「あんた、不二先輩の弟なんだってね」
 生意気そうなツラをしたチビの対戦相手。
 青学のルーキーらしい。
「どっちが強いのかな。ああ、楽しみ楽しみ」
 そいつはそう言って、鼻で笑った。
 ブン殴ってやろうかと思うくらい腹が立った。実際、ネットで隔てられてなかったら確実にそうしていただろう。
 俺は気を取り直すように、ラケットを握った手を強く握り締めた。



『Please call me...』



 兄貴は何だって出来た。
 言う事をよく聞く良い子で、大層大人から可愛がられていた。
 それが面白くなく感じた事は、無いとは言えない。でも、小さい頃は、そんな出来のいい兄をもっていることを誇りに感じていた節があったような気がする。
 しかし、いつ頃気がついてしまったのだろう。
 自分は兄貴という存在のフィルターを通してしか周囲に認識してもらえてないことを。
 考えてみれば、親類縁者の大人たちの話題の中心はいつだって兄で、自分が注目されることはあまり無かった。気を引こうとしても、それは大人の目から見たら悪戯としか映らなかったようで、かえって怒られたものだ。
 何をしても上手く行かない自分。何をしても上手くやってしまう兄。
 それだけならまだ良かった。
 いや、良くは無かったかもしれないだろうが、少なくとも今よりは上手く、兄貴とやっていけてたんじゃないかと思う。
 決定的に兄貴との溝を深めたのは、きっとテニスを始めてからだ。
 気付いたら、自分は必ず兄の下位にいた。いつだって二番手だった。
 兄貴は天才だった。テニスを始めてすぐ、頭角を現した。
 兄貴の名は、すぐに広がった。
 それ以降、行く所行く所、不二と名乗れば、「あの不二の弟」と、こう言われた。
 この場合の”あの不二”というのは、もちろん自分の事ではなく、兄貴を指す。
 『不二の弟』というレッテルの中に、自分の”個”というものは存在しない。
 不二周助の弟と言われる限り、自分の名前は出てこないわけだ。裕太と言う名前が。
 名前だけではない。
 弟と称される限り、まず先に兄があって、兄という存在を通して自分が認識されているということなのだ。
 いつだって付きまとう兄の名。
 それが悔しくて悔しくて、いつの間にか『不二の弟』と呼ばれる度に、はらわたが煮え繰り返りそうになった。

 そこそこ珍しいから、名乗るだけで『あの不二』の血縁者だと一発でばれてしまう「不二」という名字。

 嫌いだ。




「どうしたの?テニス部に何か用?」
 初めて訪れた聖ルドルフ学院のテニス部の部室前で、さすがにどうしたものか戸惑って立ちすくんでいると、背後から声をかけられた。
 振り向くと、誰もいなかった。いや、目線の高さに顔が無かった。
 少し俯くと、こけしのように頭と首のバランスが少々悪そうな、眼鏡をかけた背の低い男が見えた。
「はあ。あの、観月さんとかは…」
 俺はとりあえず、聖ルドルフを紹介してくれた人物の名を口にした。
 途端、眼鏡の男は破顔して、ああ、と言ってかくかくと何度も頷いた。こけしと言うよりも、まるで昔のブリキか何かの人形みたいだ。
「観月ならもうすぐ来るよ。君が例の一年生か。観月から聞いてるよ。テニスすごく上手いんだってね」
 男は言いながら、部室のドアを開けて招き入れてくれた。
 中では、日に焼けて見事な褐色の肌をした大柄な男が、パイプ椅子に座りながら机に足を乗せ、テニス雑誌を読んでいた。
 正直ちょっとガラが悪そうに見えた。
 尤も、俺も怒ってなどいないのに怒っているように見られることが多いくらい目付きが悪いから、人のことを言えた義理ではないけども。
「あ、もう来てたの」
「よう」
 色黒な男は、足を下ろしてテニス雑誌をぱたんと閉じた。
「そっちが観月達が言ってた奴か?」
 褐色の顔が俺に向いた。
 頭のてっぺんから足先まで視線が舐めていくのが分かる。
 俺は視線をその男に向けたまま、軽く会釈をした。
「そうそう。えっと…あの青学の不二周助の弟君だよね?」
 俺はその瞬間、ぴしり、とこめかみが音を立てるのを確かに感じた。
 気付くと、脊椎反射の如き素早さで、傍らに立つ眼鏡の男を、初対面にもかかわらず容赦なく睨んでいた。
 気の良さそうなその男が、ひぃ、と息を飲んで後退る。よほど俺の顔が怖かったらしい。失礼な。
「不二裕太、だったか」
「はい」
 俺はあまりの怖がられように少々辟易しながら、中にいる男の方に身体を向けた。
 男は顎で、俺の隣で完全に萎縮している眼鏡の男を指した。
「そいつは野村拓也。ノムタクって呼ばれてる。悪気は無いんだ。許してやってくれ」
 そう言った男の頬の線が、僅かに緩む。男は口の端を上げて笑みながら、立ち上がって右手を差し出してきた。
「俺は赤澤吉朗だ。一応、ここの部長をやってる」
「不二裕太です。これから宜しくお願いします」
 俺は差し出された右手を握り返した。
 マメでごつごつと硬くなった掌が、赤澤さんのテニスの年季の深さを物語っているように感じた。
 赤澤さんが微笑みながら言った。
「こちらこそよろしくな、不二」
 不二。
 耳の奥で、その二文字の音が瞬時に凝った。
 心の奥のしこりがぐずぐずと疼いて、昏い影を吐き出してくる。
 くそ、気持ちが悪い。
 胸の中央にわだかまりを覚えて、俺はその不快さに眉根が寄って行くのを抑えられなかった。
「あの」
 思わず、言葉が喉を突いて出た。
 些細な事なのに。どうでもいいようなことなのに。
 なのに、言わずにはいられない。
「不二って呼ぶの、やめてくれませんか」
「ん?」
「不二って名前、嫌いなんです」
 俺は、半ば吐き棄てるように言った。
 万人に必ず兄を想起させる、この名字。不二と言えば周助。そこに俺の名前が入り込む余地は無い。
「裕太、でいいです」
「あー、お兄さんと比較されるもんなあ。辛いよな、弟って立場」
 俺は、気がつくと、先ほどにも勝る速さで野村を睨んでいた。
 俺の視線から逃れたかったのか、野村は泡食ってぺたり、と滑稽な格好で壁にひっついた。
 俺の顔、そんなに怖いんだろうか。別に熊とかの猛獣に勝てるほどの形相でもないと思うんだけど。
「そんなにイヤなら、改名したらどうだーね?」
「名字改名は難しいよ。どこかに養子縁組してもらうか、婿に行ったらいいんじゃない?名字変わるよ?」
 特徴のある語尾の声と、クスクスと笑いを含む声。
 聞き覚えのある声が、唐突に背中に突き刺さった。
 振り返ると、案の定、以前テニススクールで手合わせをした時にいた、聖ルドルフテニス部のメンバーの二人が部室の入口に立っていた。
「やあ」
「よう、裕太」
「こんにちは」
 俺が挨拶をすると、二人は俺の脇を通り過ぎ、各々荷物を部室の中の机に置いた。
 赤澤さんが見下すように目を細めて、二人を目で追う。
「二人とも何無責任なこと言ってんだ」
「別に本当にそうしろって言ったわけじゃないよ。そういう方法もあるよ、っていう提案だよ、提案」
「そうだーね。淳の言う通りだーね」
「お前らなあ」
 赤澤さんが半眼で呻いた。
 赤澤さんはアホらしいと言わんばかりの顔だったが、俺はまるで夜霧が明けるように思考が澄んでいくのを感じた。思わず呟く。
「そうか、そういう方法もあるのか…」
「おいおい、裕太」
 赤澤さんは呆れたように頭を掻いた。
「クスクス、本当に嫌なんだね」
「嫌ッス」
 俺はきっぱりと言い切った。
 だって本当に嫌なんだ。
 不二という名字。
 兄貴と同じ名字。
 その名字を名乗る限り兄貴と縁続きであるのは明確であって、しかもその名字を聞いた時にまず出てくる名は、周助であって裕太ではない。
 俺の名前は、今どこにも居場所が無い。
 その居場所を自ら作るために、わざわざ転校してきたのだ。
 頑なに嫌がる俺に呆れたか、赤澤さんは軽くため息を吐いた。
 そして、信じられないことを言った。
「裕太。俺はお前の名字、いい名前だと思うがな」
「何でですか?」
 思わず聞き返す声が刺々しくなった。
 そのように感じた事など一度も無い。いや、幼い頃は感じていたのかもしれない。愚かにもあのような兄を持って誇らしく思っていた時には。
 でも今や、その時の自分の心の動きが思い出せない。
 ともあれ、今は『不二の弟』などという呼び名は真っ平御免だ。
 俺の名前を覚えやがれ。兄貴なんかよりも、俺の名前を。
 『不二』は兄貴だけじゃない。俺も『不二』だ。
 そして俺は『不二の弟』なんて名前じゃない。俺は『不二裕太』だ。
 なのに世間は、不二と聞くと必ず兄貴のことを言う。
 でも赤澤さんは、そんな不二という名字がいいと言う。何故だ。
 俺が睨むように赤澤さんを見ると、野村はまた身を仰け反らせていたが、真正面の赤澤さんは臆することなく(というより、野村の肝っ玉が小さいだけなのかもしれない)、平然と口を開いた。
「だって不二って名字は、”二つと不ず(あらず)”って意味だろ?いい名字じゃねぇか」
「………………」
「不二って名前の意味通り、お前はお前で、兄貴は兄貴で、二人とはいないワケだろ」
 息が詰まった。
 不二とは、”二つとあらず”。
 そんなこと、考えたこと無かった。
 自分の名字はそのような意味だったのか。
 そうか。そう考えると、確かにこの名字は悪くないかもしれない。
 でも、だからといって今までのわだかまりが一気に解消するはずもない。
 確かに俺は俺で、兄貴は兄貴だ。でも同じ不二だ。
 だからこそ俺は、今まで苦しんできて。悔しい思いをいっぱいして。辛くて。
 そうだ、だから、俺はここにいるんだ。
「赤澤がそんなこと言うなんて、珍しい事もあるもんだね」
「ってか寒いだーね」
「うるせぇ」
 囃し立てる二人に対して、心底嫌そうに顔を歪める赤澤部長。
 俺は…俺は。
(俺は…二つとはない俺の価値を、俺の活躍で…)



 唐突に、語尾が意識の中に溶けて消えた。
 白昼夢だったのか。
 いや、記憶だ。聖ルドルフに入学した頃の。
 目を転じると、チビの青学一年生レギュラーが、皓い陽光と対照的に黒々とした影になっていた。
 影は、洗練された動きでラケットを構えて、ぽーんぽーん、と間隔を置きながら硬球を弾ませている。
 俺はちらりと横目でギャラリーを見た。
 兄貴。周助。不二周助。
「確かにアンタは強い。だが俺も強くなった」
 この一戦、絶対負けない。
 俺の活躍を見せてやる。

 …誰に?
 兄貴に?
 違う。みんなに。

 俺の名前を、『不二』の名を、その意味を、俺の活躍で知らしめてやる。



<了>




※あとがき※