●敬語は不要だと思う 「敬語不要論」フッタ

 日本語に敬語は不要だ、と主張する人がいます。このサイトを開設した当初も、そういう趣旨のメールをたくさんいただきました。しかし、最近、そのようなメールがまったく来なくなりました。れっきとした敬語である「です」「ます」までも不要だということになれば、おかしいでしょうし、「敬語がいけない理由があるとしたら、それは敬語自体の問題ではなく、その使い方に問題があるからだ」ということをわかっていただけたからでしょうか。
 正確に言うなら、敬語の中の「尊敬語は不要だ」という意見がほとんどのようです。敬語は不要だと主張する人によって、意見にはおおきなバラツキがあります。
不要だと考える理由の主なものを挙げてみます。

 1.難しいし、日常で堅苦しく考えたくない。
 2.礼儀や形式にこだわりすぎるのはよくない。
 3.言葉よりも態度のほうが大切。態度で十分示せる。
 4.使っている人が少なくていい加減なものだから。
 5.よくわからないから、使うのがうっとうしい。
 6.上下関係を生む敬語は、人格対等の考えに合わない。

部分的に不要だと考える人たちもいます。

 7.尊敬語・謙譲語は必要ない。
    ・・言語学的に煩雑、差別に代表される社会の上下構造を再生産している、など
 8.尊敬語は必要ない。
    ・・謙譲語だけで十分、相手の言動に気をつかって持ち上げるのはクドいし不自然、など
 9.謙譲語は必要ない。
    ・・敬意を表する相手の行為にだけ敬語を使えば十分だ、など

 もう一度整理してみましょう。「相手のことを気づかう」ということはどういうことでしょうか。「同情する」「助ける」「相手の気持ちになる」という考えの中には、自分の立場の方がなんとなく上、または有利になっている、という状況が含まれています。「させていただく」「わたしなんかには・・」という考えには、自分の立場をなんとなく卑下している気持ちが含まれています。そうではなくて、大切なのは「お互いが対等」であるということです。対等、平等になるということは、「みんな同じだ!」ではなく、「みんな、ひとりひとり違うんだ!」という認識を強くもつことです。個性を認め合うことは、簡単そうで実は、勇気のいる大変なことです。

  お互いが「押しあって対等」な関係を作るのか。
  お互いが「慎みあって対等」な関係を作るのか。
  お互いが「押したり引いたりしながら対等」な関係を作るのか。

 いずれにしてもそれなりの「バランス感覚と努力」が必要だと思います。お互いの心が通じ合うのは、態度と言葉のたった2つの手段。言葉だけでもなく、態度だけでもなく、その両方を精一杯使い切ろうという日本的発想なら、敬語はとても有用な働きをしてくれるはずです。もちろん言葉に頼らずとも、心を十分伝えることもできます。「二人の愛に、言葉はいらない・・」これもある意味で真実です。

 敬語不要論は1〜6のような感覚的なもの、7〜9の語学的なものだけではなく、

  自分のまごころはどうしたら伝わるのか、
  自分のまごころはどうしたら相手がきちんと受け止めてくれるのか、

という、難しそうで、実はとても単純な「心づかい」で判断しなければいけないと思います。


フッタ
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