●学校の敬語 フッタ

 生徒は先生に対して、敬語を使わないようになってきました。先生と生徒の関係は親しさ重視に変わり、「友達のような先生」を望む雰囲気が広がってきています。ただ最近では、親しい存在であってもいざというときには愛情を持って厳しく叱ってくれる先生のほうが信頼できる、というアンケート結果もあります。

 現在の学校教育においては、敬語の学習はいわゆる「国語」の担当となっています。資料集(便覧等)などには簡単な図入りで敬語の解説があります。現実には系統立てて学習されることは少なく、コラム程度の扱いの中で取り上げられることがほとんどです。唯一、といってもいいほど、系統立てて敬語を勉強するのが中学、高校の古文学習でしょう。「〜たまふ」「奉る」「候ふ」などです。文脈をとるためには誰に敬語を使っているのかという問題は避けて通れません。もちろん、大学入試には欠かせない知識です。しかし、それらの敬語が今の言葉につながることがほとんどないために古文の世界だけの学習になってしまっているのが現状です。

 もともと学校は、人間としてはじめて体験する開かれた社会でした。家族と離れてはじめて他人の目上と接して、どういう言葉づかいをすればいいのかを身をもって学校で知っていったのです。戦前は「教師と生徒」「先輩と後輩」という厳然とした上下関係がありましたが、戦後は親しさのウエイトが大きくなり、「教師と生徒」の上下関係はなくなりました。子どもは敬語を使わずに友達感覚で対等に話し、(タメぐち、といいます)若い先生は、けじめをつけすぎて生徒に嫌われることをいやがるようになりました。保護者が子どもと一緒になって教師の悪口を言い、教師は、親や子の姿を見て嘆く。そんな時代の中で、子どもたちは、教師だけではなく、結局は親を含めた大人を尊敬することができなくなってきているのかもしれません。

 「先輩と後輩」は主に学校の部活動の中で作り上げられてきました。もしかすると、今の子どもたちの学校生活の中で上下関係に拘束されるのは部活動・サークル活動だけかも知れません。少子化や部活動の衰退の中で、こうした人間関係を体験しない子の方が圧倒的に多くなりました。

 確かに今までのような上下関係から生まれる敬意表現は不自然、不快なものとなっていくでしょう。特定の人だけに強い敬意を強制するのはおかしなことです。お互い人間として対等な中での敬意表現に変わっていくべきです。しかし、自己中心的な、気づかいのない会話ではいけないと思います。なぜいけないのかというと、表現の内容や人格が誤解されてしまうことがあるからです。もちろん、商売がからんでくるとなおさらです。

今は、言葉の問題以前に解決しなければならないモラルが混乱しているので、言葉も混乱してしまうのです。



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