1「吉田家の神職支配と天理教」(単)(概要)

 近世後期における吉田家の大和国神職支配のあり方を明らかにすることを目的に、大神神社(三輪社)、大和神社、石上神社(布留社)を例にあげて分析した。大和国東部地域の大社であるこうした神社が、吉田家と支配・対立・離反など、神社側の要求と吉田家側の対応によって、それぞれ独自な関係があったことを示した。さらに、吉田家の神職支配の伸張の中で天理教がその配下になっていくことを示した。


2「王政復古・神仏分離による宗教変革と天理教」(単)(概要)

 明治初年の神仏分離政策によって宗教が大きく変化したが、中教院の設置されていた明治7、8年を一つの画期ととらえ、奈良県の神社行政の整備、教化活動を追った。また、天理教中山家での神葬祭の執行、教導活動への協力など、神道化の動きを見せていたことを明らかにした。さらに、「おふでさき」執筆の背景と、教祖の行動の関係を示した。

「大和国における神社制度の展開―明治四年から明治十五年における―」(単)(概要)

 
明治4年の神社改正から明治15年の官幣社神職の教導職兼補禁止までの神社行政を、大和国(奈良県) において具体化したもの。まず、郷村社の確定と氏子取調べの関係を行政区画の問題から扱い、ついで確定された郷村社と官幣大社の関係を教化活動・人事・触伝達等から分析した。さらに、祖霊社の建設状況から教化活動の成果に触れ、改式者の増加、講社の形成、神道教会あるいは教派神道への展開について、奈良県下の状況を明らかにした。


「転輪王講社開設に関するノート」(単)(概要)

 
天理教が本格的に教会組織を形成したのは、明治13年の転輪王講社からであるが、これにかかわって、仏教側の動向を中心に分析した。仏教は、神道国教化政策による打撃だけでなく、地域の近代化要求から受ける圧力もあり、その対応として教団運営を規程化していったが、在地の講社規則には国教化政策の後退した後でも教会大意・三条教憲が組み込まれていること、天理教の仏教的な講社設置には当該期における仏教教団活動の活発化があることを指摘した。


「幕末維新期の神社組織の変容―大和国山辺郡石上社における―」(単) (概要)

 近代神社制度が民衆生活の中で持つ意味を考える事例として、石上社を取り上げ分析した。近世石上社は布留郷民の家格秩序の中心であったが、幕末における朝幕関係の変化の中で復活された二十二社奉幣を契機に秩序が動揺し、以後王政復古と神仏分離によって禰宜・年預・社僧の身分・家格をめぐる争いが生じ、最終的には明治
4年の神社改正によって国家神道下の神社へ変容していった過程を具体的に提示した。


「近世寺僧の「家」と身分の一考察―興福寺の里元を手がかりに―」(単)(概要)

 僧侶の身分は世俗の身分と密接不可分な問題としてとらえ、興福寺の学侶の出身である里元をとおして、戦国末期から近世における寺僧の身分およびそれを支える基盤を明らかにした。戦国期において、坊舎は国人の家産となり、それゆえに寺院は国人の動向に左右されたこと。興福寺の中核は「侍分」として、国人の身分と同質化し、ともに凡下と区分されたこと。近世では、寺院社会と世俗を結ぶ「家」関係が排除されて制度的に分化し(兵僧分離)、寺院内秩序における門跡の位置が高まったこと。また里元は初期には国人の系譜が多いものの、時期を追って藩士が中心となり、身分的にも領主として幕藩体制に同質化していったこと、を明らかにした。


7「天理教伝道の社会的環境―教団組織論との関わりで―」(単)(概要)

 森岡清美氏によって提起された教団組織論・教団ライフサイクル論をふまえ、明治以後の天理教が、教勢を拡大し組織化していく中で整備してきた教団規程を中心に分析した。特に明治20年以後、「家」を中心とする考え方が規程の中に見られるが、これらは明治憲法体制下における家族国家観と切り離して考えることができず、その背景のもとに教団組織や具体的な布教方法があることを示した。

8「近世興福寺領覚書―内部構成と支配論理の特質―」(単)(概要)

 中世最大の寺院勢力である興福寺を取り上げ、その近世化について所領経営を中心に分析した。特に中世以来の伝統的支配と制度的変遷過程に注目したが、前者は支配イデオロギーが呪術(中世)から官僚主義的(近世) になっていること、後者では先行研究のいくつかの誤りを正し、天正8年織田政権の大和指出ではなく、天正13年の豊臣政権による大和国直轄領化がもっとも重要な画期であることを指摘した。


11「明治初年の宗教の世俗化をめぐって―奈良県における開化政策と宗教―」(概要)

 近代化政策の宗教にもたらした影響について、宗教社会学における世俗化概念の一指標である制度的分化と宗教の私化をもとに、奈良県の事例によって分析した。まず、神社の制度化に伴う神社の地域社会からの分化とその影響、ついで村落共同体の位置の低下に伴う個人の宗教の意味増大、学校建設のための廃仏政策に見られる公共の場での脱仏教化とそれに関わって主張される公私(官民) の区別、あるいは医療制度の推進・民俗生活の制限に伴う宗教の私化の問題を取り上げた。


12「近世寺院の脱呪術化と官僚主義について―興福寺学侶引付を一例に―」(概要)

 世俗社会では、社会一般の脱呪術化が進み、教団組織内部には官僚主義が伸長するという理論を指標に、中世の顕密寺院の意思決定機関と価値実現方法が、世俗化が進んだ近世社会の中でどう変化したのかを分析した。意思決定の場である集会(学侶集会)の中から、近世では新たに事務処理を行う集会(唐院会合)が分化し、従来の集会は形骸化しつつも一定の役割を持っていたこと。新たな集会では呪術は支配論理として用いられていないこと。新たな集会を構成する官僚機構が身分制的編成を受けていること。また、呪術性が全く解消したわけではなく内部規範としての残存も指摘している。


13「明治期における社会と天理教」(単)(概要)

 19968月、天理大学などを会場として行われた、第4回日韓宗教研究者交流シンポジウムにおける報告を活字化したもの。近代社会形成期の宗教の問題を代表的民衆宗教である天理教を例に分析した。近代社会は、その展開過程の中で民俗・宗教を抑圧し、その一方で身分制的・共同体的諸関係から個人を析出する。近代の民衆宗教は、析出されはじめた個人の信仰によりかかる事によって、民俗的な抑圧の中にあっても、飛躍的な教勢の拡大が可能になったこと。そこでは従来以上に教義とその内面化の持つ意味が大きくなること。超越的な「神」という表現から、現世的人間的表現(「おや」)に神観念が変化したこととは、社会的圧力と関わっていることを示した。


14「現代社会における家庭」(単)(概要)

 宗教の信憑性を支える構造(
plausibility structure)が最終的に(脆弱な構造しか持たない)家族に帰着するという宗教社会学(Peter L. Berger)の指摘を受けて、明治期以後の「家」と「家族」の変化(核家族化)が伝道の方法・展開と密接に関連する問題であるとした。


15「中近世移行期の春日若宮祭礼と供物負担」(単)(概要)

 近世中期に奈良奉行所与力玉井定時によって筆写された、春日若宮祭礼に願主人が若宮へ届けた供物の送状の分析を行った。その結果、送状は文明から天正期までのものが中心であること、天正期には供物の銭が米へ変化し、送り主が「大宿所」からそこで実際に差配する「惣奉行」という役職者に変化していること、供物は送状通りに必ずしも送られていないこと、送られるものは、国人の勢力によって異なるが、天正期には減少の傾向にあることなどを指摘した。供物負担を強いる「助成」の論理(神の威光)は、寺社勢力を離れ弱小の国人の手のもとまで至って彼らの家の自立を助ける一方、神の威光が相対化されその権威が失われていくのである。

16「ふしから芽が出る―信仰の語りの歴史―」(単)(概要)
 天理教の教語としてしばしば用いられる「ふし」「ふしから芽が出る」の用法について、教祖在世時から1970年代中頃までを検討した。天理教の信仰が拡大した大正期から昭和の初年に信仰を語る用語として定着、天理教の「原典」にない用法を含めて、教内で一般化した。さらに、当時の国家情勢と密接に結びついた教説となり、戦時体制=ふし という認識も生じた。戦後は国家的な説明が後退するなど、用法に変化が見られたことなどを明らかにした。

17「祭礼奉仕人ー奈良春日若宮祭礼に流鏑馬を奉仕した家ー」(概要)
 奈良春日若宮御祭礼(おん祭)で流鏑馬を奉仕する人を「願主人」という。なぜ特定の家が流鏑馬を奉仕することになった根拠、彼らの身分的位置づけを分析することを通して、近世が世俗化した社会であり、その中で祭礼が政治的に利用されることの宗教史的な意味を検討した。


<その他>

(書評)今谷明・高埜利彦編著『中近世の国家と宗教』(岩田書院)」(単)(全文)
           『歴史評論』596号(p78〜82) 歴史科学協議会  1999年12月