現在、大和高田市に忠魂碑が3ヶ所、招魂碑が2ヶ所、忠霊塔が1箇所確認されています。
小生が、高校の頃によく見かけていましたが当時なんとも思わず素通りしていました。
世話役の大木氏のリストより漏れているのに気づき手伝いをしていて
9年目にやっと、確認のため訪れました。小生の独り言は置いといて忠魂碑の紹介をしていきます。
松塚の忠魂碑
近鉄・大阪線の線路沿いにある忠魂碑です。
大正12年、日露戦の忠魂碑です。
すぐ、横に日清戦の戦捷記念碑があります。
増補
戦後にGHQ(占領軍)が戦争賛美する事を禁止した時期に、
松塚の戦捷記念碑と共に現在建っている所に横倒しにして埋められていました
浮孔小学校々庭の忠魂碑
この忠魂碑はプール設置時に移転が検討されたと聞いています。
しかし、強い強い反対の為、今の場所に置かれています。
この学校には珍しく戦前の学校の象徴とも言える二宮尊徳の像があります。
増補
この忠魂碑は、戦後まもなくGHQ(占領軍)が
全国的に戦争賛美をしている記念碑などの撤去命令を出していた頃に、
龍王宮に埋めて隠されていました。
何時の頃からか?元の校庭の端に再びて建てられたとの事でした。
時期は断定できませんでしたが、これからも調査していきます。
時期は不明ですが戦前の卒業写真です。
後方に忠魂碑と三列目右端、男子児童横に
明治天皇遥拝所の石碑があります。
天満神社の忠魂碑・招魂碑 根成柿
天満神社に行くと、まず目に入るのが笑っている狛犬が出迎えてくれます。
(私が笑ってるように見えるだけか?)
鳥居をくぐってすぐ左に2つの大きな石碑が目に入ります。
左が日華事変の忠魂碑、右が日清戦争戦死者の招魂碑です。
隣接する、菅原小学校の記録ではこの神社で戦死者の慰霊や戦勝の祝いを行っていた記録が残っています。
※近所の方に伺うと、菅原小学校の校庭の拡張(1970年頃)に
伴って道を拡張した時、右の忠魂碑は神社の東側60mの所より移転されたとのことでした。
(菅原尋常小学校の沿革誌を参考)
忠霊塔 曙町
昭和十八年七月七日に建てられた慰霊碑、
碑文が 忠霊塔 陸軍大臣 小磯國昭 書とある
献花台に、元大日本国防婦人会 高田町分会とある
裏面
昭和十八年七月七日建之
高田町銃後奉公会とある
観音開きの扉が塔の中央にあるが、納骨堂なのか?
単なる、慰霊碑なのかは情報は無い。
築山の招魂碑 白鷺山 信證寺
築山を取材中に偶然、老人に教えて頂いた日清戦争期の招魂碑です。
元は築山を東西に走っている旧街道沿いの酒店の裏あたりにあったそうです。
敗戦間もない1946年にGHQ(占領軍)の圧力によって撤去されかけましたが、
地元の人達によって信證寺に持ち込まれたようです。
碑文
(表)
征清役忠死者
招魂碑
(裏)
紺時明治廿九年十一月建之
磐園村有志中
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