『打たれない杭』



「ふんふふんふふーん♪」
 暑くもなく寒くもなく。そよそよと枝葉を揺らす肌に心地良い風は、激しく巻き上がることもなく澱むこともない。
 陽気に誘われて、思わず鼻歌なんぞ出てしまった。
 しかしそれも束の間、休憩時間に配る蒸しタオルを作るための人数分のタオルが満杯に入った籠を両手にいっぱい抱えながら、太一は部室の前に来て、うーん、と唸った。
「…困ったなぁ」
 両手が塞がっていて扉を開けられない。
 鍵さえ開いていればなんとかなったかもしれないが、今部室は無人。きっちり施錠されていて、到底籠を抱えながらそれを開ける高等技術を、太一は持ち合わせていなかった。

 唐突に。
「太一」
 背後から呼びかけられた。
「は、ハイッ!?」
 驚いて振り向くと、渋い顔をした南が立っていた。
「あ、南部長…と……………あれ?」
 太一は首を捻った。
 南の後ろに立つ大きな人影。部員ではない。
 だが、なんとなく見覚えがあるようなないような。
「そこをどいてくれ」
 南が静かに言ったので、太一は言われるままに半歩身を退いて道を空けた。
 鍵を開け、南が部室に入るのに続いて、その大柄な男も続いて入っていく。
 南もかなり上背のある方だったが、後ろに続く男も相当大きい。あと少し高かったら、部室の入口を屈んで通らねばならないところである。
 太一は二人をしばし呆然と見上げていたが、ギィ、と立て付けの悪い部室の扉が開閉する際の軋る音を聞き、慌てて部屋の中に身を滑り込ませた。
 ばたん、と背後で扉が閉まる音が響く。
 なんとか無事部室に入ることが出来て、ふぅ、と安堵の息を吐いた太一が目を上げると、南と一緒に入ってきた名を知らぬ男と目が合った。
「あ、あの〜……どちら様です?」
 太一が両手に抱えた籠を持ち直しながら問うと、男が口を開く前に、ロッカーをごそごそいじっていた南がぶっきらぼうに言った。
「三年の亜久津。亜久津仁だよ。伴田先生が言ってただろう?新しい部員が増えるって。彼がそうだ」
「ええっ!?この人が、亜久津先輩!?」
 どうりで見覚えがあるはずだ、と太一は思った。
 亜久津は、山吹中学では当代きっての悪童と名高かった。
 それを示すように、日頃から亜久津は常にタバコを燻らせて、紫煙を身体に纏わり付かせている。が、それを注意しようとする教師はほとんどいない。
 それというのも、かつてその様を注意した教師が、激しく殴打されて入院沙汰になったことがあったからだ。
 所詮自分の身が可愛いとでも言いたげに、教師達はまるで腫れ物に触るかのように亜久津に接する。時たま思い出したように、タバコは身体に良くないぞ、とかありきたりなことを言うのが精一杯であるらしかった。
 その亜久津を、どういうわけか伴田先生はテニス部にスカウトした。
 伴田先生曰くかなり腕が立つとのことだったが、がっしりとした肩幅や、全身に無駄なくついた筋肉が制服の上からでも分かり、それに何より上背があるその姿を見れば、あながちその言葉も嘘ではなかろうと思えた。
 太一は背の高い人にとても憧れる。
 太一は自分の背が小さいために、選手としてプレイすることを諦めたからだ。
 亜久津は見た目とても怖そうに見えたが、太一は背の高さを始め恵まれた体格に気を取られて、その事はあまり気にならなかった。
 部室の天井が低くなったようにすら思える亜久津の長身を見上げて、太一は思わず感嘆のため息を吐く。
「おっきいですねぇ」
 言った後、二人の返答は無く、沈黙が訪れた。
 太一は何か場違いなことを言ったことに気付き、キョロキョロと二人を見回した。
 不意に、なにやら不穏な空気が部室内を漂っている…ような気がした。
「活動時間は、月曜から金曜までは放課後、基本的に下校時間までやってる」
 南の低く、淡々とした声が響く。
「土曜は昼1時から夕方5時まで。月・水・金は朝練もやってる。朝練は7時から予鈴10分前までだ」
「それがどうした?」
 こちらも冷たく冴え渡る低い声。亜久津だった。
 苦いものを飲み込むように、南が眉間に皺を寄せる。
「…一応はそういうことになっている、ということだ。お前は、好きな時に来て適当に打ってくれたらいい」
 苦々しげに言い放つ南。
 こういう物言いをする部長を、太一は初めて見た。
 その様子に少々驚くと同時に、南が言った言葉の内容にも驚いていた。
 基本的に、テニス部の部活は全員毎日参加が原則である。そうでなければ立ち行かない。
 南は決して規律に対して口煩く言う性質ではなかったが、ルーズでもなかった。
 無断欠席した部員には次の日に必ず、何故休んだのか問い詰めたし、今後そういうことがないようにそれなりの注意もした。
 そういえばどこかの中学の部長は、無断遅刻者及び欠席者は罰としてグラウンドを何十周もさせるということを風の噂で聞いたことがあるが、山吹中ではそんな習慣は無く、ただ口頭での注意で終わる。
 まあそんなことはどうでもいい。
 太一は日頃から部員達にクラブへの参加を諭している南の姿を知っていたから、亜久津に言った言葉に、思わず叫んでいた。
「何言ってるんですか南部長!」
 南がぎょっとしてこちらを見やってくるが、気にせず続ける。
 南が言わないのなら、マネージャーの自分が言わなきゃならない。南の意向を継がなきゃならない。
 そんな、なんとも言いようのない義務感、使命感を抱いて、太一は気合いを込める意味で拳を握って言った。
「部長、いつも言ってるじゃないですか!部活に参加するのは部員の当然の務めだって!亜久津先輩も今日から部員なら、ちゃんと毎日部活に出るべきですッ」
「太一」
 驚いたように南が目を丸くする。
 その脇で、亜久津が可笑しそうに、くつくつと笑った。
「威勢のいいチビだな。コイツはこんなこと言ってるが?」
「……俺は伴田先生に言われた通りのことを伝えたまでだ」
「ハッ」
 亜久津が鼻でせせら笑う。
「テメェは先公の犬かよ。バカバカしい」
「…………」
 顰められた眉の下、南の目に怒気が篭った。
 亜久津が面白そうに目を見開く。
「やんのか?」
 嬉々とした声を出して、亜久津は拳を握った。こちらは気合いを込めるという可愛らしいものでもない。相手を殴る、その前動作。
「あわわわわ」
 危険な雰囲気に慌てふためいて、太一はばたばたと忙しなく籠を手近な椅子の上に置き、二人に駆け寄った。
「やめてくださいよ二人とも!」
「うっせえ。邪魔すんな」
 低く唸るような声に、太一は身を竦ませた。
 一瞬怯んで動きが止まった太一を一瞥し、亜久津は南に向き直る。
「やんのか?やんねぇのか?」
「………………」
「何とか言えよコラ」
「………………」
 南は押し黙ったまま、亜久津を怒気の孕んだ瞳で見返す。
 亜久津はその視線が気に食わないのか、ちっと僅かに舌打ちをしたかと思うと、素早い動きで腕を伸ばし、南の胸倉を掴んだ。
「わあッ!!」
 眉一つ動かさない南の代わりに、太一が悲鳴をあげる。
「や、止めて下さいっ!!」
 太一は迷わず、亜久津の腕に飛びついた。
「離せ」
「イヤです!!その前に部長を放してください!!」
「離せっつってんだろ」
「イヤですー!!」
「っ!」

 ガシャンッ!!

 突き飛ばされて身体をロッカーに強かに打ちつけ、太一は息を詰めた。
「太一っ!!」
 亜久津の腕を振り払って太一に駆け寄ろうとする南。
「お前の相手は俺だ」
 亜久津がそう宣言して右拳を後ろに引いた。
 丁度振り返った南の顔の前に拳が突き出されようとする―――当にその時。

 がちゃっ。ごんっ。

 部室の扉が開く音。そしてそれに続いて鈍い音が響いた。
「いやー、遅刻遅刻!参ったね」
 緊張感が溢れていた部室に、すこぶる場違いな能天気な声が紛れ込んだ。
「あっれ〜?なんで太一ここにいんの?部活は〜?って、おお!南もいるじゃん!……なんでしゃがんでんの?」
「せ、千石…お前なあっ!!」
 南は強打させられた腰に手を当ててヨロヨロと上半身を起こす。
「ん?俺、なんか悪いことした?あ、遅刻した事なら今謝るよ。メンゴ」
「違う!ドア開けた時に俺を直撃したろ!?それを謝れ!!」
「あ、なんかつっかかったと思ったら、南だったんだ。いや〜、そりゃ悪いことしたな。ゴメンな〜」
「誠意がこもってない」
 身体を駆け抜ける痛みのせいか、涙混じりに訴える南に、千石は悪びれもせず緩んだ笑顔を浮かべる。
「まあまあ、気にすんなって。気にしすぎてたらそのうちハゲるよん?この辺から」
 言って千石は南の生え際を指差した。
「そういやそちらさんはどなた?」
 今初めて気付いた、というように言った千石の目は、拳を下ろして隙無く立つ亜久津を映していた。
「なーんか見たことあるような?前にどこかで会ったことあったっけ?って、これって古いナンパの手口じゃん!わははははは」
 一人で一頻り笑う千石。
 南と太一はただただ唖然とするばかりだ。
「俺は千石。千石清純。キミの名前、なんだっけ?」
「……亜久津だ」
 亜久津はいささか不快そうな顔をしていたが、千石の口を挟む余地を与えない喋りに圧倒されたのか何なのか、低い声でただ一言、そう答える。
「そーだ!亜久津だ、亜久津じゃん!」
 千石は思い出した、という風に手をぽん、と打つ。
「伴爺が言ってたよ。亜久津、強いんだって?一応俺、この部のエースなんだ。これからちょっと打とうよ。な、決まり!」
「おい」
 亜久津が何か言いかけるが、それを完全に無視して、千石は亜久津をぐいぐいと亜久津の背中を押して外に出ていった。
 出ていきざまに、千石は小さく太一にウインクしてみせた。
 太一はそれを見て、千石が故意に自分たちの窮地を救ってくれたのだと分かった。

「痛ててて」
 南の声に、太一はハッと我に返った。
「だ、大丈夫でしたか、部長!」
「いや、まあ俺は大丈夫かな。千石の野郎、思いっきりぶつけやがったけど。お前は大丈夫か?」
「ハ、ハイ!大丈夫ですッ!」
「良かった」
 南が柔らかく笑むのを見て、太一はホッと息を吐いた。
 しかし南の表情が和らいだのも束の間、険しい顔をして南が言う。
「太一は、亜久津が入部することに対してどう思う?」
「どうって……うちはダブルスは強いですけどシングルスは今ひとつですし、シングルスが強化されていいんじゃないですか?…って、実力の程は知りませんけど、伴田先生の言からすると、相当強いんでしょ?」
「亜久津の評判は知っているのか?」
「一応、それなりには」
「…亜久津が暴力事件なんて起こしてみろ。中体連に訴えられれば、大会出場停止処分になってしまう。俺はそんなことで全国大会への道が閉ざされるのはごめんだ」
 南が身体を引きずるようにして立ち上がる。
「俺は、正直亜久津が入部してくれなきゃいいと思ったよ。でも亜久津は来た」
 南は先ほどごそごそやっていたロッカーから真新しいテニス部のジャージを取り出す。
「太一、これを亜久津に渡してくれ。俺はちょっと、頭冷やしてくる」
「部長……」



 太一は、南に預けられたジャージを抱え、部室からコートに向かう道を行ったり来たりしていた。
 確かに南の言うことは分かる。
 暴力沙汰が起きれば、大会には出られなくなってしまうだろうし、大会を最後に引退する先輩たちにとっては、中学テニス最後の大舞台をそんな理不尽な理由で奪われることは大層辛いに違いない。
 でも大会を勝ち進むためには、亜久津の力はあるに越したことは無い。
 なんとか部長の心労を軽くする為に何か出来ないかと太一は色々考え、良いと思われる策を考え付いては部室に足を向け、でもやっぱりダメだと却下してはコートに足を向けていた。
「あーもうッ!!どうしたらいいんでしょう〜〜〜」
 太一は誰に問い掛けるでもなく道の真中で喚く。
 このままではクラブの雰囲気が悪くなる一方ではないか、と太一が胸中でごちたその時。
 僅かな涼風に乗って、コートからどよめきが流れてきた。
「?」
 不思議に思ってコートに駆けて行くと、部員たちの目が一様にコート内にいる千石と亜久津に注がれていた。
「何があったんです?」
 手近に居る部員の袖を引き、太一がそう尋ねると、
「千石が負けたんだよ」
 驚きに目を見開いたまま、その部員がそう言った。
「千石先輩が!?」
 見ると、当の千石はへらへらと笑いながら、ネット越しに握手を求めるように右手を差し出していた。
「いやぁ亜久津、強いね。伴爺の言ってた通りだ」
「テメェ…実力出し切ってなかったろう?」
 怒ったように見返してくる亜久津に向かって、千石はひょいと肩を竦めた。
「分かってると思ってた。だから手を抜いたんだ。お互いチームメイト同士、潰しあいをしても始まんないじゃん?」
「ちっ。面白くねぇ」
 亜久津は差し出された千石の右手を一瞥することもなく、悠然と部員の人垣に向かって歩を進める。慌てて道を空けるように、人垣がぱっくりと割れる。
 その間を通ってフェンスの脇にあるベンチに向かった亜久津は、どか、と腰を下ろし、亜久津は鞄を探ってタバコを取り出した。
 ジッポライターで火をつけて、やおらタバコを吸い始める亜久津。
 それを見て、千石が面白そうに片眉を上げる。
「亜久津、灰を落とすなよ」
「うるせえな」
 言って紫煙を吐き出す亜久津の迫力に、部員たちは息を飲んだ。
 言うまでもなく、コート内は禁煙である。コートが傷むからである。
 それ以前に、タバコを中学生が吸うこと自体いけないことなのだが、それはさておき、太一は亜久津の傍若無人な姿を見て、少し腹が立った。
 いくらシングルス強化のためとはいえ、部が払う代価としては、その乱れは大きすぎる。
 南が渋るはずであった。
 太一は亜久津の悪行を人伝にしか知らなかったから、亜久津の入部に対してそんなに抵抗感が無かったに過ぎなかった。南は、実状をそのままはっきりと知っていたのだ。
 太一は唇を噛んだ。

 ふと気付くと、千石がこちらに近づいてきていた。
 思わず太一は駆け寄る。
「千石先輩!」
「ん?何?太一」
「亜久津先輩は危険過ぎます!やっぱり入部は断った方が…」
「じゃあそれは何?」
 千石が言って指差してきたのは、太一の胸に抱かれた亜久津用の新品のジャージ。
「う…」
 太一が言い返せずに口篭もっていると、千石はぽんぽん、と太一の頭を軽く叩いた。
「心配すんなって!大丈夫大丈夫、なんとかなるなる」
「…なんでそんなこと分かるんです?」
 不審そうに太一が問うと、千石はにんまりと笑う。
「だって山吹中には強運の持ち主、ラッキー千石がいるんだよ?亜久津のリスクより俺のラッキーの方が勝るさ」
 いたって気楽に言う千石に、太一は思わず肩を落とす。
「ありゃ?太一は俺のラッキーを信じてくんないの?寂しいなあ」
「だって……」
 太一がむくれていると、千石は苦笑を漏らして、脇を通り過ぎていった。
 そしてすれ違いざま、言った。
「なあ太一。亜久津はさ、出過ぎた杭なんだよ」
「え?」
 太一が慌てて振り返ると、千石の背中がゆっくりと遠ざかるところだった。
 急いでその背中を追いかけて、太一は千石の隣に並ぶ。
「どういうことです?」
 千石は太一の方をちらりと見ることもなく、真っ直ぐ前を見詰めていた。
「出過ぎた杭はさ、打て無いじゃん?誰にも亜久津を止めることは出来ない。俺のラッキーのような、天に任せる力以外は」
「…………」
 太一は返す言葉もなく足を止めた。千石はそのまま歩いていく。
 千石は亜久津の下へ向かっているようだった。
「なんだテメェ」
 亜久津が声を上げる。
 気付けば、亜久津の手にはタバコが無かった。
 どこにやったのだろう、と思ってあたりを見回すと、コートの上に吸殻が落ちていた。
「あ」
 太一が声を上げると同時、千石はその吸殻を無造作に拾い上げていた。
「ほら亜久津。落し物」
 言って、強引に亜久津の手に吸殻を握らせる。
「ダメじゃん気をつけないと。お礼は一割…と言いたいトコだけど、俺そんなのはいんないし、気にしないでいいよ」
 なにやら言いたそうに口を一度開きかけた亜久津だが、言葉を無くしたのか呆然と千石を見返したのみだった。
「さすが千石」
 感心しているのか呆れているのか良く分からない調子の声に太一が振り返ると、南が立っていた。
「あーあ、亜久津が圧倒されてるよ」
 南は失笑を禁じえないといったように、クスクスと笑う。
「…亜久津先輩は”出過ぎた杭”らしいです」
「は?」
 太一の言葉に、南が怪訝そうな声を上げる。
「えっと、千石先輩がそう言ったんです。亜久津先輩は出過ぎた杭だから、誰にも打てないって。誰にも止められ無いんだって。…自分のラッキー以外…」
「千石らしいな…。なら、千石は曲がった杭かな」
「は?」
 今度は太一が怪訝な声を上げる。
 南は面白そうに太一を見下ろして口を開く。
「曲がった釘とかって容易には打てないだろ?それと同じだよ。千石も誰にも抑えられない。あの亜久津でさえ無理だ」
 太一は南につられて千石の方を見た。
 千石は掴みどころの無い正体不明の笑顔を浮かべて、亜久津に色々話し掛けていた。
 亜久津は不機嫌そうな顔をしながら単発的に悪態を吐いているが、千石はそれを全く気にしていないかのように喋りまくる。
 亜久津が群を抜いた杭なら、千石は群から一歩外れた杭。
 なんとなく分かった気がした。

「ま、とりあえず千石が亜久津の相手してくれてる限り大丈夫かな」
 南がそう呟いたので、太一は頷いた。
「ハイ」


<了>


※あとがき※