『兄と弟』



 裕太は、はあ、とため息をついた。
 夜の公園。
 裕太の他に人影は無く、時折犬の散歩をしている人が裕太を怪訝そうに見ながら脇を通り過ぎていく。
 ベンチに座ってぼうっと何を見るとも無しに過ごすことしばし。数十分は経っている。



 裕太は、数十分前、家を飛び出していた。
 久々に家に帰って、大好物のかぼちゃ入りカレーを食べた。食後に姉手作りのラズベリーパイを食べた。
 母はその後町内会の集まりで家を出、家には姉の由美子と兄の周助、裕太の三人が残っていた。
 残った三人は姉兄弟団欒の一時を楽しんでいたが、それも束の間だった。
 日頃からソリの合わない兄と何かがきっかけになって、他愛もないお喋りをするだけののんびりとした雰囲気は突如打ち壊れ、激しい口論になった…といっても、一方的に自分が何か喚いていただけのような気がするが。
 兄はどんな時でも、裕太が怒って何かを言い立てようとも、少々困ったような顔で聞き手に回るだけだった。
 暖簾に腕押し、ぬかに釘。
 当にそのような感じで、全く手ごたえが無い。
 困惑気味の微笑を見ていると、兄は自分にどんな酷いことを言われようとも、全然気にしてないのではないかという気になった。いつもは。



 ばんっ。
 強く机を叩く音。
 高いリビングの天井に響いて消える。
 訪れた沈黙は一秒と続かず、裕太の怒声が掻き消えた音を追う。
「兄貴なんて、大ッ嫌いだ!」
 少々困ったように、兄が微苦笑を漏らした。
 ここまではいつもの喧嘩と変わりない。裕太がいつも言う常套句。
 この台詞を吐いて裕太が兄の目の前から消えて、喧嘩は終了。
 でも今日はいつもと違った。続く言葉があった。
「お前なんかさっさとどこにでも行っちまえ!居ない方がせいせいすんだよ!!」
 それを耳にした瞬間、対面している兄、周助の青鈍色の瞳の中を、氷のような冷たい光が駆け抜けた。
 不二の表情が色を失って固まる。
「裕太っ!」
 姉が見かねて椅子から立ち上がるが、その時にはもう裕太はリビングの扉に手をかけていた。
「待ちなさい裕太!!」
 ばたんっ!
 悲鳴のような姉の声は、後ろ手に閉じられた扉に遮られた。



 裕太!と自分を呼ぶ姉の声が、耳に纏わりついてはなれない。
 そして、瞬時に、氷で出来た彫像のように顔面を蒼白にして固まった兄の表情――――固く唇を引き結んで、兄の青鈍色の瞳が細く鋭く自分を射た、あの時の、兄の顔。
 それが今でも目に灼きついている。
 なのに、何がきっかけで喧嘩になったのか、微塵とも思い出せないのはどういうことだろう。
 きっと、些細なことだったんだろう。いつもなら激しい喧嘩に発展することもない、本当に些細な何か。

 兄は気に食わない。
 どこが、と言われても困る。
 とにかく気に食わない。
 敢えて挙げるなら、自分がいかに食って掛かろうと、事も無げに笑顔を崩さない余裕っぷりが気に入らない。
 自分はあんな風に何事にも余裕を持って臨むことなど、まず出来ない。
 兄と向かい合っている時は、その差を見せ付けられているようで、いつだってムカムカと腹が立つ。
 腹を立てる者と余裕を持って受け止める者。
 その二者の間の勝敗は明らかであり、いつだって自分は敗者の側だった。
 自分はこんなにも平常心を乱しているのに、兄の平常心は微塵とも揺らいでいない。
 それは一層怒りを募らせ、一層自分は兄の敗者に甘んじざるを得なくなる。

 なんとかして兄の鼻を明かしてやりたい、と無意識のうちに思っていたのかもしれない。
 兄の涼しい顔を歪ませて、敗者の味を味わわせたかったのかもしれない。

 だからだろうか。
 兄、周助に吐いた今までの言葉の中で、一番酷い言葉を言った。
 いつもなら言わない言葉。

 言ってしまった―――その想いがどうにも抜けない。

 確かに自分は、兄の余裕を打ち崩したいと思っていたかもしれない。
 でも、その目的を果たす手段が、兄をあんなに傷つけるとは考え及んでいなかった。
 確かにあの兄の顔は、傷ついていた。
 いつもなら絶対に見せないあんな顔。
 なんとか手ごたえを感じようと発した言葉は、確かに兄の心に突き刺さったようだった。

 願望が叶ったんじゃないのか。
 ずっとこうしたいと思っていたんじゃないのか。
 あんな風に笑顔が剥ぎ取られた顔を見たかったんじゃなかったのか。
 余裕を失した兄を見たかったんじゃなかったのか。

 なのに。
 なぜこんなにも胸が苦しくて、身体が重いんだろう。
 後悔、しているんだろうか。
 兄を傷つけた事を。



「あれ?」
 不意に、聞き覚えのある声がした。
「えっと…んーっと…裕太くんだっけ?」
 公園の街頭の下、淡いオレンジ色の光に照らされて、ラフなトレーナー姿で佇んでいたのは、兄周助の友人、菊丸英二だった。
「あ、菊丸さん…」
「やっぱそっかー」
 にぱっと笑顔を浮かべて、英二はすたすたと裕太が座っているベンチに歩み寄った。
「どっかで見た顔だと思った」
 人好きのする笑顔を浮かべる英二を見て、裕太は、同じ笑顔でも兄が浮かべるそれとはこんなに違う笑顔があるんだな、と、なんとなく思った。

 英二とは、微妙に面識があった。
 かつて数回、英二が不二の家に遊びに来た時に、顔を合わせたことがある。
 尤もこうやって話をするのは初めてだったが、英二はそんなことは頓着しないようで、まるで昔からの友人のように軽い口調で尋ねてくる。
「なんでこんな時間にこんなトコにいんの?確か寮生活だったよね。学校は?」
「うちの学校、土日の連休と水曜日の創立記念日をくっつけて、今5日間の休み中なんです」
「へえ、いいにゃ〜」
 言いながら、英二は裕太の隣に座った。
「そういう菊丸さんこそ、どうしてこんな所に…。結構家から遠いんじゃないですか、ここ」
「うん、まあそーなんだけど。自主トレ中なの。オレにしちゃ珍しいだろ?」
 言いながら英二は、誇らしそうに、こめかみを滑る汗をトレーナーの袖で拭き取った。
 裕太はそれを見ながら、不審げに相槌を打つ。
「はあ」
「あ、そっか、知らないよな。オレ、自主練習ってあんま好きじゃないんだよね。部活は好きだけどさ………………で?」
「はい?」
 英二が、先を促すように裕太の方を見ながら首を傾げる。
「なんでこんな時間にこんなトコにいんの?」
 先ほどと同じ質問を繰り返した英二は、いつの間にか屈託のない笑顔をどこかへやっていた。
 探りを入れるように裕太を一瞥した後、英二は呟くように言った。
「なんか深刻そーな顔してた……」
「!」
「…と思ったケド?違う?」
「……………」
 裕太が何も言わないので、英二は間が悪そうにぽりぽりと頬を掻き、空を見上げた。
 基本的に、沈黙があまり好きではないのだろうか。
「今日はあんま天気よくないねぇ。星見てたってわけじゃないでしょ?」
「……………」
「お節介かもしんないけどさ、話して楽になることだってあるよ?」
 英二は兄の友人だ。
 英二に話したことが不二の耳に入る確率は非常に高い。
 だからあまり話さない方がいい、と理性は告げている。
 しかし、英二と話していると、何か不思議と心が解きほぐされていくような、そんな感じがした。
 見方を変えたら、英二の態度は馴れ馴れしいとも言えなくないのかもしれないが、すごく親身になって聞いてくれそうな、そんな期待感が否応無しに膨らんでいく。
 胸の痛みが少しでも和らぐなら―――そう思えてくる。
「…菊丸さん」
 裕太は躊躇いがちに口を開いた。
「エージでいいよん」
 英二が嬉しそうに笑った。
「えっと…じゃあ、エージさん」
「ほいほい」
「…兄貴と、喧嘩したんです」
「不二と喧嘩?不二と喧嘩って器用だなあ」
 英二は驚愕の声を上げる。
「不二って何でもすんなりかわしちゃうじゃん?オレも喧嘩らしきものはするけどさ、いつもオレが勝手に喚いてるだけだよ」
「あ、いや、俺もそんなカンジです。俺が一方的に怒ってたっていうか」
「ハハハ、そんなもんだよね、不二との喧嘩なんてさ」
 英二は可笑しそうに笑った。
「で、何が原因?」
「それがはっきり覚えて無いんですよ。何が原因だったか。大した事じゃなかったと思うんですけど」
 裕太は言いながらもう一度己の記憶を探るが、やはり何故あんなに怒りの頂点に達する事になったのか、よく分からなかった。
「あー、あるある。後で考えたら何に怒ってたのか分かんなくなること」
 英二の相槌に軽く頷いて、裕太は後を続ける。
「そんで、ちょっと酷いこと言っちゃって…」
「にゃ?酷いこと?」
 問われて裕太は僅かに逡巡したが、意を決して口を開いた。
「居なくなっちまえって…居ない方がせいせいするって…そんな風なことを」
 裕太は膝の上で拳を握り、文節ごとに区切ってゆっくりと語った。
「兄貴、いつもは俺が何を言っても涼しい顔しているのに、その言葉を聞いた途端顔色変えちゃって…。俺、兄貴を傷つけちゃったみたいです」
「うーん…確かにその言葉は、不二なら堪えるよな、きっと」
 英二は頭の後ろで手を組み、ベンチの背もたれに身体を凭せ掛けた。
 そして唐突に言った。
「オレも身に覚えがあるよ」
「え?」
 裕太は英二を振り返った。
 英二は苦笑いをしながら、星の出ていない曇った空を見上げていた。
「オレ、5人兄弟の末っ子なんだよ。知ってた?」
「あ、兄貴から聞いた事あります。とっても賑やかで楽しそうだって」
「賑やか過ぎるくらいだよ」
 英二はくすくすと笑った。
「色々からかわれるんだよな、兄ちゃんとか姉ちゃんに。んで、いつだったかな…すんごく癪に障ること言われてさ、オレも同じこと言っちゃったんだ。とっとと居なくなっちまえって。兄ちゃんに」
 言ってしまった自分を悔いているのか、眉尻を下げる英二。
「で、その後姉ちゃんに呼び出されてさ、言われた。”英二ももう14だし、あたしたちは既にもういい大人だし、ほんの数年もしたらそれぞれ独立してるはずよ”って。自分もいつ結婚するか分からないしって。そしたら、家族みんなバラバラだよねって」
 空を見上げながら話す英二の横顔に、少し寂しげな翳が落ちていた。
 裕太はそれを見ながら、自分の家族に思いを馳せる。
 姉は既に24。いつ嫁に行ってもおかしくない。
 兄は一つ上。長男だから、家を継ぐんだろうか?それとも姉が婿養子を取るんだろうか?いや、どちらにしろ、自分は独立して家を出る。
 そうなれば、やはり姉や兄と離れ離れになるのは必至だ。
 自分が独立するのは、果たして何年後だろう。
 早ければ、あと4、5年だろうか。遅くとも、あと10年もないだろう。
「”居なくなっちゃえ、なんて寂しいこと言わないでよ。いつ離れ離れになるか分かったもんじゃないんだから”…って姉ちゃんに叱られちゃったよ。まあ姉ちゃんの言う通りだよな。兄弟全員で馬鹿騒ぎ出来るのも、あと数年しかないんだよね。オレは―――出来るなら今のまま、賑やかな家族がいいんだけど」
 英二は自嘲気味に笑った。
「うちの兄ちゃんはあんま気にしてなかったみたいだけどさ、不二は寂しがりやだし、家族のことをすごく大事に思ってるから、ちょっとショックだったんだろうな」
 感慨深げに英二が言う。裕太は心なし声のトーンを落として問うた。
「………俺、どうしたらいいでしょう?」
「んなの、謝っちゃえばいいじゃん」
 英二は、年長者特有の相手を包み込むような温かい微笑みを浮かべていた。年長者と言っても1歳しか違わないが。
 その笑みは、どこか兄が持つ笑顔と共通しているように思えた。
 でも嫌な感じはしない。打ち壊してやろうという衝動に駆られる笑顔ではない。
 むしろ幼い頃兄に感じていた憧憬を彷彿とさせ、その笑顔は不安な心を落ち着かせるように温かみに満ちていた。
 一年という年月の違いは、存外重いものかもしれない、と漠然と感じる。
「兄弟って近いようで遠い存在だから、深くお互いを傷つける事を言っちゃうのは仕方ないと思うんだ。でも仕方ない、で済ますのはダメだろ?傷つけたら、謝らなくちゃ」
「…………謝る」
「うんそう」
 裕太は、自分から折れることに対して、少々抵抗を感じざるを得なかった。
(後悔しているんじゃなかったのか。兄貴を傷つけた事に)
 なのに、また兄に負ける、という幼稚な発想をして、兄に謝罪する事に嫌悪感を感じている自分がいた。
 裕太は自分の愚かさ加減を呪わずにはいられない。
 微妙な心の葛藤が表情に出ていたのか、英二は裕太の顔を見て苦笑いを漏らす。
「……兄弟って長い間一緒に暮らしてるからか、いざ謝ろうとした時ってなんか無性に照れるけどさ、ずるずると謝らないままだったら、お互い気分悪いじゃん。いつ離れ離れになるか分からない関係だけど、今は四六時中顔を付き合せている関係なんだから、どうせなら楽しい方がいいじゃん?」
「エージさん…」
 俺は寮生活だから四六時中顔合わせているわけじゃないんですけど、と言いかけて、裕太は口を噤む。
 そんなことはどうでもいいことだ。
 そういう揚げ足取りよりも、ちゃんと兄に詫びる事が先決なのだ。
 兄は確かに自分の言葉で傷ついたのだから。
『お前なんかさっさとどこにでも行っちまえ!居ない方がせいせいすんだよ!!』
 この言葉で。


『居なくなっちゃえ、なんて寂しいこと言わないでよ。いつ離れ離れになるか分かったもんじゃないんだから』

 英二の姉の言葉は、そのまま不二の言葉のように思えた。
 悲しげに目を伏せて英二の姉と同じ台詞を言う兄の姿が思い浮かばれた。

 兄と兄弟として一緒の時を過ごすのは、もうあとちょっとしかない。
 自分は寮生活をしているから、その時間は余計に少ない。
 その時間を、兄は人一倍大切にしたいと思っているのだ。

 その気持ちを、自分の幼稚な劣等感が、ズタボロに傷つけてしまった。
 普通なら傷つけずに済んだかもしれない、思い出せないほど些細なことが原因で。

(…家に帰ろう。んで、帰ったら……謝ろう。癪だけど)


「俺、家に帰ります」
 裕太が決然と、ベンチから立ち上がりながらそう言うと。
「うん、そーしなよ」
 英二は裕太を見上げ、目を細めて笑った。


<了>


※あとがき※