかいに学校は、戦意を昂揚し戦争遂行に向かって国民の練鋮、心身一体の修練、団体訓練の場となった。

そして、昭和16128日太平洋戦争に突入

以後、毎月8日を「大詔奉戴日」として学校教育における戦意高揚に拍車をかけ、校庭の一部は農場になり変わり、各方面へ農繁期には農家以外の子供まで町周辺の農家奉仕作業を行いました。

昭和174月以降、12年の改正があり従来の国定教科書の観念とは趣を変えひたしみやすくなったが、皇国の道の練成という思想がおしこまれました。

昭和17年4月、高田では各小学校にあった※青年学校を統一されました。

そして町独立青年学校が成立しました。

国民学校児童は、例月鍛錬行軍として橿原神宮へ徒歩行軍を実施、燃料不足のため学校用の薪取りに高市郡萱森の官林や磐城村岩橋山に、志都美村への薪割り作業、志都美農地開拓営団奉仕作業にも参加し、学校で炭焼き作業をおこないました。

初等五年の新聞配達隊が全町の新聞を配達しました。

戦争が熾烈になり男女を問わず、国民一体となり「一億一心火の玉」の合言葉に、戦争を勝ち抜くと言う非常事態国民が追い込まれました。

中等学校以上の学徒が「勤労動員令」により工場や農村の奉仕作業にかり出されました。

子供の達の服も男子は国民服に戦闘帽、女子はモンペを履き頭に頭巾をかぶって、登校しました。

弁当は「日の丸弁当」で副食物は何も入れませんでした。

戦地にいる兵隊さんのことを思うとぜいたくは出来ない!「ぜいたくは敵だ!」

と言う考えから日の丸弁当を奨励しました。

また、「ほしがりません、勝つまでは」を合言葉にこの難局にあたりました。

昭和18年1月21日「中等学校令」の公布があり、中等学校の修業年限を4年とし1年繰り上げ卒業となりました。(S22514年卒業を5年と改正)

昭和184月より師範学校(現:教育大)中等学校において国定教科書を使用する。

1月高田実科女学校を廃止してあらたに中等学校令高等女学校規定にもとづく奈良県葛城高等女学校を設置しました。

12月葛城高等女学校生徒は、女子勤労挺身隊を組織、各国民学校高等科児童も

勤労報告隊として最寄りの大日本紡績轄sc工場(現:ユニチカ)奈良県ゴム製品梶i現:浪速ゴム)日本鋳工所高田工場(現:高田製鋼 伊賀上野へ移転)

等の戦時産業に従事しました。

応召者が続出し勤労動員のために幼児のある家庭ではその保育に困難をきたすようになり、それを解消して戦力増強に寄与し高等女学校の家庭教育に役立てようと、一石二鳥をねらって生まれたのが高等女学校付属保育所でした。

高田高等女学校では昭和19年1月15日に開所式を行いました。

保育児は満3才〜満5才までで月額1円とし戦死者・応召者、徴用者の子は免除されました。(S21年4月26日廃止)

また同女学校は「女子挺身隊」三重県鈴鹿海軍工廠に五年生が出動しました。

S208月下旬解散)

昭和19425日文部省は、「学徒勤労動員実施要領に関する件」を指令。

さらに、5月「工場事業場等、学徒勤労動員受け入れ側措置要領」「工場事業場等、学徒勤労動員学校側措置要領」を決定指示し実施に踏み切りました。

この指示で奈良県では大綱として

@        男子中等学校3年以上の生徒を県外工場に派遣すること。

A        女子中等学校5年以上の生徒を県外工場に派遣すること。

B        女子中等学校3・4年学徒は学校工場で作業を実施すること。

C        これらの学徒の指示監督は当該学校の教職員がこれにあたる。

ことを決定した。

これにより、高田高等女学校は516日陸軍大阪被服廠の女学校工場として開所式を挙行しました。

7月には、愛知のトヨタ自動車工場挙母工場へ派遣されました。

昭和19年後期は、内地空襲も必至となり大都市の児童も地方へ疎開させました。

高田町へは、大阪市・中本国民学校児童が専立寺・名称時・順照寺・弥勒寺へ

陵西村へは、大阪市・東小路国民学校児童が大谷別院へ

疎開してきました。(学童疎開に詳細)

昭和202月に高田男子国民学校は、片塩国民学校に、高田女子国民学校は、

高田国民学校に校名を変更し、男女共学になりました。

戦局は、日本の敗戦が濃厚となるなか本土決戦が叫ばれた318日政府は、「決戦教育措置要領」を定め、国民学校初等科を除き昭和2041日より、あくる21331日まで授業停止を決定しました。

194月に葛城高等女学校の1・2年の生徒は柳本飛行場建設現場へ「柳本飛行場建設学徒特攻隊」として出動しました。

5月には「戦時教育令」が公布され学校はさらに軍隊化し軍事教育・防空防衛・

生産技術、その他の戦時に必要な教育訓練が実施されました。

5月には、片塩国民学校の講堂には大阪陸軍航空省倉庫として使用されました。

高田国民学校は中部第13435部隊の本部が置かれ幼稚園舎は葛城高等女学校の学校工場として陸軍被服の動力工場の出張所となりました。

当時の町民は連日、B29が郷土の上空を名古屋・大阪に向かって通過するのを見て、空襲を終えて帰っていくのを歯がゆくみていたと聞いています。

その都度空襲警報が出され、学校では児童を帰らせました。

昭和207月〜8月にかけてP51スタング戦闘機・F6Fグラマン戦闘機

の襲来が続き郷土高田も銃撃・爆撃をまぬがれることは出来ませんでした。

725日正午過ぎ日紡高田(現:ユニチカ)を銃撃、宿舎の一部が焼失、同工場への動員学徒の安否が気づかわれたが全員無事でした。

(「高田の空襲」に詳細)

教職員は空腹の児童を励まし自らの生活の苦しさにも耐えていました。

国力に劣る日本はついに力尽きました。

昭和20815日 ポツダム宣言受諾

敗戦を告げる天皇のラジオ放送が行われました。

占領軍(GHQ)の管理下に入り昭和208月下旬、学徒動員として町周辺・県内外の戦時産業に従事していた生徒はそれぞれ解散し家族のもとへ帰っていきました。

 

旧学校制度の簡単な説明 (広辞苑、参考)

尋常学校     旧制の小学校で初等科教育の学校       修業6年

         (尋常とは普通・通常と言う意味)

高等小学校    旧制で尋常小学校の上に接続した学校     修業2年

尋常高等小学校  旧制の尋常小学校と高等小学校の併設校    

国民学校     1941年小学校を改めて成立した機関、戦時体制への即応と

         皇国民の基礎的練成を目的とした。

修業 初等6年 高等2

青年学校     小学校卒業の勤労青年に産業実務教育・普通教育および軍事教練を施した旧制の学校。

         1935年に実業補修学校と青年訓練校を統合、全国に設置

         39年男子の義務制を実施し、軍事教練を重視!47年廃止。

中学校      旧制で高等普通教育を受けた男子中等学校

                        修業5年(戦争末期4年)

高等女学校    旧制の女子教育機関、男子の中等学校に対応するものとして、明治32年に発足、専攻科・高等科が認められた。

                          修業4年または5

中等学校     中学校(男子中等学校)・高等女学校・実業学校の総称

師範学校    小学校や国民学校の教員を養成した学校 、戦後学制改革で国立の教育学部に改編(今の教育大にあたる)

 

 

尋常小学校→高等小学校 (今の中学?)

     入試

男子中等学校・高等女学校

      ↓入試

大学・師範学校・女子師範学校

 

1941年より尋常・高等小学校が併設され国民学校となりました。中学校進学者は、国民学校・初等科修業時に中学校の入試を受けていました。

 

 

 

 

高田小学校の青い目の人形 大中東

 

アメリカから親善大使として高田女子小学校にやって来た青い目の人形
撮影時、少し傾けましたが目をつぶる細工は壊れていませんでした。
現在、着ている服は里帰りした時に送られた物で、当時の服は下記に紹介

 

1927年(S2)アメリカから日本に親善大使として送られた人形で全国で13000体が海を渡ってやって来ました。

日本からも58体の日本人形が「答返人形」として海をわたり親善大使を務めました。

1941年(S16)太平洋戦争が勃発!その後は「鬼畜米英」の人形として悲劇の運命をたどりました。

多くの人形が火の中に掘り込まれ、中には竹やり訓練の的にされたりしました。

現在、全国に300体、奈良県に4体が現存しています。(奈良県の戦跡に賀名生小学校パトリを掲載)

 

当時、人形が着ていた衣装

 

高田小学校では、1927年(S2年)5月19日に伝達式が行われ、
当時3年の淡野イトさんは、「朝礼で全校児童の前で校長先生が、人形を高く差し上げてみせ、人形を皆で大事にして、
外国の人達とも仲良くしていきましょうと話されました。」と思い出を語ってくれました。

1940年(S15)当時の校長、中家元信さんが処分するのにしのびないと校長室に保存

1967年(S49)同校の創立100周年に初公開され、1976年には児童にも公開されました。


現在は、正面玄関の展示ケースの中で保管されて子供達を静かに、見守っています。


高田女子国民学校(高田小学校 )の戦前の雛祭り写真 大中東


時期は不明ですが戦前の雛祭りの写真です。
普通の写真に見えますが下から二段目右よりの人形が鉛筆で塗り潰されています。
おそらく太平洋戦争中に西洋人形を塗り潰したと思われます。
青い目の人形かもしれません。

増補 高田男子国民学校(片塩 小学校)の記念写真

高田男子国民学校(現:片塩)の記念写真

高田男子国民学校でのグライダー訓練




つぼみ寮の写真、(現在の関西アーバン銀行の所にあった保育所)
右上に少年戦車兵のポスターが貼られている。


増補

鉄兜をかぶり鉄砲を担いだ子供
四歳の子供、こんな子供も戦争の中にいました。
本町(現:内本町)にて


菅原小学校の記念写真


菅原国民学校(菅原小学校の前身)1944年頃
昇降口上に米英撃滅の文字が見えます。 





増補 高田高等女学校(高田高校)の防空訓練

高田高等女学校での防空訓練 1947年(昭和17年)の卒業アルバムより。


訓練前の整列?


水の汲み上げポンプを運んでいるようです。

 
ポンプで水をかけています。


担架での訓練

 

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