おん祭小論
幡鎌 一弘(天理大学おやさと研究所)
春日若宮祭礼(おん祭)は、十二月十五日の大宿所の御湯立(みゆだて)から本番となる。江戸時代にあっては、この大宿所は、願主人(大和士)が、流鏑馬を奉仕するために潔斎(けっさい)する場所となっていた。江戸時代には、おん祭りが十一月に行われていたので、御湯立も十一月二十五日であった。十月の終わりになると、ふだん奈良奉行所に詰めている奈良町の町代が大宿所賄(まかな)いとなり、大宿所に関する雑務一般を取り仕切って、祭礼の準備を始める。町代の一人高木又兵衛が正徳元年(一七一一)に書き記した「大宿所日帳」には、大宿所のこまごまとした様子が記されている。この史料にみられる大宿所賄いの仕事ぶりを中心に、江戸時代の大宿所の姿を紹介しよう。
大宿所賄いの第一の仕事は、いろいろな道具をそろえることである。大食櫃・重箱・盆・入篭・皿・杓子・茶碗・やかん・煙草盆・箒などなど。願主人のためだけでなく、奉行所の役人のためにも準備する。日用品かとおもえば、流鏑馬用の扇や矢、御幣用の色紙・糸・御幣切小刀(ごへいぎりこがたな)、御旅所の仮屋の屋根用板など、祭礼に不可欠な物も調える。献菓子や島台・盃台は、檜物師(ひものし)の手によって作られるが、今では作られていない大折・小折に用いる柑橘類や芋・串柿なども揃えなければならない。
道具の多くは神事用で一回限りだが、中には鍋・釜などのようにレンタルされるものもある。ところで、レンタルは道具に限らない。宵宮詣の供え者人足、御渡(おわたり)の人足・馬など、実際のところは、請合となった奈良の八百屋や道具屋が調達しているのである。
願主人は、ふだんは国中に住み、祭礼時に奈良にやってくる。時期によって違いがあるが、小坂氏(現在の田原本町小阪、桜井市大西)、今中氏・庄村氏・吉田氏(同町唐古)、菅田氏(三郷町勢屋)、坂堂氏(広陵町広瀬、天理市二階堂南菅田)、恒川氏(広陵町古寺)などが勤めている。これらの家は農を生業とするが、名字帯刀を許され、屋敷廻(まわ)りの年貢を免除されていた者もいる。大宿所賄いは、彼等が祭礼に先立って潔斎するための準備をしなければならない。最初のキヨメの場所は竜田川である。ここには御幣岩(ごへいいわ)と塩田社(塩田森)がある。御幣岩の方が有名だが、この二つはペアになっていたはずである。竜田で用いる賽銭(さいせん)・柄杓(ひしゃく)・渋紙や雨に備えての笠や合羽(かっぱ)あるいは挑燈(ちょうちん)まで大宿所賄いが準備する。法貴寺への参詣もまた同じである。その後春日社への参篭、七日前から始まる大宿所での前精進などの段取りもする。
食事の献立も細かく記録されている。十一月一日に祢宜宅でだされる夕食が最初の記述だが、カブラ・イワタケの汁に大根・栗・キクラゲ・ニンジン・キンカンのなます、干瓢とクワイの煮物、シイタケとゼンマイ・揚げ豆腐の煮物、ゴボウのあえ物、シイタケ・あげふ・かんてん・こんにゃく・ホウレン草の刺身、茶菓子は、いも・饅頭(まんじゅう)・つり柿である。以後だいたいこうした料理が続く。品数は多いが、肉類は避けられている。参篭する願主人の夜食は、おろし雑炊、なめしでんがく、小豆かゆ、そばなど。記述は多くないが、酒も用意されている。
十一月二十二日は一日がかりで餅をつく。例年大宿所では九斗五升ついていたが、これでは足りず、別に五、六斗程つくという。餅をつけば、まず春日社へ供え、流鏑馬の児の餅を作り、奈良奉行やその奥向き、あるいは家臣、与力・同心にも届ける。また、台所働きや近所の町人衆にも配っている。お供え物としての気配りも欠かさず、「火の構い」がある餅屋は、別の者にかえられている。
餅つきの日から三日がかりで「掛け物」が納められる。大和に所領を持つ領主は、原則的に何らかの形でおん祭りに奉仕しなければならないが、キジ・タヌキ・ウサギという掛け物を大宿所に届けることになっている。それはおおむね所領高に応じているが、高が多くなると、さらに野太刀・小太刀や槍・杖突・馬等が加わるので、必ずしも一律というわけではない。例えば雉子の数は、多いところで郡山藩から二百羽、幕領(代官辻弥五左衛門分)で百七十一羽、少ないところでは、円満院や青蓮院などは雉子一羽だけである(元禄十三年の例)。このキジ・タヌキ・ウサギが数通りに大宿所に納入されるよう、願主人とともに大宿所賄いも立ち合うのである。これらは、領主が直接持ってくるわけではない。ほとんどは所領の村々の庄屋が責任を持ってあたるし、掛け物を準備するのは請合となった八百屋である。庄屋は請合からこれらを買うだけである。雉子は全部で千二百六十羽余り、狸と兎は約百四十匹である。これだけ揃えるのはなかなか大変だったに違いない。この年には、雉子四十三羽、狸十二匹が腐ってつかいものにならなかったと記されている。また、高値で雉子が揃わず、銀で納めざるをえない年もあった。
掛物は、大宿所に掛けられ、また大宮・若宮そして手向山八幡に供えられる。そして、祭礼が終わると、島台や盃台、掛物や大折・小折の饅頭・柑橘類などは、そのままあるいはくずして奈良奉行所や御師の祢宜、檜物師、町人達へ配られるのである。
「春日大宮若宮御祭礼図」に描かれた大宿所の御湯立の図には、鹿や見物客とおぼしき人々だけでなく、巫女(みこ)のまわりで踊る者や物売りの姿も描かれているが、「大宿所日帳」からも、現在と異なった江戸時代なりの活気があったことを知ることができる。
昨年(一九九六年)のおん祭りは大雨で、今年の神事にもかなりの影響がでるとのこと。伝統を支える関係者のご苦労は大変であろう。そんな中、華やかな神事芸能に目が行きがちであるが、奈良の人々の生活誌としてのおん祭りにも関心を持っていただけたらと思うものである。
『奈良新聞』1997年12月5日(金) なら民俗通信48:HP掲載時一部訂正
おん祭小論
幡鎌 一弘(天理大学おやさと研究所)
「春日大宮若宮御祭礼図」の湯立の図には、願主人が威儀を正して大宿所の縁側に座り、湯立の様子を見物している所が描かれている。あたかも願主人が祓(はら)いをうけているかのようである。さらに、現在大宿所祭で巫女(みこ)が大和士(願主人)を勤める奉賛会の方々に対する祓いを行っているのもこの慣例からだ、と私は勝手に解釈していた。
しかし、至徳元(一三八四)年に記された「長川流鏑馬日記」等を読んでいると、中世では様子が違っている。それによれば、湯立は同じように祭礼日の二日前に大宿所で行われている。当時は九月十七日が祭礼日だったので、湯立は十五日である。しかし、この時願主人は大宿所にはいない。願主人は九月十日から精進屋入りをするが、これは自分の屋敷のことのようで、九月十六日奈良入りして、巫女によってキヨメられた大宿所に入るのである。つまり、中世では湯立に呼ばれた地下の巫女は、大宿所として借り上げる宿を祓えばよかったのである。
しかし、「大宿所日帳」にみられたように、願主人が潔斎のために大宿所に七日前にやってくるとなると、二日前に行われる湯立は、同じ儀礼でも中世の段階で持っていた意味とは変わっている、と考えてよいだろう。
なぜ、そしていつそうなったのか。これを追跡して実証することはかなり難しい。近世初期の大宿所の史料は、なかなか見つからないのである。ただし、一般論としていえるのは、戦国期以来、人々は日常生活の中での禁忌から解放されたいという願望を持っていたという点である。
禁忌の解除に力を持ち、戦国期に勢力を伸ばした宗教が吉田神道である。江戸時代に専業の神主が村の中に生まれてくるのも、持ち回りの神主制度では、禁忌を維持できなくなってきた近世の生活習慣があったからだといわれている。江戸時代の願主人達も、自分の屋敷で禁忌を維持することが難しくなって、大宿所で潔斎するようになったのではなかろうか。
さらに、中世では大宿所は奈良で適当な場所を借りて設置されていたが、近世では餅飯殿町に専用施設として設置された。中世では、湯立を行うことで、どこにでも聖なる空間が確保できたわけだが、江戸時代には、大宿所という固有の施設を設けることで、聖なる空間が宗教施設として維持されることになったのである。ここからも江戸時代とそれ以前の宗教の持つ意味の違いが見て取れる。
そこで、願主人自身が戦国時代から江戸時代にかけてどのような実態を持っていたのか知りたいと思うのだが、史料が無くてなかなかわからない。前回(一九九七年十二月五日付奈良新聞、上掲)紹介した近世で確実に願主人であった家には、中世にまでさかのぼる記録は余り残されていなかったのである。細い糸を何とかたぐっていくと、天正九(一五八一)年に長川願主人を勤めた「箸尾辰巳・広瀬」が江戸時代に広瀬村に住んでいた坂堂家とつながってきた。坂堂家には箸尾氏の詳しい系図が残されており、その末尾にある宗朝・宗次が天正年中から願主人となったとしるされている。当家の阪堂全男さんに教えていただくと、宗朝は天正十二年に没しているとのこと。天正十一年にも広瀬から長川願主人がでており、これらが箸尾(坂堂)宗朝・宗次であったことにほぼまちがいないだろう。宗次は、慶長十六(一六一一)年に願主人として屋敷廻りの年貢免除を受けている。坂堂家は多難な時期を願主人として生き延びていたのである。
今中家の場合、天正十一年に長谷川党新堂家が願主人となったときの惣奉行として、今中四郎兵衛尉の名前が見える。翌天正十二年散在党から奥原氏が願主人となった時にも今中主介が惣奉行を勤めていた。しかし、今中家は、もともと乾脇の筒井氏の内衆である。天正十年本能寺の変後、明智光秀が筒井順慶を誘ったとき、羽柴秀吉にむかった筒井の使者の一人が今中であり、天正一一年、後に大名となった松倉、奈良奉行となった中坊などとともに、特に取り立てられた十一人の中に今中の名がある。もっとも、この今中を今中四郎兵衛と同一人物とする根拠はなく、主介とともにその一族であると推測しておきたい。今中四郎兵衛は、慶長十六年屋敷廻りの年貢免除を受けており、寛文十一(一六七一)年に奈良奉行所に出された願書の中で、祭礼のために小坂修理とともに呼び帰されたとされる人物である。
この今中一族が、散在党・長谷川党の両方で惣奉行となっていることは注目される。流鏑馬は六党で勤めるといいつつも、儀礼を伝える家がかなり限定されてしまっていることをうかがわせるのである。今中四郎兵衛が流鏑馬のために他国から呼び帰されたのも、儀礼の経験を持っていたからであろう。
天正十三年の筒井氏国替以後は、越智氏が中心であった散在党、楢原氏が中心であった葛上党については、郡山に入った豊臣秀長の奈良の代官所で処理されていた。一乗院の配下にあった平田党も同じように処理されており、その実質を失っていた。天正十一年には越智玄蕃が暗殺されており、楢原氏は没落していたものであろうか。散在党・葛上党・平田党による流鏑馬は、中心となる国人の没落・荘園制の崩壊によって消えてしまったと考えられよう。
残りえた三党の内、長川党の箸尾氏は天正十三年以後も奈良に残ったといわれ、流鏑馬は坂堂家が勤めていったと思われる。他の党の流鏑馬が興福寺に主導されるのに対して、長谷川党は自ら願主人を選ぶことができ、領主の没落とは無関係に、長谷川氏人の存在によってその名を残すことが可能であった。ここには、十市氏の後裔伝承を持つ小坂家、あるいは庄村家・吉田家・東家等があった。
中世にはたいへん多くの国人たちが、流鏑馬にかかわっていたが、江戸時代には流鏑馬を奉仕する村に住む侍としての家が定まり、これらの家々によって伝統が支えられていった。明治以後、おん祭も大きな変化を余儀なくされ、現在は、大和士の装束にある紋章にその名残をとどめているだけである。
幡鎌 一弘(天理大学おやさと研究所)
春日若宮おん祭の神事芸能は、お旅所と一の鳥居の直ぐ東側、「影向(ようごう)の松」の下で行われる。松の下は参道より一段高くて、見物には最適である。現在、ここで春日大社の神職が芸能を検知する。しかし、これは明治以後の慣例であり、それ以前は、頭屋となった興福寺の僧侶が出す稚児を中心に、寺僧・衆徒が裹頭(かとう、袈裟で頭・顔を隠す)をして立ち並んでいた。そもそもおん祭が、興福寺による祭礼だったからである。
ところで、江戸時代には、この西側に奈良奉行の席が設けられていた。これは、奈良奉行が興福寺と共に若宮祭礼を主催する存在であったことを視覚的に示している。
では、いつから奈良奉行がこの位置を占めるようになったのだろうか。じつは、この慣例は、天正十三年(一五八五)、豊臣秀長が大和国に入部し、秀吉のための仮屋が松の下に建てられたことに始まる。これは、かなり衝撃的なことで、多聞院英俊は、前代未聞のことだと記している(『多聞院日記』天正十三年一十月十九日)。秀長入部は、興福寺による大和支配を完全に否定するものであり、以後、興福寺領が削減されたことは大変有名である。しかし、秀長は田楽頭役を助成し、流鏑馬(やぶさめ)を盛大に行った。時としてそれは、豊臣氏の敬神と評されることすらある。
秀長入部直後の祭礼を分析すると、以前から連続している旧儀とそうでない新儀が、複雑に絡み合っていることがわかる。例えば、流鏑馬定(六月一日)では、平田党については、平田庄を支配する一乗院へ流鏑馬奉仕者(願主人)指名の旨を伝え、長川党は、やはり長川荘の給主である喜多院に伝えるという。
しかし実際のところ、荘園は秀長によって否定されて存在せず、奈良代官の井上源五が願主人を仕立てていたのである(『蓮成院記録』)。「春日大宮若宮御祭礼図」(「祭礼本」)は、流鏑馬定に際して出される散在刀祢宛の書状が、奈良奉行所の玄関に届けられる、と記しているが、この慣例は、井上源五の時に生まれたのである。儀式は形式的なものとして継続しているが、これを支えたのは他でもない、豊臣秀長だったのである。
さらに、天正十三年の祭礼には、騎馬行列も参加している。英俊はこのことを「馬場の渡りは一段早かった。(略)随兵はなく、カシツキ(傅)の様に馬乗百人も在るだろうか。美麗を尽くした馬鞍以下である。金の槍・唐団扇(からうちわ)で飾った鞘(さや)などをもち、その槍持ちも打ち掛けを二十人・三十人・五十人と色を変えて着ている。前代未聞の見事さである」と華やかな武士の一群の印象を日記に記した(天正十三年十一月二十七日)。この騎馬行列が、流鏑馬にかかわる記述であることは、「馬場の渡り」「随兵」「カシツキ(傅)」からも明らかである。その後、「祭礼本」に秀長の流鏑馬復興が特筆されるのはこのためである。
「随兵」は、鎧兜(よろいかぶと)に身を固め、今でも願主役と共に祭礼行列に従っている。一方、「傅」は、もともと願主の集団のうちで、射手の列の最後に従う役であった。英俊は、秀長家臣の一群を、この傅に見て取ったのである。
秀長が祭礼に参加したのは、流鏑馬の従者の位置であり、それをもっとも大きく華やかに飾ってみせた。おそらく、これが後に「乗込馬」になり、さらに大名行列が加わっていく契機になったと思われる。
秀長の後大和を支配した増田長盛も、慶長四年(一五九九)まで松の下で祭礼を検知した。翌年の関ケ原の合戦で、豊臣方が敗北し、大和には徳川方の大久保藤十郎が入部する。すると今度は、大久保藤十郎が松の下に立ったように、そこは大和を支配するものの指定席となった。一方、秀吉のための仮屋は、その後も暫らく設けられていたようだが、これは、大久保藤十郎の入部の頃、徳川家康が「新儀禁止」を興福寺に伝えたことを楯(たて)に、取り払われてしまった。大久保は、この時かわって屏風(びょうぶ)を建てたが、これも二度としないと詫(わ)びを入れさせられている(「祐範記」)。松の下は、極めて政治的な場所だったのだ。
祭礼に江戸時代の領主がかかわるのは、しばしば行われた政治手法である。代表的なのが、将軍が上覧した江戸・山王社祭礼(天下祭)であり、おん祭はそのさきがけといってもよいだろう。
現在の松の下は、奉行でも僧侶でもなく、多くの市民によって埋め尽くされる。何気無い光景だが、おん祭がいま何を拠り所にしているのか、私達に教えてくれているように思う。
『奈良新聞』1999年11月5日(金) なら民俗通信72、一部修正
おん祭小論
幡鎌 一弘(天理大学おやさと研究所)
明治になるまでは、おん祭に流鏑馬を奉仕する人達――現在いうところの大和士――は、願主人とよばれていた。もちろん祭礼の「願主」(主催者)という意味を込めてである。また、江戸時代には願主役・御師役・馬場役などがあった。
十八世紀前半ごろに作られた「春日大宮若宮御祭礼図」(以下「祭礼本」)では、願主人の由緒が比較的詳しく語られている。その要点は、@中世では長川・長谷川・平田・葛上・乾脇・散在の六党によって勤められていた、A奉仕に当たる国人は、一、二郡から五、七村を領有し、自ら狩をして鳥獣を献上した、B献上された供物の例、C天正年中、大和に入部した秀長は、伊賀から大和武士を呼び返し流鏑馬を復興した、D大宿所は遍照院跡に井上源五によって立てられた、E祭礼は、もともと九月十七日であったが、新穀不熟なので、十一月二十七日に行われるようになった、等々である。この解説によって、私達は願主人についての概略を得、多かれ少なかれ、この影響を受けて研究が行われている。ここでは、おなじみの「祭礼本」における願主人にかかわる叙述を、十八世紀前半に記されたものとして、腑分けしてみることにしよう。
まず、「庁中漫録」とよばれる記録を残し、当時、故実にかなり通じていたと思われる奈良奉行所与力玉井定時と、「祭礼本」の作者が接触していた可能性を指摘しておこう。願主人は、祭礼前日に宵宮詣のために大宮・若宮へ出かける。このとき、折紙の送状をそえて供物を届けることになっていた。前掲のBにかかわって、「祭礼本」には、春日社禰宜(拝殿禰宜)の家に、この折紙が残されているという伝聞が記されている。実は「庁中漫録」の中に、「祭礼本」の作者が指摘するとおりの送状が写されている(幡鎌―一九九九)。「祭礼本」の作者は、玉井定時から情報を得、彼の写本を参照したか、あるいは禰宜に取材して、この一文を認めたのは間違いない。
ところで、「庁中漫録」には「若宮祭礼之事」とよばれる記録も残されている。これは、正徳五年(一七一五)に、若宮神主の千鳥(今西)祐字が、自家の記録をたどり、祭礼日がいつ九月十七日から十一月二十七日になったのかを考証したものである。千鳥祐字はなぜ考証を試みたのか。「祭礼の延引が原因であり、強いて新米不熟が原因とはいえない」という注記からすると、当時、祭礼日延引の理由に「新米不熟」があげられており、それに対する反論でもあったことが窺える。つまり、十八世紀始めまでにEの理解が広がっており、若宮社家が反論したにもかかわらず、Eが「祭礼本」に掲載された、という経緯をたどったようである。さらに新穀不熟による祭礼日の変更が、願主人の項に書かれているところから、国人達の意向によって祭礼日が変更されたという、今日の永島福太郎氏の見解にまで引き継がれた(永島―一九九一)。
たしかに、中世では、願主人(大和国人)の影響力は大きかったと思う。しかし、江戸時代に由緒が叙述されたことと、それとは分けて考える必要がある。ここで注意したいのがAの記述である。果たして、願主人は自ら狩をして鳥獣を献上したのだろうか。安田次郎氏の研究では、中世の供物は、縁ある人々からの、「助成」とよばれる寄進によってしばしば賄われていた(安田―一九九三)。また、天文二十四年(一五五五)の「大仕供殿御祭礼日記」には御神鳥代が三貫文と記されている。つまり、十六世紀には、掛物の鳥獣は狩して獲るのではなく、他から届けられたり、買ってくるものになっていた可能性が高い。江戸時代、掛物(雉・兔・狸)は、大和の国役として一国の百姓に賦課されていたが、実際は奈良の八百屋が揃えて大宿所に納めていた。百姓は金を出し、願主人は奉行所与力と共に、八百屋の納める供物を大宿所で検分するだけである。鳥獣を狩して供えるということは、あってもよほど古い時代の出来事といわなければならない。
武士の嗜みである狩に通じ、武威を誇った大和武士の後裔。「祭礼本」の叙述が醸し出す願主人のイメージは、まがいもなく「武士」である。もっとも、「祭礼本」の図柄をみると、お渡りの行列の中で、射手の児が馬から振り落され、暴れる馬を押さえられず右往左往する様子も描かれている。大和郡山藩士などが勤める乗込馬が、勢いと力強さを感じさせるのと対照的である。
このような、願主人の解説と図柄との印象の違いは、なぜ生じているのだろうか。それを解くには、当時の願主人の様子を知らなければならない。
江戸時代に願主人を勤めた家は、村で生活をしながらも苗字帯刀を許されていた。つまり、大名に召し抱えられるような普通一般の武士ではなかった。たしかに、彼らの中には、中世以来の系譜を持ち、三反を越える屋敷地を持つ有力者も確認できるし、百姓として課せられるべき負担も免除されていた。ところが、十七世紀後半になると、没落するものがいたり、村方からは諸役免除の特権を認めないという動きも出てきている。また、祭礼で願主人に従う弓持・的持といった役は、奈良の請負業者が用意していた。つまり、願主人の家であるという社会的地位は、実質を失いつつあったのである。それに対抗するかのように、十八世紀初頭の願主人は、衛門・助のつく名前から、主膳・越前など通常の百姓が用いない官名・国名を名乗ることが多くなる。帯刀に対するこだわりが確認できるのも「祭礼本」の書かれた十八世紀前半である。かれらは自らのアイデンティティを確固たるものとする由緒を必要としていたのであり、「祭礼本」の記述は彼らの意向に沿うものだったのではなかろうか。
「祭礼本」での書かれ方・描かれ方は、十八世紀前半の願主人を、もう少し広くいえば、若宮祭礼をめぐるなにがしかの言説と実態とを反映している。「祭礼本」の版行そのものもまた然りというべきであろうか。
[参考]永島福太郎「春日若宮おん祭の歴史」『祈りの舞』一九九一年。安田次郎「祭礼をめぐる負担と贈与」『歴史学研究』六五二号、一九九三年。幡鎌「中近世移行期の春日若宮祭礼と供物負担」『神戸大学史学年報』一四号、一九九九年。
『春日若宮おん祭第15集 特集/大和士とおん祭』春日若宮おん祭保存会、1999年11月11日発行、HP掲載時誤植訂正
おん祭小論
春日若宮おん祭の主催者
――別会五師と衆徒――
幡鎌 一弘(天理大学おやさと研究所)
春日若宮おん祭は、明治維新以前までながく興福寺を主催者として行われてきた、ということはよく知られている。その立場を示す場所の一つが、南大門交名の儀である。田楽・十列の児・陪従・細男・猿楽などなど。祭に出仕し、芸能を奉仕する人々がここに集まり、当日の出席を確認するのである。ではなぜ、南大門なのか。
「興福寺が主催者だから」と答えても間違いではない。だが、興福寺といっても大きな寺院組織を持つから、もう少し具体的に絞ることができる。少なくとも、中世後期から近世では衆徒(しゅと)と呼ばれる半僧半俗の僧侶たちが、交名の儀の中心になっている。従来衆徒は、中世寺院の武力として注目されてきた。最近では穢れを払う宗教的な側面がクローズアップされている。十五世紀に活躍した古市澄胤、織豊政権期に大和を支配した筒井順慶はその代表である。衆徒は毎年二月に南大門でおこなわれる薪能の主催者でもある。衆徒と南大門のかかわりは深いと考えるべきだろう。
六月一日、衆徒は新坊で集会を開き、二名の田楽頭役を指名する。これも重要な役割である。ところが同じ六月一日、別会五師(べちえのごし)の坊において、流鏑馬定(やぶさめさだめ)も行われる。流鏑馬定とは、その年の流鏑馬奉仕者(願主人・がんじゅにん)を決定することである。つまり、おん祭の準備は、別会の行事と衆中の行事との二つによって始められているのである。
祭礼前日、宵宮詣(よいみやもうで)に出かけるのは、田楽法師と願主人である。両者が張り合うかのようである。
そもそも別会は、おん祭全体にかかわっている。例えば、祭礼前日、仕丁を使いとして若宮へ遷幸の案内をするのは、別会である。遷幸後お旅所で最初に奉幣するのも別会である。祭礼当日も、お旅所行事はこの別会が指揮をとる。衆徒以上に祭礼へのかかわりは深いのである。
衆徒のもっとも晴れがましい場所が、南大門交名の儀とすれば、一方の別会はどこに位置するのだろうか。現在でもお旅所の南端に仮屋が設けられているが、江戸中期に作られた「春日大宮若宮御祭礼図」では、ここを「中門の仮屋」と呼んでいる。図のように、別会・権別会・三綱二人が出仕、専当が立ち、仕丁は東向きに床机に座る。別会は正面からお旅所全体を見渡すのである。
重要なのは、お旅所に神饌が供えられる時、この仮屋の内では、饗膳(きょうぜん)が行われることである。これは、「饗応の膳」「御相伴の献」とも呼ばれている。飯・芋・干魚・生麩・牛蒡・柑橘類・麩、私にはどうやって作るのか想像もつかないが、「鳳凰」と称する独特の形をした料理などが、一杯に並べられる。「祭礼図」では、別会・権別会が南向き、三綱は北向きに座り、専当が給仕をするという。目立ちはしないが、別会が神事を催すものの代表であるからこそ、お旅所に遷った若宮の神とともに食する姿があるといってよかろう。
そもそも五師は、興福寺全体を管掌する役職で、学侶の中から選ばれる。その中の一人が別会になるのである。別会に従う三綱職は、寺院の統制を行う機関であり、専当は中綱、仕丁は公人とも呼ばれる下級役人である。中世興福寺の寺院組織を研究している稲葉伸道氏の言葉を使うなら、「政所系列」の組織であるといえよう。稲葉氏の整理では、政所系列とは別に、大衆・衆徒系の組織がある。別会と衆徒の行事の並列は、二つの寺院組織に対応すると考えられないだろうか。
「祭礼図」では、別会の五師は、南大門交名の儀や松の下の行事に仕丁を使って沙汰することになっているので、二つの行事も管轄する。もっとも「祭礼図」には、彼らがどこに位置するのかはっきりと記されていない。一方衆徒は、お旅所でも南の仮屋の間に立ち並ぶが――これは中門遷(うつ)りと呼ばれる―――、行事がかなり進み、燎火がともされるような頃である。彼をして主催者と呼ぶにはいささか憚られる。それぞれに持ち場の分担が定まっていたと考えた方がよいだろう。
衆徒と別会が祭礼で重要な役割を果たしていることを示す行事の一つが、祭礼前夜戌の刻(八時頃)に行われる衆徒の蜂起であろう。衆徒は集会場所である大湯屋で、「祭礼には多くの人が集まるから、社頭近辺の異類異形・汚穢不浄の者は厳罰に処す」という口上を述べるのである。衆徒は、口上が終わるとほら貝を吹き、往来を禁じて石を打ち、南大門に立ち並ぶ。穢れを払う役割である。一方、別会は遷幸のための案内を遣わす。すなわち、祭を始めるのである。
ここでは、主に戦国期から近世のイメージで祭礼を語ってみた。主催者たる興福寺の寺院構造が、祭礼の形態や行事の行われる場所、役割に影を落している。興福寺の実態が明らかになって、初めて位置づけも見えてくるようになるのである。
『奈良新聞』2000年12月1日(金) なら民俗通信85、一部修正
おん祭小論
幡鎌 一弘(天理大学おやさと研究所)
現在の春日若宮祭礼(おん祭)では、新しく加わった宝蔵院流槍術を別とすれば、行列の最後を飾るのが大名行列である。「春日若宮おん祭大名行列保存会」の努力によって勤められ、掛け声勇ましく行列が続いていく。
「軍役」として
これは、そもそも江戸時代に、大和に領地を持っていた大名・旗本が勤めたものである。享保期に成立した「春日大宮若宮御祭礼図」を例にとれば、長柄(槍)の奉納について、松平甲斐守(郡山藩)の百三十本を先頭に、藤堂和泉守(津藩)五十六本、植村右衛門佐(高取藩)三十本、柳生但馬守六本、織田下野守(柳本藩)十五本などと記している(左図、いずれも「春日大宮御祭礼図」)。「祭礼図」をみると、長柄だけではなく、徒歩の諸士、挟箱や弓矢を持つものも行列に加わっているから、参加の人数は長柄の数よりかなり多かった。もっとも、「大名行列」とは記されず、「前後役人諸士行列」とある。
現在は行われていないが、長柄の前には、大名その他が奉仕すると注記のある「乗込馬」百三十三疋があり(右下図)、その後ろに郡山・高取・小泉・伊賀の各藩が奉仕する「将馬」(いさせうま)四十四疋が従う。「将馬」は、鞍のみの馬である。野太刀・小太刀・長刀の持ち手や、警護役である「杖突」も大名から出すことになっていた。狸・雉・兎という大宿所への掛鳥(掛物ともいう)の奉納を含めて、おおむね大和に与えられた領地高に比例して義務を負っていた。一種の軍役と呼んでよかろう。
大名がおん祭の奉仕に加わるようになったのは、豊臣秀長がおん祭を主催・参加した所から始まっている。もっとも、その参加の根拠は、願主人による流鏑馬奉仕の延長線上にあるというのが、私の考えである。長柄が流鏑馬を警護するのも、その根拠の一つである。
小泉藩人馬奉行の祭礼準備
では、どのように大名が奉仕したのか。幸い小泉藩の島田実吉が記した「春日御祭礼人馬奉行勤方之記」(文政元年〜明治元年)という史料をみることができたので、この史料から、江戸時代後期における小泉藩の勤め方の概略を紹介してみよう。
表題にもあるように、小泉藩では奉仕の責任者を「春日御祭礼人馬奉行」といった。しばしば人馬奉行を勤める河野三郎右衛門が、御用人寺社役であったから、かなりの要職である。これと同格の人たちが、交替でつとめていたようである。もっとも、服がかかったり他の出役があったりすると、役から外れる。人馬奉行には、手当銀が支給されるが、家禄九十石以上が銀二枚、それ以下が三枚となっている(天保十三年以前は百石が基準)。これに、添役・長柄小頭・神馬小頭・賄方が伴うことになっていた。
人馬奉行は、早くて十月十五日、遅くとも十一月の初めには任命される。十一月一日には、奈良奉行所から掛鳥・神馬・長柄等の奉仕を命じる書付が届くからである。十一月二十日には、掛鳥納入に立合うため賄役が奈良に出向いていく。
十一月二十一日から、本格的な準備が始まり、人馬奉行は精進潔斎に入る。竜田川へ垢離をとりに行き、塩田社へ神楽銭を奉納する。人馬奉行の食事は別火を用い、門の鴨居に注連縄を懸け、祓いの巫女に賽銭を渡している。穢れについては、かなり気をつかっている。
行列の人数は作事方が揃え、奉行が馬の毛振を厩で実見している。奉行につく草履取は心得のあるものを特別に雇うなど、なかなか細かい気配りである。祭礼前日の二十六日には、若党や押(おさえ)の足軽なども寄って来て、門前で奴が足揃の練習する。奉仕するものに立居振舞を注意するが、奈良奉行所から中年以上の「神妙の者」で勤めるように指示があるところをみると、行列の礼儀作法はいささか怪しかったようだ。
早朝から出発
祭礼当日の出発は八つ半というから、午前三時半頃である。郡山・大安寺で休憩するが、大安寺の茶屋で熨斗目・麻裃に着替え、六つ(午前七時)過、開門に合わせ奈良奉行所へ出仕の挨拶に出向いていく。
挨拶の後は宿で休憩。この間に神人が馬の祓いに来ている。五つ半(午前十時前)には、郡山藩の神馬・長柄が到着し、高取藩の後に続いて桟敷へ出る。ここで渡りの順番を待つが、高取藩・郡山藩の出役と手札(名刺)の交換、衆徒への挨拶などがある。九つ(正午)頃に、宿から弁当が届き、桟敷の上で後ろを向いて交替で食事をとる。
七つ時(午後三時)頃から諸士の渡りが始まり、紐で袴のすそを結びあげ(上図参照)、案内に従って松の下を渡る。奈良奉行の前を通る時には目立たぬよう目礼する。渡りが終わると、槍を立ち並べた後ろで挟箱に腰掛けてしばらく控えている。この様子が、「流鏑馬之図」に描かれている(左下図)。奈良奉行への名札披露がすむとそのまま退散。小泉にかえると、家老・目付などへ無事奉仕が終わったことを報告して、その年の人馬奉行の役目が終わる。
年によって若干違いがあるが、おおむね以上のように勤められている。厳寒の中、早朝から動き始め、しかも長時間桟敷に座っていなければならず、老齢になった河野三郎右衛門が粗相を恐れ代勤させたのもよくわかる。
社会の縮図
この手覚によれば、郡山藩・高取藩も主体的に人員を動員して奉仕しているが、このような例ばかりではない。例えば、幕領に準じている織田豊前守の「預所」では、安永九年の記録では、雉・兔・狸だけではなく、小太刀持・野太刀持・鎗持・杖突・馬およびその乗手までが、吉野屋善十郎という請負によって用意されている。これらは、江戸時代の貨幣経済の浸透や社会的分業、しいては身分のあり方に規定されている。祭礼が特別な儀礼空間を生み出しているとしても、江戸時代の社会性が鏡のようにそこに映し出されているのである。
『奈良新聞』2001年12月7日(金) なら民俗通信93
おん祭小論
幡鎌 一弘(天理大学おやさと研究所)
長い歴史の中で、春日若宮おん祭が最も大きく変化したのはいつか、と問われれば、「明治維新」と答えてほぼ間違いはない。以来、いくつかの行事は失われ、あるいは名前はそのままでも、形態はずいぶんと変化してきている。
明治初年の変化
厳密にいえば、画期は二つある。まず、明治元年、神仏分離政策により、興福寺の僧侶が一斉に春日社の神職になった時点である。春日社・興福寺の混乱はよくしられているが、おん祭では「従来通り」が強調され、還俗した興福寺の元僧侶は、袈裟ではなく浄衣を着て従来の役をつとめた。また、廃止された奈良奉行所の代わりに、奈良県から役人が出仕していた。一方、郡山藩などは奉仕する人馬・掛物の数などを減らし、田楽の色幣も白幣に改められたが、これは間違いとして、明治二年になると元に戻されている。日使は、明治元年は氏長者九条道孝が奥州へ出兵中、翌明治二年にもやはり氏長者が不在ということで、奉仕は見送られている。
二つ目の画期は、寺社領の上地・神社改正・廃藩置県があった明治四年である。神社の社家・禰宜、あるいは興福寺から還俗した神職の大多数が免職、以前から下付されていた祭礼経費も次々と削減されていった。しかも寄付を集めることも許されなかったため、儀式を統合していかざるをえなかった。変化の大きさでは、もっとも大きな画期ということになろう。
明治六年十二月になって、寄付集めが認められ、行政組織を通して寄付の帳面が村々へ回された。しかし、繰り返し督促されているところをみると、成果は思わしくなかったようである。
祭典経費調達のために、春日若宮御祭典世話方によって春日講が作られ、有志による寄付金を募ったのが明治十一年九月である。一人あたり月一銭五厘を五年間積み立て、祭典の隆盛と悠久を図ろうとするものだった。また、旧春日社・興福寺領の領民による第二春日講も結成されて、旧慣保存の動きが出る明治十六年ごろまでの、もっとも多難な時期を支えていた。
南大門交名の儀
さて、大きく変わったと実感させる行事の一つが、南大門交名(きょうみょう)の儀である。明治初年に途絶えていたが、昭和六十年に復興され、奈良県庁前を出発したお渡り行列が、南大門跡にさしかかったときに行われる。現在の行列は、JR奈良駅方面からお旅所に向かい三条通をのぼってくるから、東向きになる。ところが、気をつけて『春日大宮若宮御祭礼図』をみると、行列は西向きで、今と方向が逆なのである。
東向きに移動する理由のいくつかは推測できるが、正直よくわからない。少なくともいえることは、交名とは奉仕者が名乗りをあげることだから、形式化しているとはいえ、南大門が行事の出発点なのである。
たとえば、明治二年に大和士がまとめた行事書では、近世では、祭礼当日、願主人は餅飯殿町にある大宿所から、樽井町・猿沢池北端を通り、現在の大仏館の前に出る坂道(馬道)を通って、東側から南大門の警護役につく。そして、願主人がだす射手児(いてのちご)・揚児(あげのちご)・随兵は、順番を待って交名をあげることになる。
交名が済むと、児の一行は東向町・花芝町・鍋屋町と興福寺の築地をまわり、東北の穴門から興福寺の中に入り、観禅院で出番を待つ。この観禅院の場所は、奈良県庁東側駐車の北東あたりである。一方願主役は、東へ向かい、御旅所東南の鷺原に休幕(やすまく)を設けて休憩する。御師役・馬場役は、南大門から一の鳥居前を経て観禅院へと向かう。
田楽の一行も今とは少し違う動きをする。田楽はいちばん最初に交名をあげ、南大門から興福寺内にはいって、他の交名が済むのを待つ。交名後、南大門を出て、やはり西へ向かい、東向町を抜けて初宮大明神で田楽の奉納をする。この田楽の初宮詣は、現在、お渡りの前に行われている。
興福寺の祭礼から春日の祭礼へ
なぜ、このようなことになるのか。それは、若宮祭礼を奉仕する集団の多様性と自立性にあるといってよいだろうと思う。祭儀は若宮神主が中心となり、奏楽や舞楽は南都楽所が、田楽は田楽座が、流鏑馬は願主人が、猿楽は能役者が勤めている。各自がそれぞれのパーツを分担し、南大門交名の儀につどって、初めて全体が姿を見せ始める。ある種、ジグゾーパズルをくみ上げるような感じさえする。コーディネーターは、祭礼全体を運営する興福寺の別会五師(べちえのごし)であり、近世では奈良奉行所がかかわってくる。
明治以降は、興福寺の祭礼から春日大社の祭礼へとシフトし、しかも神社の主導的な要素が強くなっている。明治元年の画期の意味はここにある。
祭礼の復興
歴史を経て、現在の行列にも深い愛着がうまれているし、春日大社の祭礼としての性格付けもはっきりしている。復興は単純に江戸時代あるいはそれ以前に戻すことではなく、その時代のものとして生きていくことが求められる。
気をつけて現在の南大門交名の儀をみると、壇上の興福寺僧は大名行列の前に退席する。これは、江戸時代の衆徒の年中行事に従ったという。『春日大宮若宮御祭礼図』でも大名行列は南大門で交名をあげていない。ここに、定着している行列を生かしながら、旧儀を復興した神社の見識が示されている。
『奈良新聞』2002年12月10日(月) なら民俗通信103
江戸時代の奈良(上)
――おん祭と大宿所――
おやさと研究所研究員 幡鎌 一弘
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「江戸時代の奈良」という題をいただきましたが、本年は春日若宮の神が出現して一千年になるそうですので、関連の話題として、「春日若宮おん祭」について講義をします。おん祭といっても、話す要素がたくさんありますので、今日は大宿所に場所を絞りながら話を進めます。ご存知かと思いますが、大宿所は餅飯殿町にある建物です。
レジュメには「華やかな古代史」と書きましたが、奈良といえば古代史であります。奈良時代の政治の中心であり、興福寺や春日大社あるいは東大寺が創建されました。これらの寺社が最も勢力をもったのが中世であり、さらに戦国時代には、寺社の下で成長してきた国人たち、古市澄胤や筒井順慶などの有名な人物が登場します。
それに対して、今日の話の中心となる江戸時代はあまりぱっとせず、地方都市化していく時代であります。しかしながら、考えてみますと、江戸時代はそもそも地方の時代であります。その頃の奈良は何をしていたのか。晒・墨以外に、特に目立った産業はなかったのですが、やはり奈良といえば人々が寺社の参詣に訪れる地です。後にはそれが観光となり、その流れが観光都市奈良へと繋がってきています。
しかし、奈良という地はそれなりに政治的な場所でした。何より興福寺と春日社の両方を合わせると知行二万一千石になり、その限りでは立派な大名だといえます。大和国では、大和郡山藩が突出して大きく、芝村藩とかになりますと一万石ですので、春日社興福寺は、奈良ではそれなりに大きな勢力を持っていたといえます。江戸時代の寺院の中でもトップクラスの知行地です。
春日社興福寺領二万一千石といいながらも、現実には、内部でこまごまと分けられています。まず春日社が三千二百石あり、その中が社家と禰宜とでほぼ半分ずつに分割されました。興福寺の寺門分は一万五千石ありました。個別の坊舎、例えば多聞院や宝蔵院といった坊舎まで知行を与えられていたので、実際には一万五千石すべてが寺院の共有財産ではありませんでした。これとは別に、一乗院に千五百石、大乗院に九百石、衆徒に三百八十石が与えられていました。中世でいえば、筒井順慶や古市澄胤といった人たちが衆徒の身分でした。近世になると大名化した人たちはいなくなりまして、奈良に住んでいた僅かな人たちが衆徒となります。例えば三条通の中ほどにあった漢方薬局の菊岡さんが衆徒でした。近世の興福寺の領地は、奈良市内あるいは大和郡山市内に与えられました。
奈良奉行所は、今の奈良女子大学のある場所にあり、幕領だけでなく、大和一国の行政に関わります。もちろん大名はいますが、領地間の訴訟などが奈良奉行所で審議されます。そこで扱われないもの、解決しないものが、京都なり江戸へもっていかれるようになっていました。その側に興福寺があったわけで、奈良は地方政治の中心であったのです。
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春日社興福寺は、大名と同じぐらいの地位を与えられていただけではなく、それ以外にも数多くの支援を幕府からうけていました。春日社でいえば、二十年に一度造替をおこないます。社殿を全部建て直すのですが、その都度幕府から二万石を与えられました。
興福寺に対しては、寺領の中に修理料が設定されていました。それとは別に、慶長五年の関ケ原の合戦があった直後に、徳川家康が、もし何かあった時には寄付すると約束をしています。これが実際に実現したのが、寛永一九年の火事の時であります。この時は一乗院などが焼失しましたが、約束通りに修理料が寄付されています。しかし、興福寺が享保に火災にあったときは、幕府自身が財政難で寄付できず、勧化での再建を命じられます。このため、なかなか再建が進まず、現在に至っているのはよくご承知のとおりです。二十年に一度の春日社造替への二万石の寄付は、財政難に苦しみながらも幕末まで続くことになります。
これ以外に、毎年の春日若宮おん祭に対しても幕末まで支援しておりました。
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徐々におん祭のほうへ話を進めていきます。
奈良奉行所(幕府)によるおん祭への寄付や奉仕には幾つかありました。
一つは御殿木の木です。毎年、若宮のお旅所御殿は作り直されます。御殿あるいはそれ以外の仮屋を作るための木は、幕府が面倒をみることになっていました。奈良奉行所は、毎年、幕領・私領をとわず、大和国の村々に約千四百本を賦課します。江戸時代の村の規模は石高で示されますが、その合計が三万四、五千石程度になるように村々を選びまして、あたった村々がだいたい百石で五本程度を納めます。購入する場合もあったようです。翌年は、別の村々が選ばれるというように、毎年順番にあたっていきます。ただし、吉野郡に関しては、二十年に一度の造替の木を寄付しなければならないということで、免除されました。
次に掛物ですが、これは大宿所に掛けるお供え物です。雉(千二百)・兎(百三十六)・狸(百四十三)が供えられます。大和に領地を所有する大名や代官などが、奈良奉行所の指示により、知行高に応じて大宿所に納めます。
今でも大宿所には掛物を掛けますが、兎や狸を掛けることはさすがに難しいようです。かわりに鮭が多く掛けられています。
雉千二百、兎・狸それぞれ百数十と一言にいっても、集めるのはなかなか困難だと思います。これらは、領主が捕ってきて大宿所に届けるわけではありません。ほとんどは村の庄屋が責任を持ってあたり、物を準備するのは請負となった八百屋・道具屋でありました。庄屋は請負から雉などを買うのです。腐ったものが混じっていたという記録がありますから、相当前に捕っていたことが推測できます。数が多く、揃えるのは業者でも大変だったのでしょう。
納められた掛物は、大宿所に掛けられますが、若宮・大宮・手向山八幡に運ばれ供えられます。
それ以外の奉仕に、大名行列・乗込馬・流鏑馬があります。現在、乗込馬は行われていませんが、大和の領主から騎馬が一三三頭だされていました。
このように、江戸時代のおん祭は、大和一国の国役、国中が奉仕する祭礼であったといってよいのです。
◇
さて、次に流鏑馬についてお話をします。
江戸時代の流鏑馬には、天正一三年に豊臣秀長が大和に入り、筒井氏が伊賀に国替されておん祭が衰退したため、これを嘆いた秀長が、流鏑馬を奉仕する大和国人たちを呼び戻して奉仕させた、という伝承があります。呼び戻したのは事実かもしれませんが、衰退を嘆いたのではなく、秀長はおん祭を利用して自分の政治的な立場を築こうとした、と私は考えています。
大宿所は、流鏑馬を奉仕する大和士あるいは願主人と呼ばれる人たちの宿所であり、江戸時代を中心に考えると、彼らの潔斎する場所でもありました。江戸時代のおん祭は十一月二十七日に行われていましたが、大和士は十月晦日に集合して、十一月一日に春日社へ参詣します。実際は十月晦日にやって来るのは代表者で、全員が揃うのは祭礼の七日前となり、ここで潔斎をいたします。
戦国時代までは、祭礼前日に奈良入りしますので、潔斎は大宿所では行われていません。直前に奈良へきた国人たちの宿所だったのです。小宿所という言葉もありますので、中心となる宿所が大宿所であったと思われます。大宿所は江戸時代になって潔斎する場所になったのです。
では、近世の大和士はどのような人だったのでしょうか。彼らは苗字帯刀を許されていますので、形式的には武士です。ところが江戸時代の武士は、城下町に住んで行政を執り行う人です。田や畑を耕さないというのが本来の姿です。しかし、大和士は苗字帯刀を許されているが、田畑を所有している。非常に中途半端な存在ですが、近世初期の段階では彼らが村の行政を握っています。
◇
現在の大宿所は、十数年前の火災後に再建された建物です。大宿所祭の時には、おん祭に奉仕する人たちの装束が飾り付けられています。大和士の装束も並べられますが、このなかに、丸に違い鷹羽や丸に菅の文字をあしらった大紋があります。これらは、江戸時代の大和士の家紋でありました。大和士には、菅田家・今中家・庄村家・小坂家・坂堂家などがありました。このうち何軒かは回らせていただきました。
菅田家は今も古い建物が残っておりまして、非常に立派な屋敷です。江戸時代の史料では、この辺りは城垣内と呼ばれていました。菅田家の近辺が城館であったことを推測させます。
今中家は、私たち文献研究をする者にとって、非常に重要な家です。それは、中世での流鏑馬の勤め方を示した「長川流鏑馬日記」という史料を所有していたからです。残念ながら後裔の方の所在はわかりません。
庄村家は、今中家と同じ村に住んでいて、墓は今も村内にあります。昭和の初までに村を出てしまっていたようです。今は、無縁仏となっています。墓石には門弟中と彫られていることから、恐らく何かの先生であったと思います。
広瀬村の坂堂家は、現在は広瀬村を出られて、王寺の方へ移り住んでおられます。こちらは箸尾家の系図をお持ちで、墓も箸尾氏と同じ常念寺にあります。
このような家の人々が、十月晦日に潔斎をします。潔斎の場所は竜田川にある御幣岩です。この場所はおん祭に限らず、大和盆地の宮座の多くが垢離を取りに来る場所でもあります。おん祭に参加する小泉藩の人馬奉行も竜田川で潔斎しています。この御幣岩の向かい側に塩田森があります。以前はここに塩田社というお宮があり、潔斎の時にお参りをしていたようです。現在、塩田社は稲葉車瀬村の白山神社に移されています。
大和士は、潔斎を済ましたあと春日社あるいは法貴寺へ参詣します。これ以後の大宿所での準備は、ふだん奈良奉行所に詰めている町代が準備をします。彼らは大宿所賄となり、奉行所から下付される賄料によって、賄ごと一切を担当します。
図1は江戸時代の大宿所を描いたものです。
右上には、先ほど説明した掛物が書かれています。広間に装束の飾り付けや献菓子があり、巫女が御湯立をしている様子も描かれています。
図2は明治初年に書かれた献菓子の説明です。青松葉・散米袋・ひねり物(米粉の団子)・五色の御幣・衣かずき芋・みかん・干し柿・餅などをつけます。下のほうには梅と椿の造花が作られます。
図3は嶋台です。嶋台には椿・梅・杜若・牡丹・石南花・百合を飾り付けます。嶋台・献菓子あるいは盃台・絵馬は、桧物師や絵師が毎年作ります。
大折・小折は数年前に復興され、饅頭が供えられています。江戸時代には、柑橘類なども供えられておりました。意伝坊菓子という、もち米・胡麻・あずき・山椒・芥子・味噌で作るお菓子もありましたが、今は行われておりません。
供え物以外では、安田板が二万枚、餅をつく杵・臼、湯釜・桶・小鼓・太鼓なども用意しなければなりません。図1を注意して見ていただくと、小鼓や太鼓を打ち、踊っているところが確認できます。今の御湯立とやや趣が異なって、昔はにぎやかだったことがわかります。
お供えの餅は、十一月二十二日につきます。春日大社へ供えたり、稚児餅にしたりします。餅は奈良奉行、奉行所の与力・同心、奈良町民へも配られます。大宿所へやってきた与力・同心へは、汁の中に餅を入れて振舞ったようです。
祭りが終わった後、掛物・大折・小折といった供え物は、奈良奉行所や禰宜・桧物師あるいは奈良の町人に配られます。
これらの準備から片付けまでの段取りを、すべて町代が取り仕切ったのです。
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現在のおん祭は、中世でも古代でもなくて、江戸時代の形態に明治初年に変更が加えられた方式で行われているところが多くなっています。祭礼に際して参照されている図は、江戸時代・明治時代に描かれたものです。大和士の装束にしても、江戸時代の大和士の家紋が使われていたりするわけです。
江戸時代のおん祭には、例えば、奈良奉行が奉仕するという政治的な問題、あるいはおん祭に奉仕する家に苗字帯刀が与えられたという身分的な問題がありました。奈良に領地を持つ全ての領主が何らかの形でかかわり、費用は領民に賦課されました。たくさんの人あるいは物が奈良に集まってくるという消費活動もあります。
江戸時代のおん祭は、中世に劣らないだけの大きな影響力を持っていたのです。
『興福寺仏教文化講座要旨第226回』興福寺教学部、2003年2月8日
おやさと研究所研究員 幡鎌 一弘
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前回の講義は、今年の奈良の話題である春日若宮御祭神出現一千年祭に関係して、「おん祭」について話をしました。今年の奈良のもう一つの話題が大河ドラマの「武蔵」で、そこに宝蔵院槍術が登場しました。私は武道としての槍術の話はできませんが、大河ドラマに登場した宝蔵院を通して、近世の興福寺、あるいは近世の奈良について話をしてみようと思います。
近世の興福寺については、あまり研究されていません。数少ないものの一つに、平山敏治郎先生の「寺元について」があります。
興福寺は一つの寺院ですが、たくさんの子院がありました。一乗院や大乗院をはじめ宝蔵院や多聞院など数多くの子院が集まって興福寺という一山寺院を形成していました。僧侶はふだん子院に住んでいて、金堂をはじめとする諸堂へ出勤して法会に奉仕をします。
多くの僧侶がそれぞれの子院に住みつつ、組織を作って興福寺全体を運営していくわけですから、僧侶のことをよく知って、一人一人の僧侶がどのような判断をして、どのような動きをしているのかを見ないと本当のことはわからない、と私は考えています。
僧侶たちは妻帯せず子供がいないので、弟子をとり弟子に教えを伝えていきます。しかし、現実には全く素性のわからない子供を弟子にするわけにはいかなかったようで、比較的血縁の濃いところから弟子をとる慣行になっていました。つまり、僧侶は完全には世俗から離れておらず、実際には父親、あるいは兄弟たちとの関係も深かったのです。一方で、仏法に従うという寺院の論理もありました。このように、僧侶は世俗、すなわち家の論理と寺院の論理のあいだで揺れながら活動していたと思われます。
このような僧侶の状態を端的に表現しているのが、近世でいうところの寺元制度です。寺元制度は南都の諸寺院でみられます。法隆寺の高田良信師が『法隆寺子院の研究』という本を書いておられますが、この中で以下のように述べています。
これら学侶堂衆の子院について注意しなければならないのは、「寺元」という制度が生じていたことである。この制度の発生時期は明らかではないが、おそらく徳川初期には成立していたものと考えられている。(略)本来、寺元は子院への経済的援助を行うことを目的としたものであり、子院に対してはけっして有害なものであってはならなかった。しかし、徐々にこの制度が無益有害なものへと進む傾向をみせるのである。(略)やがて、この寺元の権利が、ついには寺元株として利権化し、売買されるようになったという。
この文章は、実際のところ平山敏治郎先生の「寺元について」の要約ですので、この部分を読んでいただければ、だいたい了解していただけると思います。簡単にいえば、寺元とは、院坊と特別な関係を結んだ家筋であること。身分制とかかわっていること。そして、寺院を後援するが私物化もしていること。ただし、「徳川初期」の成立ではなく、その淵源は中世寺院の荘園化、つまり寺院が家産化していったところにあります。
近世では、寺元(里元・家元)と言われますが、中世では「自専の坊」と呼ばれています。
大乗院尋尊が書いた日記『大乗院寺社雑事記』明応三年六月二十五日の記述では、竹林院は一乗院殿が「自専」し、そこの院主は雇われて少しの間管理を任されているだけだとされています。例えば坊を誰に譲るかの権限は、一乗院家が持っていたことになります。
また、明応元年十月九日条には、九条政基という有名な元関白と尋尊とのやりとりがあり、それによると、「十三歳になった自分の子供を大乗院政覚(尋尊の後継者)の弟子に授ける」という政基の書状に対し、「大乗院は九条家が自専しているのですから、それで結構です」と答えています。尋尊は一条兼良の子でしたが、九条家の方に適当な人材がおらず、九条家から大乗院へ招聘されて来たので、後継者を選任する権利はなかったのです。
このような慣行が中世から始まって、それが近世でも行われているということになります。先ほどの例は公家レベルの寺元ですが、戦国時代になると僧侶と家との関係は国人レベルでも色濃くなっていきます。
国人レベルで考えた場合、弟子になるには厳正な身分審査をクリアする必要があります。身分審査では家柄や先祖が問われます。その上で諸大夫、あるいは侍の家筋と判断されれば、興福寺の学侶になる資格が得られたのです。審査で駄目だった場合は、臈分と呼ばれ、出世はできません。
◇
身分審査は、入寺する個人に対するものですが、その家柄や家職が審査の対象です。毎年ではなかったようですが、◆州会といって、法相二祖の◆州大師の忌日に厳修する法要の場で、身分審査が行われておりました。これにパスすると学侶の身分が与えられたのです。
天和元年に身分審査を巡って、明星院・実証院などが問題になりました(「二条宴乗事要聚」天和元年十二月十一日条)。ここでは、明星院の弟子の家元が不確かであるからよく吟味したいと、大乗院に問題が持ち込まれます。家職に不似合いなことを行ったというのがその理由です。結局、明成院の弟子は身分審査にはパスできませんでした。実証院の弟子の場合は、濮陽講(同じく身分審査がある)のとき、すでに問題になっていて、その時の理由が「京都の材木屋の子供」だからということでした。町人では身分審査にパスできなかったことが伺えます。
尺迦院の場合は、弟子の出身が宇治田原の新氏であるが、新氏が茶師であることが問題になり、吟味の結果、家職は茶師もやっているが家筋は侍であると判明したので、身分審査にパスしています。なかなか、厳しいものがあります。
時期は遡りますが、寛永三年にも身分審査が問題になりました(「妙喜院宗英記写」寛永三年十二月十一・十三日条)。このときは、竹坊順学という興福寺衆徒の子について、「北面の武士の家から僧侶になる例はない」というのがその理由でしたが、最終的には新入を許可されます。それから成身院の弟子に、松倉家から申し入れがあった件も問題になりました。松倉氏は、当時すでに大名でしたが(この後、島原の乱の責任をとらされて改易されます)、元々は筒井氏の家来でした。ここでは身分審査をされるにあたって、松倉氏の子ではなく筒井氏の子であると主張しています。
寛永時代の話ですが、この頃になっても、大和の国人をその先祖とする家では、少々無理があっても、子息を興福寺に入れたいと思っていたようです。
◇
寺院の立場としては、大和の国人たちが出世して大名となった後も関係が続いていくのは有難い話です。しかしながら、あまり無理を言ってもらっても困る。微妙な位置にあったのではないかと思います。
慶長十七年に幕府が興福寺に対して法度を出します。この内容をみますと、@坊舎や寺領を勝手に売買することの禁止。A世俗から寺院の判断に口をだすことの禁止。B衆徒に対して寺務に従うことを命じる、の三点です。
この法度は、幕府が勝手に決めたのではなくて、一乗院尊政から幕府へ願い出て出されています。ですから、中世以来の興福寺、あるいは南都の慣習を知らないと、本当の意味でこの法度は理解できません。特に@・Aは、寺院資産の処分権、寺院の運営権に関するもので、寺元制度とも密接に関係しています。
近世になると幕府が寺院を支配するために法度を出した理解されている部分もありますが、寺院としても、このような法度があったほうが都合がいいので、頼んで施行してもらっています。それも、寺元制度を理解していると、その意味が段々とわかってくるわけです。
◇
寺元制度は、家の惣領にあたる人物が、坊舎の維持管理、あるいは人事に責任を持つ制度です。これが権利として売買される、つまり株化していくわけですが、これが進んで、家そのものも株化するという例もあります。
それは、天和三年に争論になった最福院の場合です。そのもとは、永禄十年に最福院の寺元であった小泉藤高が討ち死にしたところから始まります。藤高には子供がなく、家の後継者を選ぶのに、春日社の神前で籤を引きました。その結果、一族の中で最福院琳恩房が後継者に決定しましたが、琳恩房は還俗しませんでした。そこで、家産の処分権や人事権などは琳恩房が持ち、家に人を迎えて、つまり養子ですが、その者に家を預けておくことにしました。この段階で、家の権利が実態から離れていきます。そして、この権利が琳恩房から法隆寺の僧侶へ伝わっていき、最終的にその権利がどこに行ったのかで、争論になったのです。複雑な話ですが、僧侶の実態と権利関係が乖離し、権利が一人歩きしていた状況や、家制度そのものもかなり形式化していたことがうかがえるのです。
◇
かなり前置きが長くなりました。いよいよ宝蔵院の話に移ります。宝蔵院は、その坊舎の建立時期が『大乗院寺社雑事記』からだいたいわかっています。
一、法雲院敷地事、自宝蔵院操地ニツキ入云々、坊主順禅房僧都召之相尋処、順禅ハ雖為坊主一向不存知、悉皆長井沙汰也、先年以舜玄房申入之間、内々自安位寺殿御許也、御使覚朝云々、此内戌亥角ハ、其時雖無御許可、只今突入候歟、此子細可申長井云々、(『大乗院寺社雑事記』文明二年八月十二日条)
これによりますと、文明二年に隣地の法雲院と争論になり、宝蔵院で普請があったことがわかります。しかも、この普請については、宝蔵院の住職ではわからず、長井氏が仕切っていたことも示されます。長井氏は、古市氏の家臣で、当時かなりの力を持っていたように思います。
さて、この法雲院と宝蔵院ですが、近世(寛政期)の境内絵図にありますように(左下、宝蔵院周辺境内図)、両者が並んでおります。現在の、奈良国立博物館の西側です。二つとも一度に移動することは考えられませんから、文明二年にはこの位置にあったことが推測できます。文明十二年には、坊舎の立柱・上棟が行われるという話が尋尊の耳に入り、山木を切り出すために、長井氏と北野山氏との間で争論になっています。長井氏が積極的に支援していたので、尋尊をして「長井之坊也」といわしめております(『大乗院寺社雑事記』文明十二年六月九日・七月八日条)。
さて、このように長井氏の坊舎として宝蔵院が建立されているのですが、宝蔵院槍術を創始した覚禅房胤栄という人は、渡辺一郎先生の『鎌宝蔵院槍術』(奈良市、一九八一年)によれば、衆徒の中御門家の人、但馬胤永の子だと知られています(以下、近世の宝蔵院に関する記述はこの本によります)。しかし、文明期には明らかに長井氏の坊舎ですから、寺元制度を意識しながら、中御門家の系図を見ますと、覚禅房胤栄の祖父にあたる薩摩胤定が長井時成の二男で養子だったことに目が留まります。おそらく、古市氏の衰退とともに長井氏も没落し、養子を迎え縁者となっていた中御門家のもとに宝蔵院の寺元が移っていったと推定されます。
覚禅房胤栄(一五二一〜一六〇七)が宝蔵院槍術の初代です。二世が禅栄房胤舜(一五八九〜一六四八)で、胤栄から見れば甥の子にあたります。しかし、中御門家に、後継者として相応しい年齢・能力の人がいるとは限りません。そうすると、中御門家としては宝蔵院を維持する為に養子をとる必要があります。この家系図に書かれていませんが、三世は覚舜房胤清で(一六三六〜一七〇一)、津藩の家臣箕浦氏から寺元の中御門胤張の猶子となって、宝蔵院を継ぎました。胤清が幼少の間は、胤張が後見しておりました。その没後は、やはり寺元の中御門宮内右衛門胤武が流儀を守り、四世を後見しました。
四世覚山房胤風(一六八六〜一七三一)は、山城国加茂郡兎並村の満田家の出身で、胤武の猶子となって、宝蔵院へ入りました。ところが、享保十六年に彼が急死すると中御門家からも入院させることができず、結局、満田家へ寺元も譲られました。しかし、満田家でも適当な人物がおらず、しばらく期間をおいて満田家から五世乗識房懐弘(一七四六〜一八〇八)が出ることになります。
満田家は藤堂藩の無足人の家で、かなりの実力を持っていたようです。寛政十年には九カ院の寺元を所持していたといいます。興福寺には九十数カ坊ありましたが、満田家だけで一割を持っていたことになります。満田家が興福寺を裏面から支えていたのです。
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では、興福寺の他の子院はどうだったでしょうか。宝蔵院と同じように、時期により寺元が移動していましたので、とりあえず十六世紀後半の『多聞院日記』のころで、有力な国人と子院の結びつきを整理してみます。例えば、筒井氏と成身院、長柄氏と妙徳院、中坊氏と龍雲院、超昇寺氏と尊教院、十市氏と五大院・福寿院、鷹山氏と宝寿院、古市氏と発心院、箸尾氏と興善院、木津氏と勧修坊、竹内氏と法輪院、多聞院と庄村氏がそれぞれ寺元であったと推定できます。
正しくは寺元ではありませんが、近世前期には春日社の社家の子弟が興福寺へ入る例も見られます。嵯峨井健氏の言葉を借りれば、「生きた神仏習合」ということになります。
近世になりますと、大和国人が全国に散っているようです。大名になった松倉氏、幕臣になった中坊氏・井戸氏も引き続き寺元たろうとしました。藩士では、郡山・高取・加賀・高松・紀州・尼崎の藩士の子弟が興福寺へ入っています。本来公家出身が院家とよばれ、学侶とは別の身分になりますが、学侶に公家の子弟が入る例も見られるようになります。
近世全般の動向は追いきれていませんが、寺元が徐々に寺院に回収され始めているようです。流れた権利を買い戻し、世俗とは別に寺院で権利を維持し、そのうちの幾つかが、寺内の寺侍や坊官の家に渡されました。しかし、それでは世俗からの支援は受けにくいという、問題も生じました。
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寺元制度は興福寺という大きな寺院だけで起こった現象ではありません。興福寺の末寺にも寺元がありました。寺元の原則は侍ですが、段々と百姓へと変わります。例えば元々は国人が寺元だった龍福寺の子院も、時代の流れにより村人が管理するようになります。
さらに、一般の村でも、村で寺院を建て村と僧侶とが契約して寺院で住んでもらうということがあります。これらの寺院では、僧侶が変わるたびに村役人との契約をします。村が寺院の所有権や人事権を持つ。これもある意味で、村が寺元になっている例です。
寺院の所有権の問題として考えていくと、寺元制度の裾野は意外と広く、寺院と社会の間を規定しているような社会関係であるといっても過言ではないと思います。
『興福寺仏教文化講座要旨第228回』興福寺教学部、2003年4月12日