バカンス オーストリアウイーン編

 
ニースからは一気に北上し、ウイーンへ向かうためにパリ発の国際列車に乗り込みます。ウイーンはオーストリアの東端なのでフランスからは一番遠いところ。飛行機を使ってもいいくらいの距離があるのですが、飛行機では鉄道のフリーパスが使えないため、やむなく13時間列車に揺られることになりました。鉄道ファンなら大喜びの「世界の車窓から」の様な鉄道の旅。ですが、私は乗り物はあまり得意ではなかったので13時間も間が持つかなあ・・・。と不安でした。車内のアナウンスがないのでどの辺を走ってるのか分からず、その度車掌さんに尋ねます。しょっちゅう地名を尋ねる私達に気づいて、今度は周りの乗客たちが教えてくれるようになりました。頼りなさげな日本人観光客にみんな親切で、ヨーロッパの最新の国際列車は快適そのものでした。

鉄道ファンの方
お待たせしました。列車編成表です。ドイツ語はからきし読めないが、食堂車だけはチェックしてしまう。


 ところが国境を越えるあたりから車掌さんも変わって聞こえてくる言葉もドイツ語に変わってしまいました。とたんに心細くなる私達・・・。実はパリを出発したのが早朝でオーストリアの通貨に両替できず、ウイーンに着いても夜遅くて両替できない可能性が・・・。ホテルに着いても翌日まで一文無し?ああ、どうしよう。晩御飯食べられないかも。(ああ、今ならこんな心配はまったく無いんですね。ユーロ万歳・・。)
 乗客の中にフランス語が話せるおしゃべり好きなマダムがいました。「ウイーンの駅の両替所ならおそらく24時間両替出来るわよ!ねえ、そうよね?(←他の乗客に向かって)だからそんな顔せずに元気を出して!」って。フランスでもあちこち列車の旅をしてきましたが、見慣れぬ異国人の私達にみんな親切でした。自分の国にいい印象を持ってもらいたいという気持ちの表れかも知れません。
彼女はパリに住んでいて、バカンスにお姉さんに会いに行くため毎年オーストリアへ行くと言います。「心配しなくてもウイーンは大きな街で外国人観光客も多いからあなた達が困るような事はないわよ。」って。これを聞いてずいぶん心が軽くなりました。
「それよりあなた達、パリへ来る予定はないの?じゃ、何か書くものちょうだい住所を書いてあげるから。遊びにいらっしゃいよ。私は一人暮らしだからいつでもOKよ。あ、でも姉のところから帰ってからね!」
どうして初対面の東洋人相手にそんなに警戒心がないの?ほとんど無理やり私の手帳にアドレスを書いてました。(笑)

親切なマダムに別れの挨拶をして、列車を降りました。とっぷりと日が暮れた夜の9時、やっとたどり着いたウイーンの駅はそれまで南フランスの田舎街をさまよっていた私達には目が醒めるほどの大都会。マダムの言うとおりでした。

WIEN Westbahnhof 駅
ヴェストバーンホフ駅。西方からの列車が発着する駅です。

着いたはいいが、またここから右も左も分からない・・・。



バカンス 
ニース編

あんまり覚えてないので割愛しま〜す。なんて言ってしまいましたが、思い出しましたよ色々と。
泊まってもいないのにふらふらと遊びに行った高級ホテル、ネグレスコ。セレブの象徴のようなホテル。まるで宿泊客のような顔をしてロビーで写真を撮ったりソファーで涼んだり。今になってその写真を見てみると、ホテルの高級感とはあまりにかけ離れた自分の姿に冷や汗が出ます・・。いやあ、若いってバカですね。実際に私達が泊まったのはとってもリーズナブルで民宿のような・・よく言えば家庭的な宿。
いつもどうやって宿を見つけるか。昔はネットももちろん無かったし、ガイドブックさえ少なかったです。大抵は口コミか、日本から持ってきたガイドブックの1〜2行くらいの紹介文を頼りに予約します。若者向けのガイドブックなので低料金の宿が中心。載ってるのは基本安宿です。お金持ちのリゾートという印象が強いニースにもちゃんと廉価な宿はありました。私達が泊まったのは、ホテルリヨネーズ(ニースなのになぜかリヨン人という名の宿)。駅から近いけど、通りに面している間口がとても狭いんです。細長い階段のワンフロアにひとつづつしか部屋がなく、部屋も細長くてまるで壁に挟まれてるみたい。フランス人の旦那さんとアフリカ人のマダムのご夫婦で切り盛りしている小さな宿。奥さんが英語が出来るというのが売りのようで外国人宿泊客を呼んでいます。
でも実は・・・、フランス語圏の人の英語はフランス語なまりでとっても手ごわい。単語のスペルはフランス語も英語も似ているので、文法だけ英語にして単語はフランス発音のままの人もいます。
駅員さんや店員さんなど、英語が話せる人は私達のような東洋人丸出しの顔には気を使って先に英語で話しかけてくれます。しかし私達、やっとフランス語に耳が慣れてきたところへまた、とっさのフレンチ風英語・・・・・・・。頭、超混乱するんですけどっ!
聞き取れずに「へっ?何ですか?」←これを一体何語で言えばいい?

英語なら「パードン?」フランス語なら「パルドン?」フランス語で聞き返せば次はフランス語が返ってきます。「なんだ、フランス語でいいのね。」って相手は喜んでくれますが、私は複雑です。フランス語が特別出来るわけではないんです。英語が特別出来ないんです。英語は3歳児並、フランス語は幼稚園児並。
中学、高校、短大と何をやってたんだか・・。そして次のドイツ語圏では一体どうするのか・・。

ここには2泊しました。2泊目には部屋を替わってくれと言われ、3階の部屋から7階へ。
もちろんエレベーターもないので狭い階段を荷物を引きずるようにして上りました。荷物を落としてしまったら、すぐ後ろにいる友人が一緒に転げ落ちてしまうんじゃないかと思いました。次の部屋ももちろん、細長い部屋でアンネフランクの隠れ家みたい。なぜ隠れ家みたいに思ったか。部屋が細いので有効に使えるように、扉が回転すると洗面台が現れるとか、シャワーのすぐ後ろにトイレがあってシャワーを浴びるとトイレがびしょぬれになってしまうとか・・・・・。からくり部屋みたいだったんです。
でも何だか面白い部屋だと思いました。快適とまでは言えませんが不快な感じはしませんでした。
一泊一人あたり¥1800- これじゃ部屋の移動も隠れ家的なのも文句は言えませんね。

 ニースではレストランが高そうなので特にご馳走は食べていません。宿から海岸へ続く通りには観光客相手の売店や屋台が並んでいたので、水や食料を買い部屋へ戻って食事をしていました。旅行中の食事は大抵こんな感じでした。

バカンス 
憧れのブイヤベース編

 さあ、お腹が空きました!普段は硬くなったバゲットをかじっている私達ですが、その土地の名物があれば、ここぞという時には注文するんです!
マルセイユと言えば有名なのはブイヤベースです。
Bouillabaisseブイヤベースは、フランスの地中海沿岸地方を代表する海鮮スープ。
どっさりの海の幸の具を、アイヨリソースという、にんにくマヨネーズのようなソースで頂きます。日本風に言えば漁師鍋みたいな感じもします。
お魚好きな日本人ならやっぱりブイヤベースは憧れます。学校があるリヨン近郊は内陸なのでお肉料理が主体でした。久々に魚が食べたい!という期待も膨らみます。日本では写真で味を想像するだけだった見たこともないオレンジ色のスープ!
 さあ、それが今、運ばれてきました。圧倒的な魚介の香り!白身の魚、ムール貝をはじめとする貝類、アナゴか何かの長い魚、これらの魚のほとんどはフランス名が分からなかった為、謎です。一心に観察するのみです。(笑)さてそれでは一口。
お、おいしい・・・。スープのオレンジ色は魚や海老の殻からとったダシ?、サフランの黄色と一緒になってオレンジ色になるんですね。うん、やっぱりおいしいです。グルメリポーターだったらなんと表現するんでしょうねえ。「地中海の宝石箱やあ〜。」ですかねえ。

さて、これ、ここまでは良かったです。幸せでした。にんにくマヨネーズのお陰でパンもすすみお腹が膨れて来るわりに減らないのは鍋の中身・・・・。
給仕係のお兄さんが鍋からお皿へ取り分けてくれるのですが、底の見えないスープの表面からコレでもかコレでもかというほど引き上げられてくる大量のお魚さん達・・・・・。
あ、また新顔のお魚さん登場・・・。そう、だんだんと恐怖に変わる、憧れだったはずの鍋が闇鍋に見えてくる。友人と二人押し付けあいながら、「もう、ないよね?うん、もうないはず・・。」何かもう祈るような気持ちで。
最後に出てきたのは、アナゴ系の長い魚。よりによってと二人でゲラゲラ笑ってると、お兄さんが、「コレ、好き?」
なんぼ好きでもそんなにいらん・・・・・・・・・。




マルセイユのブイヤベースをあなたも是非一度。
忘れられない思い出の味になりますよ〜。(笑)

この次は海岸線をさらに東へニースへ行きましたが、お金持ちでない私達には縁の薄い街なのか、海で泳いだ以外は印象が薄いので割愛いたしま〜す。っていうかあんまり覚えていません・・・。
(2012.10.2更新)

  バカンス マルセイユ編

 アルルから今度は海沿いを東へ、港町マルセイユへ向かいます。さらに日差しは強く、空は青くなっていきます。街一番の駅、サンシャルル駅の大階段は真っ白な大理石。眩しい夏の太陽を反射して、南フランス一の街を強く印象づけています。





フランスの文豪、アレクサンドルデュマの小説「モンテ・クリスト伯」の舞台になった街。私は、「巌窟王」のタイトルの方がピン!とくる世代なんですが。子供のころに読んだ異国の小説は、何の知識もない私でも引き込まれ、止まらなくなるほど面白かったです。



 石畳の坂道が多く高台からは、凱旋門がよく目立ちます。(凱旋門はパリのエトワール凱旋門が有名ですがフランスには各地に勝戦を記念して建てられた凱旋門があります。)


 海辺にはヨットハーバーが
こういう場所は海の幸に期待できますね。

 



 「モンテクリスト伯」で、主人公が無実の罪で流刑にあった島、イフ島は船ですぐの沖にあります。そこに建つシャトーイフは石の牢獄。小説の中だけでなく、実際にも政治犯を収容するのに使われていたので、そこここに生活の跡がうかがえます。薄暗い牢獄の窓からは削られた岩に縁取られた空がより高く見えました。



城壁から海を眺め、囚われた人々はどんな思いでここから故郷を見つめていただろう。としばし思いにふけっていると何やら下のほうからキャーキャーと黄色い歓声が。一緒に船に乗ってきたアメリカ人らしき観光客はいつのまにか水着になっててびっくり!!流刑の地も一瞬でリゾートの趣に。(笑)
刑の執行まで行われていたらしい血なまぐさいい歴史などはずっと過去になって、この今の平和がずっと続きますように。

 帰りは水着のまま、乗船されていました。(大人もです!)バカンスを楽しむのが上手で、ちょっとだけ羨ましい。(笑)

 この日のホテルは駅の大階段のすぐ下。駅に近いのに格安だったのでここに決めましたが、港町らしくアラブ人街の下町で異国情緒満点。(フランスも異国だけど)
中庭には山のような洗濯物がはためき、赤ちゃんの泣き声と階下のバーの物音が騒がしい部屋でした。お陰でアルルでの宿泊費の赤字が取り戻せましたが・・・・。



  バカンス 
南仏アルル編

 
一世一代バカンス計画、練りに練りました。と言っても今のように便利な携帯電話や、インターネットがあるわけじゃなし、情報収集は学校の図書室の資料と日本から持ってきたガイドブックが一冊だけ。心細さ満載ですが、ホテルと列車の切符はなんとか手配しました。(フランス語圏以外のホテルはFAXで予約し、列車のチケットはリヨン駅窓口まで行って買いました。とってもアナログ的手段・・。)南仏とスイス、オーストリアに行き先を絞ってさあ、Allons-y!!(行きましょう!!)
 
 まずはリヨンからは近場と言える南仏アルル。SNCF(フランス国鉄)でまっすぐローヌ河沿いを南に下ります。駅に着いたらパンフレットを貰い、街の地図を手に入れてホテルの大体の場所を調べます。出来るだけ徒歩で行けそうなホテルを予約したつもりですが、この時は少し距離があったので駅前にいたタクシーに乗り込みました。ホテルは二つ星で一人一泊¥3000-(いきなり予算オーバー!!)安いホテルを見つけられず、やむなく選んだホテルでしたが上品で落ち着いた部屋はとっても安心感がありました。歴史的な古い街で古代遺跡も見られます。あのゴッホが数々の作品を残したところです。


「夜のカフェテラス」

 絵画に詳しいわけではありませんが、最初にこの絵を見た時、夜空と明かりの対照的な色使いできれいな絵にもかかわらず何故か、なんて悲しい絵なんだろうと胸が締め付けられるように感じました。昼間はこんなにも明るい太陽の光が降り注ぎ、夢にまで見たこの世の春であるかのようなアルルに暮らしたゴッホが、夜になって日が落ちれば途方もない寂しさと人恋しさに囚われる。夜遅くまで営業しているカフェの明かりに寂しさを紛らわせようと吸い込まれるように見つめるゴッホの姿がそこにあるように感じます。人恋しいくせに人との関わりが下手でいつも孤独にさいなまれていた人。実際この絵はそういう意味を持って描かれたのかどうかは分かりませんが、寂しい時もそうでない時も、この人には絵を描く事しかなかったのだろうと思います。

ゴッホはアルルに暮らし始めた当初は精力的に活動し、生涯の名作のほとんどをここアルルで残しましたが、次第にもともと精神的に不安定で人との関わりが苦手だったため
「療養所の庭」

精神を病み、奇行を重ねついに自分から療養所に入ってしまいます。
この庭は今も一般公開されていて、各国からたくさんの観光客が来ていました。
風景はまったくこの絵のままでした。この絵を描いた頃のゴッホの精神状態は最悪だったはずなのに、色は鮮やかで暗さを感じさせないのは不思議です。

実際の7月のアルルの町は、南仏らしい白い石造りの建物が多いため色彩は控えめなのに、そこに咲く花はより赤く、緑はより濃く、目を惹き付けられました。

Hotel St-trophime ☆☆
アルルには2泊してこのホテルのエントランスを何度も出入りしましたが、部屋の中よりも階段や廊下が素敵なホテルでした。これなら一泊¥3000ーは安いですね。(あくまで1994年当時、ツインルーム一人分の料金です。)フロントの熟年紳士はいつも静かに微笑みをたたえ、このうえなく軽装であまりいいお客様とはいえない私達を穏やかに迎えてくれました。
なんだ〜〜貧乏旅行って感じじゃないじゃ〜〜ん!って思った方、それはまだまだこの先分かりませんよーーー。


  バカンス

 バカンスの事はなかなか書きづらかった・・・。フランス人にとってバカンスはとっても大切だけど日本人にとっては「フランス人ってやっぱりあんまり働かないのね・・・。」って思われる一番の理由になっているから。それに、勉強が厳しいなんて言ってやっぱりそれって遊学じゃん?と言われそう・・・いや違うんです、本当にフランスでは普通なんですー!!

 この大きな夏休み。フランスは夏が短いので、時期は日本より少し早めの6月末から8月初旬くらいまで。8月に入ると夜が寒くて遊び回るには不便になります。フランスにいる間はフランス式に、バカンスを利用してケーキの食べ歩きや観光に行ってみる事にしました。当時は、こんなに休んで旅行三昧なんてバチがあたるんじゃなかろうか・・・。って心配になりました。日本人的です、私。でも、思い切って行ってよかった。以降の私は本当に休みがない毎日を過ごす事になりましたから。

 フランス近辺で行きたかったところは・・・・・。
まず南仏の方です。ゴッホやゴーギャンが心奪われた南フランスの日差しを見てみたい。
と言うのもあるけど、本当は当時若い女性の間で南仏が流行ってたんですね。それでオシャレに思えて行ってみたかったんです。アレクサンドルデュマの岩窟王(モンテ・クリスト伯)の舞台になったマルセイユも。後はお菓子の街として有名なオーストリアのウイーン、サウンドオブミュージックで知られるザルツブルグ、ハイジの国スイスでチーズフォンデュを食べなきゃ!!フランスとドイツで占領しあった歴史があって二つの文化が入り混じるアルザスも。それとノルマンディーってドコだっけ?ブルターニュってまた異文化で面白いらしいよ。帰りはパリを経由しようか・・・?
 何だか言いたい放題言ってるけど、予算は限られるのに方角はバラバラ、出来ればユーロで共通の列車乗り放題フリーパスだけを使って行きたい!!ホテル代は一人¥2500-までね。とケチなくせに欲張った計画を立てて、私とぴったり意見が一致した同室の友達と一緒に出掛ける事になりました。(笑)ケチな旅行は体力的にはキツいという事も知らず・・・・・。そしてドイツ語圏が多いのにドイツ語が話せるワケもなく・・・。



うっっっっ・・・フランスの一般的な地図、ミシュラン
地名が・・読めないっ・・・・・・・・・・・・。一番不便なのは、フランス語圏以外の国の
地名がフランス語表記なコト・・。


 フランスの製菓学校 4 プロフェスュール(先生)

 連日の実習、先生の怒号、早口で聞き取れないフランス語・・・・・。とっても落ち込みます。とにかくもう、聞いたことのない叱咤。。どの先生も同じく、激しい口調。最初はびっくりしました。なにこれ・・・こんな中でやっていけるん?って思いました。生徒はみんな恐怖で縮み上がり、女の子の列から「
こんなの耐えられない・・」っていう泣き声にも似た小さなつぶやきが聞こえてきます。そんな声が聞こえてくると、本当に大変なところに来てしまったんだろうか。と後悔の念が湧いてきます。もう逃げられない・・・・。

    ここは本当にそんなにめちゃくちゃな学校だったんでしょうか?・・・・・・・

 日が経つにつれ、落ち着いてくると見方が変わってきました。先生方は確かに怖いんですけど、本気で怒ってはいない気がしました。本気で怒っているフリで、本気で指導していました。ここは学校ですが、本当の料理や製菓の現場は相当厳しいものです。現場でくじける事のないよう、罵声に慣れさせることをしていると感じたのは私が他のみんなよりも少し年上だったからかも知れません。製菓部で一番激しい先生は大阪出身で、大阪弁での罵詈雑言が板についていてまるでVシネマみたいに迫力がありました!全国から集まってる生徒達に大阪弁は怖いもの、と植えつけてしまったのは残念でした。(笑)この頃の友達は今でも、先生の大阪弁の怒声を標準語訛りでモノまねしてくれます。私に「これで合ってる?」ってアクセントを確認しながら。強烈な記憶となって残っているようです。

 すごい学校です。先生方が本気で、現場で役に立つ人間を作るにはどうしたらいいかと
考えてくれていた結果です。あんなに厳しく、叩かれたり蹴られたりもするのに後々、生徒達には大変慕われていたところを見ると、愛情って隠してても伝わるものなんですね。

 こんなに厳しい学校でしたが、これでも研修先のパティスリーでの生活の方がやっぱり大変だったんです。

フランスの製菓学校 3 ルームメイト
 
平日は、朝から晩までハードな実習やフランス語の授業に追われます。しかし、週末にふと勉強から離れるとそこは緑の美しいフランスの田舎の学校。私達の宿舎はかつては納屋やお手伝いさん達が寝泊りしていた別棟の建物。今は改装され、快適に暮らせるようになっています。1部屋2人〜3人での生活。実は昔からルームシェアに憧れていました。アメリカ映画などでお金のない若者が数人で部屋を借り、共同生活するシーンを見て、非日常的で楽しそう!!一度やってみたい!って思っていました。
 到着したその日、重いスーツケースを引きずりながら部屋までたどり着き、一足早く到着していたルームメイトとなる人に緊張の初対面の挨拶をしました。小柄で大人しそうな女性で、彼女もすこし不安げな表情を浮べていた気がします。私と同じように「これから一緒に生活しなければならない人とうまくやれるかな・・・。」と思っていたに違いありません。同じ日本人でも関東と関西で出身地も違い、共通点が見出せないように思いました。関東地方の人ってなんとなく大阪人から見るととっつきにくい・・・・ですよね。ものすごく価値観が違っていたらどうしよう・・・。彼女の友達もみんな関東勢で、聞こえてくるのは標準語ばかり。なんだか距離があるように感じていました。

 実はそんな初対面の日のお互いの不安も後日、全く杞憂だったという事になります。彼女は話せば話すほど興味深い人でした。基本的な価値観は似ていますが、彼女なりの世界を持っています。なぜかフランス語よりも先に大阪弁を覚えてしまい、フランスに居ながらにして大阪の文化を掘り下げる事に喜びを見出してしまいました。(あの、「チャウチャウちゃうんちゃう?」というのを、解説つきで何度言わされたことでしょう。)しかし平日は実習クラスが別なので部屋に戻るわずかな時間もすれ違いになりがち。会えるかどうかのスケジュールを前日に確認して、わずかな時間でも顔を見られた時はそれまでの間に起こった面白かった事を慌てて伝えなくてはなりません。丸一日会えなかった時には、夜部屋へ帰った時に溜まっていた話をお互いが話そうとして大変。部屋のドアを開けるか開けないかのうちに、一日の報告が始まります。そして時間が取れる休日にはいつも一緒にご飯を食べたり散歩をしたりと笑いっぱなしで、あっという間に時間が過ぎる気がしました。週末明けには、しゃべりすぎで喉が痛かったことも・・・。
そして、仲良くなれないかも・・・って勝手に思ってしまっていた彼女の友達である標準語を操る人達(笑)もなんの屈託もないお菓子好きの愛すべき人達でした。

学校を卒業するまでの間、ずっとこのままの生活が続きました。

 今でもまだルームシェアという言葉に憧れはあって「また違う人達と暮らしてみたい!」などと思うことがありますが、この時のように上手くいく事はそうそうないだろうと思います。
(2011.2.16)

フランスの製菓学校 2 フランス語

 朝から晩までフランス語が頭から離れる事はなく、四六時中お菓子の事を考え、実習に付いて行くのがやっと・・・・。一日の授業と実習が全て終わってやっと自分の部屋に帰ってきても(部屋も学校内です。)、まだたくさんの課題が残っています。二人部屋のルームメートも夜中まで机にかじりつき、時おりもらすため息にいっそう不安になったものでした。
 フランスでこんな生活が始まった時から「こんな調子で、果たしてフランス人シェフの指示通り働く事が出来るのか?」という大きな不安が常に頭にありました。 夜中まで勉強しても毎日知らない製菓用語が出てきて自分が全く前に進んでいる実感がないと焦りました。日常生活にしても買い物、洗濯、戸惑う事ばかり。
最終的な目標は、街のパティスリーでフランス人に混じってパティシエの一員として認めてもらいたい。というものでした。とにかく出来るかぎりやってみるしかない。と自分に言い聞かせてみるものの、心のどこかで「そんなん無理ちゃうん・・。」っていう思いがいつも頭をもたげてきました。冒険なんて一切出来ない臆病者の私が一大決心でやってきたフランス。はっきり言って後がない(笑)。そうは言っても常に耳に入る言葉を文字に直し動詞の変化形から元の形を探るという作業は、思いのほか私の使った事のない脳みそを疲れさせました。

 ひと月ほど経った頃、疲れが溜まったのかフランスの強烈な風邪ウイルスにやられてしまいました。(フランスでも香港型ソ連型ってあるのかなぁ)5月のフランスはまだまだ寒い。それまで気が付かずにいたのですがヨーロッパの空気の乾燥は相当なものです。そういえば学校の庭にはラベンダーやローズマリーなど乾燥に強い植物ばかりが勢力を振るっていました。日本では土があるところは放っておけば雑草が背丈ほどにもなってしまいますが、乾燥したフランスでは膝下程度でした。
でもフランスで初めてひいた私の風邪も、フランスの風邪薬ですぐに直ってしまいました。お医者さんに処方してもらったものですが現地の風邪には現地の薬がいいのかな?と思い、その薬をお守りみたいに大事にとっておきました。
フランスの製菓学校 1 ”Chateau Escoffier”

 フランスのリヨン近郊にある、フランス料理と製菓の学校。ここで寮生活しながら
フランス語や製菓技術を勉強しました。生活様式もすべてフランス式。びっしり詰まった
カリキュラムで授業がすすめられ、実習も沢山あります。朝から晩までワインや料理、フランスの食習慣、文化など、食をとりまく、ありとあらゆる方面から勉強します。特に実習はフランス語の製菓専門用語漬けの世界・・・・。これを勉強しなければ実習についていく事が出来ません。自分達の三度の食事もすべて
実習で作られた料理とお菓子です。食べる事も授業のうちなので、レストラン形式でテーブルまで生徒に
案内され、フルコースのお料理が出ます。(tous les jours!
毎日です!


Le plat d'aujourd'hui?    今日のお料理は?

食前酒は?オードブルは?ワインは?メインは?チーズは?デザートは?
食後のコーヒーは?
隣の厨房(実習室)はまるで戦場、シェフの罵声が飛び交います。お料理を運ぶサービス係の生徒も
必死。漂う緊張感は常にMAXで。
メニューは伝統的なフランス料理とお菓子が中心。
学校にいる間、たとえ勉強であったといえど、ずーっと生徒全員と先生の分までお料理を作り続けてくれた若き料理人の卵達。今、私は家族の為に毎日家庭料理を作り続ける身となって、食べるものを準備してもらっていた有り難さをひしひしと感じています。厳しい実習や勉強の終わりに残ったガトーを取り合う時は、普通の若者らしい表情に戻って和気あいあいと・・・・・。そんな楽しい一面もありました。
お菓子には緊張感をほどく不思議な力があります。それがお菓子の一番の魅力でしょう。
今、私が仕事として作り続けるお菓子もあの頃の彼らように嬉しそうな顔をして
食べてくれるお客様がいる事を、幸せに思います。
(2010.6.6)

 学校は
 ”Chateau Escoffier”
                   自然が美しく普段は大変のどかですが、ひとたび実習が始まると・・・・・。

La fete du Muguet  スズラン祭り
 
5月1日は「すずらんの日」です。

なんとも可憐でひっそりした姿でしょう。

フランスではこのすずらんの日に、愛する人にこの花を贈ります。

街中でも田舎でも、交差点でもすずらんを売る人でいっぱい。

ケーキ屋さんまで、ショーケースの全部のケーキにすずらん(造花)が挿してありました。

フランスはお花屋さんが多かったので、お花好きな人が多いのでしょうね。

上品で清楚なすずらんの香り。香水が発達しているフランスにはこの香りをお手本にして作られた香水がいくつもあって昔から人気です。本当にすずらんにそっくりな香りがします。


(と言っても私は香水つけませんが。フランスの大きな香水専門店でテスターで遊んでいただけです・・・)

すずらんにそっくりな香りのChristian Dior ディオリッシモ
これは本当に清楚なお嬢様でなくてはつけられない気がしました・・・。ハードル高すぎです。

フランスはやっぱり愛を贈る、とか気持ちを伝える事が日常なのかもしれません。
アムール(愛)の国のお人柄ですね?

2010.5.06更新


トランブルモン ド テール
  Tremblement de terre


 15年前の1月17日。その日も早朝からいつも通りにケーキを作り、すこし落ち着いた頃

知人から電話がありました。仕事中の電話など今までなかった事で、不思議に思いながら

受話器を受け取りました。

「神戸に大きな地震があった。念のため家族の安否を確認するための電話をしたほうがいい。」

との知らせ。阪神淡路大震災でした。私の青ざめた顔を見て仕事仲間達は、

一体何事かと訪ねてきました。「地震」というフランス語を知らなかった私は、

身振りで地震の様子を伝えると、仲間の一人はすぐに
「それはトランブルモン ド テールだ。」

と教えてくれました。トランブルモンは振動、テールは大地。「大地の震動」と言うフランス語は、

地震という日本語よりももっと不気味に私の胸に響きました。


私が知らない間に友達や家や家族が無くなるかも知れない。という恐怖は、

揺れを体験するのとはまた違った怖さがありました。テレビも携帯電話も無かった私は、

仲間からのニュースを伝え聞くだけで、日に日に膨れ上がる死傷者の数を聞いて

なすすべもなく呆然としました。

家族にも友達にも大きな被害はなかったと聞いてからも、後になって日本から送られてきた

新聞で見た横倒しになった阪神高速道の写真はショッキングでした。


今でも私はあの日が来る度、震災の映像を目にする度、直接地震を体験しなかった

自分の後ろめたいような気持ちと、情報の少なかった当時のフランスで右往左往していた

自分を思い出します。

(2010.1.30)

  洋菓子製造に携わる者にとって憧れの街、
                    神戸は一体どうなってしまったのか・・・・・不安でいっぱいでした。