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人生は人様々であるが、偉業を成し時代を駆け抜け去った人は少ない。 大阪市港区に生をうけ、戦争の時代、幹部候補生として、戦後、人材の育成のため、珠算教育に情熱を注ぎつつ、後世の日本国の為に、幼稚園を設立し、地域教育活動に邁進し、幼保一元化の先駆けとして周囲の期待にこたえて保育園を設立。 藍綬褒章、旭日章を今上陛下より下賜。 平成7年1月7日検査入院中の府立成人病センターにて死去。 園葬には、中川和雄大阪府知事(当時)、西尾正也大阪市長(当時)より弔辞をいただき、政官界をはじめ2000名を超える人々に送られた。 生前のことば、昭和天皇陛下の大葬をテレビでみつつ「わしも、雪の降る中、見送られるのかな」その言葉の通りとなった。 大正15年〜平成7年、天下の為、駆け抜けた人生であった。生前、恩義を受けた人々も多し・・・。 全国学校法人幼稚園連合会組織委員長として全国を飛び回り、そして、大学、高校、中学、小学、幼稚園に至るまでの学校法人に対する経費助成に尽力を尽くした。 皇室(昭和20年代当時)高松宮殿下と親しく懇意にされ、田中角栄首相をはじめ中央の政界人人脈は太く、持ち前のバイタリティと緻密さにより幼稚園を第1等の幼児教育機関として認知させた功績は大きい。 日本珠算連盟における功績も、珠算8段の達人で当時の三木武夫通産大臣から賞状を受け、現在活躍している大阪珠算連盟理事森友 健氏は実弟である。 | |
先代園長 森友 寛 (大正15年9月28日 大阪市港区にて 徳一・はるみの長男として誕生) | |
■経歴 | |
昭和28年 | 塚本幼稚園(大阪市淀川区)設立 園長就任 |
昭和30年 | 大阪府私立幼稚園連盟理事 |
昭和34年 | 日本私立幼稚園連盟理事 |
この間、塚本幼稚園は大学・高校・中学校・小学校と足並みを揃えた 全国初の学校法人立幼稚園として認可。これを機会に全国の学校法人立幼稚園に 公的補助がなされる事になった。 | |
昭和48年 | 全国学校法人幼稚園連合会常人理事 |
昭和49年 | 民生児童委員長就任 |
昭和52年 | 新清和台幼稚園(兵庫県川西市より招請あり)設立理事長・園長 |
昭和57年 | 南港さくら幼稚園(大阪市住之江区)設立理事長・園長 |
昭和62年 | 社会福祉法人ポートタウン福祉会ポートタウン保育園(大阪市民生局より招請)設立・理事長就任 |
平成 2年 | 内閣総理大臣海部俊樹氏より藍綬褒章受賞 |
平成 3年 | 民生児童委員長としての功績を厚生大臣山下徳夫氏より表彰 |
平成 7年 | 大阪市民生児童委員連盟副会長として後進の育成に活躍し、社会福祉事業計画立案中、死去、享年68歳 |
平成 7年 | 閣議決定 正六位勲五等双光旭日賞受賞 |
すばらしき人生、人生悔いなし、すべて前向きの人生、惜しむらくは早過ぎた一生である。 慈福院智尊寛叡居士 俗名 森友 寛 平成7年1月7日 往生 享年 68歳 | |