更新10/1/9
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まぼろしの大仏鉄道遺構めぐり
 
08/12/6 JAF主催の大仏鉄道遺構めぐりに参加しました、ルートはJR加茂駅からJR奈良までの12kmで大仏鉄道研究会の方々がルート案内をして下さり110年前の点在する数少ない遺構を見てきました、また目新しい鴻ノ池橋台佐保川鉄橋跡も見ることができました。
 
まぼろしの大仏鉄道とは
大仏鉄道は現在の関西本線の前身である私鉄「関西鉄道(かんせいてつどう)(株)」の支線の一つでした。明治30年「名古屋-加茂」間を全通し、ついで明治31年(1898)から加茂〜奈良間を開通させました。しかしわずか9年間で廃止されたため、まぼろしの鉄道とよばれているのです。廃止の理由は黒髪山という最大の難所があり、勾配が25‰(1000mで25m登る)ときつく、そこを登るのも下るのも大変苦労しました。その上、燃料を大量に消費するので、不経済路線となり「加茂-木津」間に平坦路線が出来て木津駅乗り入れに伴い廃止になりました。
撮影08/12/6
遺構めぐり出発点のJR加茂駅。                  参加者50名、所要時間6時間(休憩含み)
 
 
 
動輪モニュメント

加茂駅南側の動輪モニュメント
 
大仏線のスタート駅の歴史を伝えるモニュメントでH19年に造られました。右の写真は遺構巡りを案内していただいた大仏鉄道研究会の樋口、三宅の両氏。樋口氏(赤いジャケット方)は遺構巡りの詳細なマップの制作者でこの日の参加者に配布していただき非常に役立ちました。
 
動輪モニュメントの側に廃レールが置かれているが大仏鉄道との関係は?
 
モニュメント説明文 :
大仏鉄道ってなに?
現在の関西本線の前身である私鉄「関西鉄道(かんせいてつどう)(株)」名古屋方面から大阪への進展を目指して延長を急ぎ「加茂駅」から現在の奈良駅北1.1kmの所に仮設的に作った大仏駅(奈良南佐保)間を結ぶ8.8kmと2年後に開通した奈良駅までの通称で「大仏駅」の開業は1898(明治31)年4月19日、「加茂駅−大仏駅が開通し」赤いイギリス製の蒸気機関車が伊勢や名古屋方面からの大仏参拝客を乗せてにぎわったと当時の新聞が報道してます。この脚光を浴びた花形路線も1899年5月21日奈良駅えの延長や大仏線は急坂の黒髪山トンネル越えの難所などがあり新たに「加茂-木津」間の平坦路線が出来大阪方面への客が移り1907年鉄道の国有化法により遂に同年8月20日に10年という短い生涯を閉じました。当時の資料が乏しい「大仏線」ですが加茂、木津、奈良に点在する数少ない遺跡を大切に保存し次代に残したいものです。                           加茂町史より
 
 
ランプ小屋

ランプ小屋 ( ↓clickすると拡大します)              当時の加茂駅の機関庫 
 
 
いわゆる危険物倉庫で当時鉄道の灯火は明治30年代前半までは石油ランプが主力でした。汽車の前照灯、尾灯、車内灯の保管庫です。火災を防ぐ必要から駅本屋から離して建てられ、煉瓦造りでオランダ積み工法です駅には最盛期380名の職員が在籍し加茂町は鉄道の町として活気づいていました。
 
オランダ積工法とは
  
レンガの長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積む方式、イギリス積みは端部の処理が異なるだけなのでイギリス積みと総称されることが多い。
他にはレンガの長短を交合に積むフランス積み、小口が全て表に見えるようにするドイツ積みなどの工法がありそんな目で煉瓦の構造物を観察するのも面白いです。
 
 
C57

C5756
加茂駅近くのJR大和路線に平行した大仏線の軌道跡にC5756が保存されています、このSLは昭和34年現天皇陛下が美智子妃殿下とご成婚後に畝傍御陵・伊勢神宮に参拝された時のお召し列車を牽引したものです。
 
当時の機関車はどんな形式なのか
 
当時私鉄は機関車を赤、青、緑に塗装し国鉄に無い華やかさでした、この大仏鉄道も真紅の機関車が走り抜けたとのこと。実際どんな形式の機関車か不明ですが一応こんなものでないかと書いた人相書きです。
 
 
赤田川グランド

 
 
赤田川グランド手前のアパット
     
赤田川グランド手前のアパット(橋台)、大仏線の軌道はJR大和路線と平行しています(JR大和路線も元は関西鉄道でした)。
 
大野山と里 、青い空と燃える紅葉の美しい大野山です
 
 
観音寺アパット

観音寺アパット(橋台)                      (↓clickすると拡大します)
 
 
田んぼや谷間は土を盛って路盤を築いて、高低差を無くしています、築堤で生活道や水路を切断しないために切石を積んで橋台を設けています。この辺りまで大仏線の軌道はJR大和路線に平行しいます。
 
観音寺小アパット(橋台)
 
すぐ横をJR大和路線が走っているため立ち入ると危険なため柵が設けられています。
 
 
水道橋

水道橋・鹿背山トンネル
 
JRは右へそれていきます。 大仏線は上りながら左へ向かって行き、ハイカーは水道橋を渡ります、その下の草むらはJR旧関西線の線路跡でその奥の鹿背山トンネル(廃線)に向かっています。 水道橋には水道管を通すための橋、大仏鉄道には無関係です。
JR旧関西線の線路跡
 
 
鹿背山トンネルの廃線理由
約300mのJR旧関西線の鹿背山トンネルは地質が微塵砂であったため湧水で路盤や壁面は流れ、保守難のため1956(昭和31)年廃線になりその北方に現在の不動山トンネルが掘られました(大仏鉄道とは無関係です)。
 
 
鹿背山アパット

鹿背山アパット(橋台)
 
美加ノ原カントリークラブ近くに鹿背山アパットがあり築堤はどんどん高度をあげて行きます。ここは「鉄道廃線跡を歩くU」というJTBから出ている本の表紙にもなっている橋台です。石組みは緻密につまれガッチリしています。
 
 
梶ヶ谷トンネル

梶ヶ谷トンネル
 
農道と水路を通すためのトンネルで壁は煉瓦で側壁は御影石と豪華です。
 
アーチ部分の煉瓦は長手積み坑門はイギリス積みです
(↑clickすると拡大します) 
 
赤橋

赤橋                              (↓clickすると拡大します )
 
 
「赤橋」と呼ばれています。御影石と煉瓦との組み合わせがとても美しい橋です、汚れを落とせばさらに赤色が綺麗でしょう。
 
橋桁も石が使用されいたのでしょ。現在この上は道路で自動車が通ります。
 
 
 
梅谷・井関川トンネル

梅谷・井関川トンネルと築堤
 
赤橋を抜けると美加ノ原カンツリークラブの北側に出ます、左が軌道跡です。軌道跡が梅谷の交差点に向かって下っていますが、昔は勾配のない築堤でした
 
 
梅谷公民館、この交差点辺りも築堤で井関川トンネルがありました、右の写真はさらに下ったところで
左手の草むらが井関川築堤跡、交差点付近にトンネルがありましたが開発により変わっています。奥が美加ノ原カンツリークラブ。
 
 
松谷川トンネル

 
 
松谷川トンネル
 
松谷川トンネルの上が軌道跡で現在は44号線です、高い築堤です。トンネルの入り口は蓋がしてあって中は土で埋まっいます。
 
 
鹿川トンネル

鹿川トンネル
 
鹿川トンネルを上が軌道跡で現在は44号線です(右が奈良方面)。
 
水路用のトンネルです。
 (↑clickすると拡大します )
 
 
黒髪山トンネル

黒髪山トンネル
 
当時のトンネルの写真。トンネルの有った部分は今は切り通しになっていますこの辺りが最高点で大仏鉄道の難所でした。その上部の橋は奈良県では最も高い跨道橋です。
 
黒髪山トンネルの社章(交通科学博物館にて)                          
 
黒髪山トンネルの写真とトンネル上部左右に取り付けられていた関西鉄道の社章で大阪の交通科学博物館に保存されています。写真のトンネルは昭和39年頃まで道路として使われていた頃のものです。
看板説明文
この社章は、関西鉄道(かんせいてつどう)大仏線(通称)の黒髪山トンネルに取り付けられていた。関西鉄道は1895(明治28)年 に名古屋〜加茂間(現在のJR関西線)を開通させた。さらに、奈良までの開通を目指し1898(明治31)年に現在の本線とは異なるルートで、加茂〜奈良間を開通させ、勾配のきつかった大仏線は、開通から9年で廃止された。
 
 
関西鉄道の鬼瓦(1900年頃) 交通科学博物館にて。
 
 
ドリームランド

ドリームランド跡から鴻ノ池陸上競技場まで
ドリームランド跡、1961年開園、ディズニーランド模して造られたが45年を経て2006年に閉園、今はひっそりしています。
 
奈良TV局
 
鴻ノ池野球場                    鴻ノ池陸上競技場
 
 
 
鴻池橋台

鴻ノ池橋台の基礎部跡
 
法蓮佐保山1丁目                   鴻ノ池橋台の基礎部跡のある住宅街の一角
 
 
法蓮佐保山1丁目辺りから44号線を右にそれて軌道がありました。法蓮地区の住宅街の一角に鴻ノ池橋台の基礎跡が有ります。ガレージの前の排水構の蓋を開けると橋台の基礎部が見えます。ガレージのある部分は築堤でしたが今は壊され基礎部だけが埋まっています
 
 
 
 
大仏鉄道せんべい

 
興福院
  
鴻ノ池橋台を西に行くと興福院があります、明治31年4月16日 大仏線開通の式典が興福院で催されました。
 
畠山製菓の「大仏鉄道せんべい
   
春日の荘の向かいにの煎餅屋さん畠山製菓で大仏鉄道のイラストを焼き付けた「大仏鉄道せんべい」を販売しています遺構巡りのハイカーには大変人気で甘いクッキーです。畠山製菓は佐保小学校の東隣、一条通り沿いにあります。
 
 
大仏駅記念公園

大仏駅記念公園
 
 
大仏駅跡には動輪のモニュメント碑文があります、大仏駅と聞けば直ぐ側に大仏さまが有るように思いますが、ここから1700mも離れており結構遠いです。本来奈良まで乗り入れるはずが交渉に手間取り仕方なくここに駅を仮設して開業させました。
 
碑文
関西鉄道大仏駅について(かんせいてつどう)
明治28年 草津・名古屋間を全通した関西鉄道は、柘植(つげ)から大阪方面への進出を計り、2年後の30年11月に加茂まで開通した。ここから梅谷を経由して黒髪山トンネルを下り31年4月、この地の北側法蓮の交番所の南あたりに大仏駅を設置した。この鉄道は市民、観光客にも親しまれ大仏詣での人達もこの駅で下車し一条通りを通って東大寺に参拝していた。奈良駅にはその年の12月開通したが乗り入れが実現したのは翌32年5月であった。その後線路が木津経由に変更となり明治40年8月までの約9年間で廃止された。昭和39年頃まではトンネルも残っていたが、現在は取り壊されて当時の面影は今は見られない。                  
平成4年4月 奈良市
 
 
左保川鉄橋跡

左保川鉄橋跡
大仏駅南側からJR奈良方向に見た船橋商店街と「下長慶橋」、右側が築堤の軌道跡。
 
佐保川の下長慶橋の川底の大仏鉄道鉄橋のレンガ基礎部分があります、置き石の左側で濁って見えにくいです、ここは最近発見されたところです。
 
 
JR奈良駅

 
JR奈良駅
 
 
      
左は旧奈良駅舎を移転保存したもの。            高架になった奈良駅の2,3番線
 
 
      
   旧奈良駅舎の内部                 新奈良駅コンコース・奈良らしく仏閣作り
↑clickでポップアップ         撮影10/01/02
 
 
旧奈良駅舎は昭和9年の建築で、方形屋根に相輪を乗せる仏寺風のデザイン。高架化に合わせて解体される予定だったが、主屋部分18メートル移動させて保存、和風屋根と洋風建屋を組み合わせた優雅な建築です。平21年7月25日から奈良市総合観光案内所に生まれ変わる。外観はそのままだが内部の中央に赤い柱のモニュメントが設けられ改札口や切符売り場が無くなり当時の面影が無くなって残念です。  
 
 
大仏鉄道の歴史

大仏鉄道と関西鉄道の歴史
 
合併劇に翻弄された大仏線
関西鉄道株式会社は、近江商人の資本で明治21(1888)年3月1日、前島密(1835-1919)を社長として四日市に設立され明治22(1889)年12月に草津・三雲間が開業しました。明治23(1890)年には現在の住友電装の場所に四日市整備工場を設置し、四日市・草津間が全通し、東海道本線と連絡できるようになりました。その後明治28(1895)年には草津・名古屋間が全通し、次いで明治30(1897)年11月には柘植から加茂まで開通しさらに奈良を目指したが、先行の奈良鉄道(奈良・京都間)、大阪鉄道(湊町・奈良間)との乗り入れ協定が成立せず、仕方なく明治31(1898)年4月仮設の大仏駅まで開通させた。奈良乗り入れが実現したのは協定成立後の翌32(1899)年5月でした。その後明治33(1900)年に大阪鉄道、明治38(1905)年に奈良鉄道を買収し、木津・奈良間を手中に納めると明治40(1907)加茂・木津間の平坦路線を開通させ起伏の激しい大仏線を廃止することとなりました。奈良駅をめぐる利権争いの末合併劇に翻弄された大仏線は9年の短命に終わりました。
大阪・名古屋を結ぶ路線網が築かれ関西鉄道と官営の東海道線との双方の間で熾烈な旅客獲得競争が繰り広げられるようになりました。明治39(1906)年の鉄道国有法公布により鉄道の国有化が進み、関西鉄道も明治40(1907)年10月国有化され関西線になりました。
 
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