てくてく峠路
碓氷峠・遊歩道アブトの道を歩いてきました







 
横川周辺史跡





 
横川〜峠の湯まで(前半)




 
峠の湯〜めがね橋まで(後半)




 
碓氷鉄道文化むら





 
 
 

 
 
横川〜峠の湯まで(約3km)                              
 
横川駅
撮影2010/5/2
 
JR横川駅 
横川・軽井沢間は1997.9.30に廃線となコンクリートの車止めで線路は遮断されています。
現在は車止めの背後にホームの渡り通路が出来ていて陸橋を越えなくても2番線に行ける様になっています。
 
 
 
 
昔ながらのちっぽけな横川駅
アプト式線路のラックレールを流用した道路のグレーチング。
 
 
 
 
碓氷峠の難所で活躍したEF63-3号電気機関車の動輪
今は駅横に移動しているが雨ざらしが気になる。
 
 
 
 
「峠の釜めし」で有名なおぎのや
駅前のおぎのや資料館、明治18年創業日本一古い駅弁屋とある
駅弁と無関係の鉄道資料が展示されている(入場無料)
 
 
 
 
おぎのや資料館 タブレット(通票)閉塞機 装置
 
 
 
 
おぎのや資料館 ED421のプレートはアプト式機関車1号機
 
 
 
 
おぎのや資料館
 
 
 
 
おぎのや資料館  ラックレール 3枚の溝が均等にずれて配置されている
 
 
 
 
おぎのや資料館  めがね橋の風景
 
 
 
 
おぎのや資料館 駅弁販売用のカート「峠の釜めし」
 
 
 
 
おぎのや資料館 列車座席
 
 
 
 
碓氷峠鉄道文化むら
 「ぶんかむら駅」トロッコ列車が出発、右のEF6312は体験乗車用の機関車(clickで拡大)
 
 
 
 
トロッコ列車「シェルパくん」が出発 ジーゼルが後押しで登っていく「MC−500A保線用ジーゼル車両(1975年製)を使用(clickで拡大)」
 
 
 
 
故障した「シェルパくん」                       撮影2011/8/18     
    
左:待避線留置の故障した「シェルパくん」 右:代替ジーゼル(2011/8/18撮影)
2011/05/05にTMC−500Aのエンジンが故障して待避線留置されていて7月から代替機で対応中。
 
 
 
碓氷峠鉄道文化むら 新幹線用軌道保守点検車(GA-100) 入り口正面に展示
 
 
 
 
 
遊歩道から見える 「碓氷峠鉄道文化むら」展示車両(clickで拡大)  
 
 
 
 
  
碓氷峠で活躍したEF63
 
 
 
 
トロッコ列車・EF63体験乗車線として余生を送る線路
 
 
 
 
遊歩道
線路脇のラックレール流用のハンガー
 
 
 
 
線路を舗装した遊歩道を歩いていく
 
 
 
   
重力式トロリー張力調整機、柱にカラー識別されている。
 
 
 
 
   
上越自動車道の斜張橋
 
 
 
 
丸山変電所手前、この辺りはまだ勾配がゆるい
 
 
 
 
信号機
 
 
 
何にかな?アンチクリーパではなさそう。
 
 
 
 
 
待避線・関長原関所跡(せきながはら)・小岩砦 小根山森林公園・・の表示
 
 
 
 
 
丸山変電所
丸山変電所(clickで拡大)
手前が蓄電池室
 
       

案内板には「国指定重要文化財 碓氷峠鉄道施設 変電所(旧丸山変電所)二棟 平成6年12月27日指定 。丸山変電所は明治45年に建築され一棟が機械室で回転変流器と変圧器を収容していた。もう一棟は蓄電池室で、列車が上り勾配にかかるとときに必要な電力を補うための蓄電池312個が整然とならんでいた。建物の性格としては。工場建築に近いから、同じ煉瓦造り建築と言ってもたとえば東京駅の様な華やかさは無い。しかし正面出入り口や妻面には控えめながら装飾適要素が加えられ、落ち着いた格調高いものとなっており、煉瓦造り建築の最盛期の所産であることが実感され、今に伝える残り少ない遺産である。 文化庁 松井田町教育委員会」
 
 
 
 
 
碍子片
 
 
 
 
  変流機室(左)と蓄電池室(右)
半世紀近くも放置されていたが重要文化財指定に伴い、崩れ落ちた屋根や割れたガラス窓、破損した壁面などを1億8000万円かけて修理、保存している
 
 
 
 
変流機室内部(clickで拡大)

横川火力発電所から送電されてきた交流6000ボルトの電気を直流650ボルトに変換し、アプト式の電気機関車を動かしていた。蓄電池室には312個の蓄電池が置かれ、列車が通らない時に充電し、列車の登坂時に放電して電力を補っていたという、この変電所は昭和38年に役目を終わった。
 
 
 
 
 
トロッコ列車は「まるやま駅」で5分間停車する、乗客はこの間に記念写真を撮っています
 
 
 
 
              
 
 
 
霧積川橋梁
      
霧積川橋梁
 
 
 
 
       
霧積川を過ぎると左に峠の湯が、また川の上流にはビレッジ東軽井沢ゴルフクラブが見える。
 
 
 
峠の湯
峠の湯
 
 
 
   
分岐点の左がトロッコ駅「とうげのゆ」があり右がは廃線となった信越本線跡
 
 
 
 
峠の湯のそばにある「くつろぎの郷」にEF6322号機が保存されているが、状態は良くない。
 
 
 

横川周辺史跡                                                                     撮影2011/8/18
 
 
史跡マップ
 
 
 
茶屋本陣
茶屋本陣
横川駅を出てすぐに茶本陣があります

この茶屋本陣は、代々横川村名主を勤め幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部である。棟は居宅と同一であるが、居宅分は2階があり、本陣の方は2階を作らず天井を高くしてある。居宅と本陣との境は三尺の畳敷の廊下で区切られ襖まで通じている。本陣は型通り控えの間が2間あり、その奥に八畳の上段の間がある。裏庭は「月」を配した石組みの平庭で池があり風情があるが、外敵に備えるものであろうか、大きい木は植えていない。碓氷関所に一番近い茶屋本陣として興味深いものがある。   群馬県教育委員会 松井田町教育委員会 。
 
 
 
 
 
 碓氷関所跡
碓氷関所跡の東門
江戸時代の元和年間(1615〜1623)に“入鉄砲に出女”を取り締まるために設けられた中山道の関所。1869年(明治2年)の太政官布告により他の関所とともに廃止解体された。当時から残された門の柱と扉、屋根材の一部と台石を使用して昭和34年に関所の東門が復元された番所跡位置にある。現在の国道18号に並行している旧中山道(県道92号)に面している。門以外の関所の建物は現存しない。敷地内には「碓氷関史料館」があり、観覧希望者は電話で教育委員会文化財係の係員を呼ぶことになっている 。三大関所     箱根、碓氷、小仏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
復元された碓氷関所の東門。
ところが、「本当はこの位置にあったんじゃないんですよ」と、案内してくれた地元の中島徳造さん話す。明治の廃関で東西の門は解体されたが、東門の建材や台石、文書等は、密かに近隣の家屋や蔵や庭に保存された。1959年に残されていた記録を元に当時の柱や扉など部材を使用して復元されている。車が通る旧道を避けて、30m離れた現在地に復元された。写真左が本日案内いただいた地元の中島徳造様
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「おじぎ石」。この石に手をつけて手形を差し出して通行許可を受けたということだ。
 
 
 
 
東門の焼け焦げ
この焼け焦げは明治の解体の時に燃やされた跡。
 
 
 
 
 
 
碓氷関所史料館

碓氷関史料館は質素な建屋で普段は鍵が閉じられているが幸いなことに群馬デスティネーションキャンペーン(DC)期間中特別に公開されボランティアガイドの方に案内していただけた。碓氷関所史料館は東門の側にあり、 勤番日記、鉄砲書上帳、関所手形、人馬壱掛取調帳などの書面類、同心の着衣や、関所跡遺跡模型が展示されています。
 
 
 
 
 
史料館展示
 
 
 
 
 
 
 
 
 


一、此者壱人従江戸信州松代江差遣人申候
碓氷御関所無相違御通可被下候後日仍如件
真田信濃守内 庭聞百人(ざま ももと)
天保十二丑年二月十六日
上州碓氷御関所    御番御衆中
 

この解説文を書かれた方は地元の中島徳造様で、今日はご本人自ら案内してくださった。三大関所の中では価値ある文書が大量に残っているのはこの碓氷関所だけだと熱く語っておられた。中島様は「五料茶屋本陣(県指定史跡)」のオーナで安中市会議員をされています。 「五料茶屋本陣」は参勤交代で中山道を通る大名が昼食などで利用した休憩所でした。 (三大関所 : 箱根、碓氷、小仏)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石祠
関所跡の裏山の急斜面を登ると石祠があり同心がお参りしていたところ。
誰も立ち寄らない場所を特別に案内していただいた。
 
 

 
五料の茶屋本陣(お西・お東)
 
「茶屋本陣」とは、中山道を参勤交代で往来する大名の休憩所。五料茶屋本陣は「お西」と「お東」の2つの建物が並んであり、どちらも先祖を同じくする名主の中島家の屋敷であった。1836(天保7)年から明治にかけて一年交代で茶屋本陣を営んでいた。両建物とも1806(文化3)年の建築で、書院造りの上段の間を持つ。
上信越自動車道とJR信越線に接して挟まれたところにある。信越線と並行する国道18号の旧道(中山道)から入る。国道に案内標識あり。修理復元されて有料で公開されている。
横川駅から3.8km、上信越自動車道松井田妙義ICより1.1km。
 
 
 
JR信越線の踏切を渡ると五料の茶屋がある、その裏側は上信越自動車道である、入口は左に進んで「お西」から。
                        五料の茶屋看板があり、まずお西さんの門をくぐり拝観料を払って入場する。
 
 
 
お西さん
 
 
お西は昭和四十八(1973)年中島公男氏から町に寄贈され、保存修理工事を行い昭和五十九年秋に公開開館された。家族の居間などは江戸時代の再建当時に復元したが、上座の部分は明治十一年九月六日に明治天皇が北陸東海道御巡幸の折「御小休所」として使われた。これを受けて昭和九年に文部省指定史跡となっているので、明治十一年に大改修された状態のままに保存されている。
間口十三間、奥行七間、総二階切妻造りで、上座の上部は二階に見えるが、壁で仕切られていて天井には入れないように造られている
 
 
 
 
左:土間と馬屋        右:入り口脇の風呂場
 
 
 
 
 
 
 
 
皇女和宮御下向御行列図 (拡大)
孝明天皇の妹、和宮様16才が第14代将軍家茂に嫁がれるため文久元年(1861)10月20日京都を発ち
11月9日坂本宿、10日松井田宿昼食休憩、板鼻宿泊、14日江戸着の24日間の旅程であった。
行列の人数は京都から5000人、江戸からの迎え5000人、馬4000頭、馬引き4000人にも及んだという。
 
 
 
殿様が休息する「上段の間」
 
 
 
高札(拡大
 
 
 
左:お西さんの裏庭 ひょうたん池、              右:味噌倉
 
 
 
 
 
 
 
お東さん
 
 
お東さん全景 中央村玄関、左端寄付き
お東は平成四(1992)年中島徳造氏から町に寄贈された。復元工事は天保十年の住居絵図面・万延元年の絵図面と解体時の調査を参考にして建築当初の姿に復元整備された。但し、板葺きであった大屋根は防火上の配慮から板葺風のスレート瓦葺になっている。間口十三間、奥行七間、総二階切妻造りで、上座は建築当初のままの式台と表の間・次の間・上段の間、これに鍵の手の入側(畳敷きの通路)が付いている。便所も旧位置にそれぞれ三ヶ所復元されている。
 
お東さんの門
お東さんの門は閉鎖されており、お西さん側から拝観する。
 
 
 
正面の幾何学模様の切り妻、さらにその上に乗っているのが「雀返し」という 装飾。「雀おどり」「雀おどし」とも呼ばれ機能より装飾を重視。
 
 
 
  
土間には農具やかまどがある
 
 
 
 
左:馬屋  右:小正月のツクリモノ
 
 
江戸時代に参勤交代などで中山道を通行する大名や公家などが休息したところで、本陣のような宿泊用施設ではなく、休憩や昼食あるいは他の大通行が関所にかかっている間の時間待ちなどに利用された。そのため部屋数は少なく、上座と呼ばれる書院造りの上段の間・下の間・式台・通りなどを備えている。家族の生活の場は、勝手・茶の間・中の間・納戸などからなっている。また、茶の間に続く広い座敷は名主役宅として村役所の機能を果たしていた。五料の茶屋本陣は2軒あり両家とも中島姓なので、「お西」「お東」と呼んでいる。両家の先祖は共に天文年中(1540頃)諏訪但馬守が松井田西城を構えたときの家臣中島伊豆直賢と伝えられている。お西に伝わる慶長六(1601)年の「五料村御縄打水帳」によると、すでにその頃五料村に土着し名主役を勤めていたことがわかる。両家とも代々名主役(二人名主制)を勤めており、天保七(1836)年から明治五(1872)年までは交代名主制となり一年交代で名主役を勤めている。現在の建物は両家とも文化三(1806)年の大火で焼失し、同年中に再建されたものである。使用材は松と杉が主で大黒柱などには欅を使用している。東西に土蔵を配し鼓山を眺める南面の借景庭園はすばらしく、裏庭の景観も心和むものがある。
 
 
 
 
 
 
 
引用資料:五料の茶屋本陣パンフレットより
 
 

横川周辺の鉄道遺構                                                             撮影2011/8/18
 
 
給水タンク
SLの給水タンク
横川駅の北側の諏訪神社のそばに明治時代の蒸気機関車の給水タンクがあります。

この赤煉瓦の水槽は明治18年4月15日高崎横川間が開業されそれに伴う蒸気機関車への給水のために造られたものです。東に流れる矢の沢から引水し河原砂を使った浄化装置をも設け給水した。後に横川駅の客車水槽への補給、鐵道官舎の生活用水にもなり、蒸留水に近い水質であったという。上水道の復旧により役割を終えたが。重要な鉄道文化遺産といえます。丸い穴は給水管の跡。「うすいの歴史を残す会」
 
 
 
 
 
裏手に回るとラックレールを転用した屋根があります。
 
 
 
 
火力発電所の沈砂池跡
 
火力発電所の沈砂池 跡
関所跡の前の道を西に進むと火力発電所の沈砂池跡があります。現在は
建設資材置き場(峰岸土木)になっておりるコンクリートの壁が残っているのみです。
 
 
 
 
火力発電所跡
 
「鉄道文化むら」の18号線沿いに火力発電所跡があります。ここは以前国鉄最初の火力発電所があったところですが
今は全く面影は無く廃止になったJRの変電所が有るだけです。この横川石炭火力発電所は 横川〜軽井沢間の電化に
伴い設置された、国鉄最初の火力発電所で1911(明治44)年竣工されました。
 
 
 
 
慰霊碑
「鉄道文化むら」からすぐの遊歩道の右手に慰霊碑があります
左:鎮魂碑、 右:招魂碑でそれぞれ別の場所から移設されたもの。
 
 
 
 
 
  
  
  
   
   

  
  





 
鎮魂碑には 「碓氷路交通殉難者  鎮魂碑平成八年四月吉日  うすいの歴史を残す会」 と刻まれている。


鎮魂碑解説
碓氷峠は、古くから東山道と呼ばれ古代から中世にかけて都と東国を結ぶ重要な宮道であった。 その後、徳川期には中仙道として整備され旅人、馬子、駕籠、大名行列等で賑わい、明治九年になって国道十八号線となった。 その後並行して、
明治二十一年 馬車鉄道開設、
明治二十六年 信越線アブト式の開通、
昭和四十一年 複線電化と各種交通機関は幾多変遷を重ねてきました。
今、茲に信越線廃線に当たり、各種交通機関建設に関わり殉職された方、思わぬ災害や交通事故に遭遇し尊い命を失った人達を慰霊する為鎮魂碑を建立する。遊子願わくば一遍の回向を賜らんことを  合掌  うすいの歴史を残す会


 

   
              













 

招魂碑には「鹿島組 招魂碑 碑文 龍集明治二十五年春三月二日 兵庫県加古郡草谷村 魚住八十松 外五百名 明業舎 願人 魚住政吉」と刻まれている。工事に地元の人が従事せず、遠方の兵庫県から来ているということについて、工夫たちは、経験が必要であり、草創期の鉄道建設でトンネル工事を行ったのは、京都〜大阪間や京都〜大津間「逢坂山隧道」など関西地方であって、
そのため熟練した工夫たちがそののちも全国のトンネル工事に派遣されていきました。鉄道建設を請け負える業者は限られていた時代でした。

招魂碑解説
碓氷峠は、古代より要衝嶮難の地として、東海道箱根の天嶮と並び称されていました。 この地に明治十八年より碓氷アブト式鉄道の建設が開始され、当時の富国強兵の国是により太平洋と日本海を結ぶ鉄道として距離11.2K、26のトンネル、18の橋梁、高低差513mの碓氷線が一年九ヶ月の短期間で開通しました。当時の技術を考える時、おそらく人海戦術であったろうと想像されます。この難工事に全国各地より工事人夫が集められ、多数の犠牲者があったと言われています。その慰霊の為、鹿島組の招魂碑が建設されたものと推測されますが、時久しく路傍の片隅で寂しく眠っておりましたので、この度鎮魂碑建設を機会に同地内に移転し、遠い異郷の地で殉職した方々を合わせて慰霊いたしました。有志願わくは往時を偲んでもの言えず寂しく眠る久泉の人達の冥福を祈らんことを 合掌 うすいの歴史を残す会
 
 
 
                    
碓氷峠のスター達
国産蒸気機関車3980形25T、アプト式電気機関車ED42形、電気機関車EF63形

明治26(1893)年碓氷峠開通した信越本線「碓氷峠」の歴史はそのまま日本の列車史になる。しかも66.7パーミルという比類のない勾配をクリアする「特注」ものばかり。国産蒸気機関車といえば3980形があるが、なんと設計図なしでイギリス製3950形をスケッチしてつくられたという。明治45(1912)年碓氷線電化にともなって登場したのがドイツ製EC40形電気機関車。軽量のため粘着力不足で電気系統の故障も多く、運転は苦戦をしいられた。ED40形は碓氷線の国産電気機関車。満足な工作機械も技術資料もない環境下で、輸入製を上回る機関車ができた。EC40形をチビ電、本機はデカ電と呼ばれていた。昭和8年ED42形が登場。以来30年にわたってアプト式電気機関車はED42形の時代になった。そして、70年の歳月、碓氷峠アプト式鉄道は役割を終える。 昭和38(1963)年アプト式に代わる粘着運転にはEF63形、EF62形と強力な機関車が配備されていった。平成9(1997)年新幹線の登場により廃線になってしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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