『Don't be impatient』



 亜久津先輩、亜久津先輩、と口早に呼ばわる、声変わり前の少々甲高い声が聞こえなくなって、もう久しい。
「なあ南、お前正直なところ、どう思う?」
「どうって?」
「亜久津がいなくなってさ、やっぱ戦力的に不安あるかな?」
 南と千石は、薄闇が辺りを覆う時間になってようやくコートから引き上げ、部室に向かっていた。
 今日は珍しく、部活終了後千石が自主練習をしたいと言い出したので、南が付き合っていたのだ。他の部員は1時間ほど前の下校時間の際に、既に帰している。
 何故いきなり練習をしたがったのか不思議に思っていた南だったが、千石の言葉を聞いて、なるほど、と内心納得した。
 亜久津の抜けた穴は大きい。それは部の誰もが感じていたことだ。
 普段何を考えているのかよく分からない千石も、それなりに懸念していたのだろう。
「正直、大会で通じるシングルスプレイヤーは、お前と室町くらいなもんだな。痛いけど、それが事実だ」
「……だ〜よなぁ。あー、なんか重荷」
「…そういう風には全然聞こえんけどな」
「あ、そう、分かる?」
 千石はニッと笑う。
「お前が不安で押し潰されるタマか。しめ縄並の図太い神経しているくせに」
「褒め言葉として受け取っとく」
「どうぞ勝手に」

 軽快に言葉を交わしつつ歩を進めていくと、道の脇に植えられた木の陰から見慣れた部室が現れた。
「あれ?」
 千石が声を上げたので、視線を追うと、部室の窓に晧々と明かりが灯っていた。
「こんな遅くに…誰だ?」
 南が扉を開け放つと、小さな人影がびくり、と肩を震わせるのが目に入った。
「わわ!先輩たち、まだ居たんですか!?」
「それはこっちの台詞だ」
「お、太一じゃん」
 南の肩越しに千石が部室を覗く。太一がなにやら慌てて、背後に何か物を隠すのが見えた。
「お前、一体何してたんだ?」
「いや、その…部室の片づけを」
「そんなこと、もうマネージャーじゃないんだからやらなくてもいいんだぞ?」
 南は呆れたように言う。
「わ、分かってるんですけど、なんか、ついクセで」
「太一、別に放っといたらいいんだって。物が溢れかえったって、誰も困りやしないさ」
「いや、それは困る」
 暢気にのたまわる千石に一応つっこんだが、千石は心外だと言わんばかりの顔をして言い返してくる。
「南は几帳面すぎるんだよ」
「お前が頓着しなさすぎなんだ」
「なんだよ。んなことないって」
「そんなことある。お前の部屋は汚すぎだ。せめてエロ本くらい他人の目のつかないところにしまうなりなんなりしろよ。あれは目に入った時、こっちが対応に困る」
「えー?別にそれくらい普通だろ?」
「普通じゃない」
 南がぴしゃりと言い放つが、千石はまだなにやら言い足りないのか、ぎゃあぎゃあ背後で喚いている。それに構わず南が太一の方に向き直ると、太一はぽかん、と二人の方を見つめていた。
 それを見て初めて、ついいつもの調子で千石とやりとりしてしまった話の内容が、後輩の前でする話題ではなかったことに気付く。
 南は自分の失態に内心恥じながら軽く咳払いをし、気を取り直して足を部室に踏み入れると、太一がハッと我に返って僅かに身を引いた。南は怪訝そうに眉を顰める。
 後退して身を捩った太一の背後に見えた物、それが救急箱だったからだ。
 南はつかつかと足音高く太一の側まで近寄り、やおら、背中の後ろに隠された太一の左手を掴み上げる。
「!!」
「太一、お前」
 南は表情を固くした。
「うわ」
 千石が声を上げる。
 掲げられた太一の左手には、痛ましく包帯が巻いてあった。
「どうしたの、それ」
 目を丸くして問う千石に、太一は強張った顔で笑んだ。
「えっと、大層に見えますけど、別にどうってことないです。ただ…その、マメが潰れて」
「くぅ、痛そー」
 千石は言って、あたかも自分が怪我をしたかのように顔を顰めた。
「でも本当にそれだけ?」
 千石がそう言うと、太一はびくり、と肩を震わせた。
「どういうことだ?」
 南は千石を振り返る。千石は肩を竦めて答えた。
「手首を固定するようにしっかりと包帯を巻いてあるじゃん?マメが潰れただけだったら、別にここまでしなくてもいいんじゃないかなーって」
「確かに。…どうなんだ、太一?」
「……………」
 太一は何か言おうとして一瞬口を開きかけたが、すぐ閉じた。
「…本当にマメだけです」
 そう呟いた太一を見下ろしながら、南は太一の手首を掴んだ手に力を込める。
「ッ!」
 声にならない悲鳴が太一の喉の奥で弾ける。
「南」
 千石が窘めるように名を呼ぶ。
 南は大きく息を吐いた。胸の中に降って沸いた、怒りとも呆れともつかない濁った凝りを吐き出すように。
「太一、お前、この怪我はテニスのせいか?まさか転んだとかじゃあないよな?」
「………………」
 太一は思考を巡らせた。何か言い逃れる手は無いか、手頃な嘘は無いか。
 しかし険しく眉間に皺を寄せている南と目が合い、その怒気に当てられて、太一は空しく自分の思考が空回りするのを感じた。
 太一は言葉を失い、正直に言うしかないと覚悟を決めた。
「テニスのせいなんだな?」
 再度問い掛ける南に、太一はこっくりと頷いた。
「…はい」


「なんだってこんな怪我するんだ」
 言いながら南は、包帯を解いた太一の手をためつすがめつしながら様子を見る。
 太一自身が言うように、掌に出来たマメが潰れているのも相当痛そうに見えたが、それよりも、ぐっ、と手首を押すと、太一が息を詰めるのが気になった。
 手首をどのように傷めたのか傍目では良く分からないのだが、少なくとも骨折やひどい捻挫ではないようだった。ひねって筋を違えたのか、それとも疲労が激しいだけなのか。
 南は大きくため息を吐いて太一を睨む。
「骨に異常はないみたいだが、こんな怪我ばかり繰り返していると、そのうちラケット握れなくなるぞ」
 太一はかろうじて、蚊の鳴くような声で、すみません、と呟いた。
 怒りの感情が篭った南の声に触発されてか、俯いた太一の目が潤む。
 太一の手を見ていた南は気付かなかったが、千石はそんな太一の様子に気付いて、南の肩をちょいちょい、と叩いた。
「南、太一も反省していることだしさ、怒るのはそのへんにしておきなよ。太一が可哀相だ」
 太一が、しゅん、と肩を落とす。
 南も太一の様子に気付いたのか、自分が追いつめたことに思い至り、唇を引き結ぶ。
 涙を目尻に浮かべた太一に、南は少々困惑気味に言った
「すまん、太一。別に咎めたかったわけじゃないんだ。だから泣くなよ」
「いいえ、部長が怒るのは、もっともです」
 太一が力なく首を横に振る。
「僕、早く強くなりたくて…」
「お前はまだ入部して間もないんだから、がむしゃらに練習したって体がついてこられないだろう。むしろ逆効果なだけだ」
「はい。そう、頭では分かってはいるんですけど、でも、でも…」
 太一は南と千石を見上げながら言い募る。
「僕は、亜久津先輩や越前君のように強くなりたいんです。でも、二人には今の僕じゃ程遠くて、全然手が届かないんです。せめて…せめて、早く一人前にテニスが出来るようになりたいんです」
 太一の焦りが、言葉の端々から匂い立つ。
「僕は入部が遅いから、他の1年生よりも下手なのは当然なんだけど、早くその差を埋めたいんです。だったら、みんなよりもっともっと練習するしかないじゃないですか。僕は器用な方じゃないし、運動もそんなに出来る方じゃないから、だから余計に…」
「気持ちは分かるよ、太一」
 南は、太一の左手を元通りに包帯を巻いてやりながら言う。
「俺だって焦った時があったさ。千石が入部してきた時だ」
 千石は南の後ろで目を丸くする。
「…そうだったの?」
「ああ」
 南は千石を振り返ることなく、包帯を巻く作業だけを見ながら言葉を紡ぐ。
「太一も知ってると思うけど、俺はスポーツ推薦でこの学校に入った。だから、レギュラー入りは当然だとされてたし、試合で一定以上の成績を出すことが常に求められる立場にあったんだ。まあ、小学生の時にそれなりの成績は残していたから、自信はあったんだけどな。でも千石が入部してきて、自分の驕りに気がついた。千石は去年ジュニア選抜に選ばれただけあって、元々入部当時から実力が抜きん出てた。なんでスポーツ推薦で入学して来なかったのか不思議なくらいだったよ」
 南の言葉に、千石が居心地が悪そうに、隣でつい、と視線を逸らす。
「それはアレだ…スポーツ推薦の存在を知らなかったんだなー、これがまた。知った時には、もう受付が締め切られちゃっててさ」
「お前らしいよ」
 南は苦笑いを漏らす。
「俺にはスポーツ推薦で入った、っていう自負があったし、あいにく負けず嫌いだから、千石に負けるわけにはいかないって、そう思ったな」
 南はそう言って、苦笑気味に口の端を綻ばせる。
「太一、お前は自分が器用な方じゃないって言ったよな?」
 いきなり話を振られて、太一は驚いたような顔をしながら慌てて頷いた。
「俺もそうだ。俺は自分で応用的な練習を展開していくのが苦手でな、素振りだの走りこみだの、フォームの追及だの、そんな基礎練を延々とやるってのが自分の練習の中心スタイルだった。でも千石のテニスを見てるとさ、俺はこんなことばっかりしてていいのか、って気になって焦ったもんだ。千石みたいに、何か秀でた技を持ってた方がいいんじゃないかって。でも俺は……太一、お前より不器用だったのかもしれない」
 太一が、南の言葉に首を傾げた。
「気ばかりが焦って、何をしたらいいのか全く分からなくて、結局自分のスタイルの練習ばっかりしてた。同じやり方同じ量の練習それ一本。お前みたいに練習量をふやせばいいとか考えつかなかったな」
「そういうもんですか?」
 太一が不思議そうに尋ねてくるので、南は、だから俺はお前以上に不器用だったかもって言ったろう、と苦笑い気味に言った。
 南は一呼吸置いた後、言う。
「でも俺は、むしろ不器用でよかったと思う。俺は、自分が積み重ねてきた練習が無駄だったとは全く思わない。徹底的に基礎を固めたからこそ、それに裏付けられた実力を持つ今の俺がある」
 包帯を巻き終えて、南が立ち上がる。
 太一も続いて立ち上がって南を見上げる。
 太一の目には、真剣な光が浮かんでいた。
 南は太一の頭に手を置き、太一のそんな目を見ながら言う。
「太一、俺にはお前の気持ちは良く分かる。がむしゃらに練習することは悪いことじゃない。多少無理するのはいい。でも―――無茶はするな」
「…はい」
 太一は、南の言葉を胸に刻みつける時間を置いた後、神妙に頷いた。


 その様子を見て、千石はなにやら感慨深げな表情を浮かべていた。そしてふと思い至ったように口を開いた。
「やっぱり練習の仕方からしても、南って根っからの地味なんだよな。地味’sって呼び名はダテじゃないね」
「お前な」
 凄みかける南をあっさり無視して、千石は太一に笑いかける。
「太一、まず自分にできることから始めなよ。例えばホラ、牛乳飲むとか。青学の越前君も飲まされてるらしいよ〜」
「そうなんですか?」
「千石極秘情報より抜粋」
「いつからそんなのが出来たんだ」
 南がツッコミを入れるが、千石はやっぱり全然頓着しない。
 ツッコミはあえなく空中に消え、その余韻さめやらぬうちに、千石は太一の肩をばんばんと叩いて笑む。
「身長伸びたらいいな!その前に胸大きくなったりして。わはははは」
 南は思わず千石の隣で吹き出し、げほげほと咳き込んだ。
「せ、千石!」
「ぼ、僕は男ですー!!胸なんか大きくなりません!!」
 太一が顔を真っ赤にしてくそ真面目に抗議するのを、千石は一頻り笑った。
「何にせよ、焦らず急がず。南の言う通り、無茶はいかんよ、無茶は」
 千石は、まだ頬に赤色をほんのり残した太一の左手を目を細めて見やる。
「太一はセンスあるよ。マネージャーとして俺達の練習や試合をたくさん見てきたのは、ダテじゃない。太一にはここで怪我してつまずいて欲しくない」
 南も千石の言葉に頷く。
「太一、焦ることは無い。お前はきっと強くなる。俺は期待してる」
「…はい!」
 太一が大きく頷く。
「強くなってみせます!!亜久津先輩や、越前君みたいに!」
 太一がそう言って、包帯でぐるぐるに巻かれた左手を決然と握るのを、南と千石はくすり、と笑って見守った。



<了>


※あとがき※