郡 山 城 跡 散 策

郡山城の歴史

郡山城の築城は、今から約420年余り前の天正8年(1580年))、筒井順慶が筒井から郡山に移ったときに始められました。
天正13年(1585年)8月には、豊臣秀吉の弟の秀長が郡山城に入城。
秀長は、紀伊・和泉・大和の三ヶ国百万石の大守・大納言として城の大拡張工事を行う。
壮大な高石垣は、荒々しい野面積みの石垣で、羅城門の礎石やさかさ地蔵と呼ぶ
地蔵像など寺々の礎石・石仏・五輪石塔等の石が石垣に転用されています。

また、秀長は城下町の繁栄のため、奈良や堺の商人たちを郡山に呼び寄せ、
地租免除や商売上の特権を与え、箱本制度という自治組織をつくりました。
(箱本13町)秀長の死後、増田長盛が20万石で入城し、秋篠川の付け替えや
溜池をつないで周囲が50町13間(約5.5km)の外堀を完成させています。

徳川時代となって、水野勝成、松平忠明、本多政勝、松平信之、本田忠平等
徳川譜代の城主の後、享保9年(1724年)柳澤吉里が甲府より15万石を以って入城し、
6代145年間続きましたが、明治2年城主柳澤保申が藩籍を奉還し、
明治6年には政府の方針により城郭すべてが入札売却されてしまいました。

追手門(大手門、梅林門)

「明日のお城と城下町を考える会」などの市民運動により、秀長築城当時に近い形で、
昭和58年に追手門が復元され、続いて、追手向櫓・多聞櫓・追手東隅櫓などが
昭和62年にかけて再建されました。

城址会館(市民会館)

明治41年に建てられた元県立図書館が改築されるに当たって、昭和45年郡山城跡址に
移築されて城址会館として親しまれており、平成9年3月31目に奈良県の有形文化財に
指定されています。

柳澤文庫

昭和35年郡山城跡が県の史跡指定になったのを機縁として、
財団法人郡山城史跡・柳澤文庫保存会として発足
(柳澤藩の諸記録、郷土資料など保存、城跡維持管理等)

柳澤神社

明治13年旧藩士によって創建、祭神は柳澤藩開祖の柳澤吉保公

天守台

標高82mで眺望がよく・奈良の春日山原始林、東大寺の大仏殿、興福寺の五重塔、
薬師寺の二つの塔、唐招提寺の講堂等の世界遺産が遠望できます。

郡山城の御殿桜

約420年前の天正16年(1588年)に、豊臣秀長が多武峰談山神杜を城内に遷座したときに
桜も城内に移したと言われております。
その後、柳澤吉里が郡山に入城した時(1724年)多くの桜を補植し、花の時期には、
藩士や町民たちの楽しみとなり、御殿桜と呼び親しんでいたようです。

平成2年には、「郡山城址公園」が「桜名所100選の地」に選ばれました。
染井吉野・大島桜・山桜・かすみ桜・シダレサクラ(イトサクラ・紅しだれ・八重紅しだれ)
・八重桜(関山・普賢象・奈良八重桜・紅豊)等種類が豊當で花の期間も長く楽しめます。

お城まつり

3月下旬から4月中旬まで、満開の桜の下でお城まつりが盛大に開催され、
明治以来の伝統を持つ金魚品評会や源九郎稲荷神杜の白狐お渡りや
時代行列・市民パレードなど盛りたくさんの行事があり、夜桜も楽しめます。

また、天守台をはじめ、その周りの石垣の中に多数の石仏・五輪塔等が積み込まれて
いますので、これらの石仏や城史有縁の諸霊を慰めるため、市民有志の浄財で、
全長162m・珠の直径15cm・1,080個の大数珠が奉納され、天守台を取り巻き、
永慶寺・発志禅院・春岳院の協力を得て数珠くり法要が行われます。

郡山城址の句碑・歌碑・詩碑

「十五万石の城下へ 花の坂」     青畝 松の坂に阿波野青畝の句碑

「大和また 新たなる国 田を鋤けば」 誓子 城址会館前に山口誓子の句碑

「菜の花の 中に城あり 郡山」    許六 城址会館前に森川許六の句碑

「ぼうせきの煙突」     小野十三郎  城址会館横に小野十三郎の詩碑
(たそがれの国原に ただ一本の煙突がそびえている。
大和郡山の紡績工場の煙突である ぼうせき。
それは今は死んだやうな名だが 私は忘れることができない。
明治も終りの夏の夜である。 七十六年の周期をもつハリー彗星の渦が
涼しくあの紡績の鋸歯状屋根の 紺青の空に光っていたのを。)

「天地の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波立たぬ世を」昭和天皇御製柳澤神杜前

「金魚とねこ」森口武男           郡山高校表門跡塀際に董謡詩碑
(金魚が鉢でおよいでいる ねこがじっと見ている どうしたの?
金魚は泳ぎをとめてきく ねこはだまっている あたいを写生?
金魚は頬を鉢にすりよせる そこで ねこは鉛筆と紙をさがしにいく)

「むら立ちて 咲く蓮のはな そと濠の たかいし垣に 朝目照りつつ」

                          西公園南端に土田耕平歌碑