●ら抜き言葉

「れる」「られる」には、可能、受身、自発、尊敬の4つの意味があります。
これは平安時代から変わっていません。

五段活用やサ変の動詞には「れる」を使い、
それ以外の動詞、たとえば「見る」「食べる」「来る」「着る」等には、
られる」をつけて表現します。

 ●1.ご飯3杯くらいは余裕で食べられる。(可能/〜することができる)
 ●2.いつも私ばかり見られる。(受身/〜されている)
 ●3.この先のことが案じられる。(自発/自然に〜になる)
 ●4.社長は3時に帰って来られる。(尊敬/〜なさる)

これらのうち、1.の「可能」の意味の時に、
上の例のように「られる」を使わなければならないのに、
「ら」を抜いて「食べれる」と表現することを「ら抜き言葉」と言います。

 ●見れる、来れる、着れる、起きれる、考えれる 食べれる、覚えれる、信じれる・・・

これらの言葉は、本来「られる」と表現しなければなりません。
つまり「ら抜き言葉」は、可能の意味の時に限っておこる現象なのです。

可能の時には「れる」を使う、ということによって可能の意味に限定しているのですから、
考えようによっては言語の進化だとも考えられます
全体の流れからいうと「ら抜き言葉」は定着していく方向にあり
将来の標準形になっていくほどの勢いです。
もちろん言語学の観点から言っても
この「ら抜き」の変化は、ごく自然であり、理にかなっているので
現在は誤用としても、近い将来は標準形になるのは当然の流れです。

低年齢層ほど「ら抜き」が定着しているようです。
方言にもかなり影響されており、地域差がとても大きいといえます。

対象になる言葉の違いによっても大きな差があります。
上例の「見れる」「来れる」はかなりの人が使いますが、
「信じれる」は使う人が少ない、といったことです。