「えっと、ここだよな?」
「うん」
 寮のとある部屋の前で足を止めて問い掛けた裕太に、金田が頷いた。

 コンコン。

 裕太が白く塗られた木製の扉を叩くと、程なく、がちゃり、と錠が外された音がして、外側に開いた。
「いらっしゃい、よく来ましたね」
 にっこりと微笑みながら裕太と金田を出迎えたのは、秋からこの聖ルドルフ硬式テニス部に君臨している観月だった。



『Noisy Night』



 今日はクリスマスイブ。
 学校の敷地内にある教会でも、キリストの降誕を祝う前夜祭としてミサが執り行われた。
 裕太などは特にキリスト教を信仰しているわけではなかったが、聖歌隊の清い歌声や重厚なオルガンの音、神父の聖書朗読などを聞いていると、何かしら敬虔な気持ちになった。
 そんなミサが終わったあと、金田と連れ立って教会を出たところで、赤澤と観月に呼び止められた。
 二人が言うには、今日の夜、観月の部屋でテニス部のレギュラーメンバーを集めてクリスマスパーティーをするとのことであった。
 先輩からの誘いを受け、二人は観月の部屋にやってきたのだった。



「やっと来ただーね!」
「遅いよ二人とも」
 部屋の中に通された裕太と金田に向かって一番に声を上げたのは、言わずと知れた柳沢。後に続いて涼やかに言ったのは、木更津。
 裕太と金田が、床に座って見上げてくる二人に、すみませんと笑いながら答えた時目に入ってきたのは、まるまる一羽のローストチキン相手に悪戦苦闘している赤澤。
「うおぉりゃあああああああ!!」
 赤澤はナイフとフォークをむんずと握り、力任せにチキンの背にそれらを突き立てた。
 何となくどこぞの原住民のサバイバルな生活を垣間見た気分になる裕太と金田。
 二人の脇から観月がその様子を見て、盛大に顔を顰めた。
「赤澤、もっと上品に出来ないんですか?」
「うっせぇな、意外に難しいんだよ。なんならお前やれよ」
「イヤですね。手が臭くなるじゃないですか」
「お前、そんなにイヤならこんなの買ってくるな…って、お、来たか」
「あ、はい」
 呆然と立ちすくんでいた金田が、ハッと我に返って答える。
 裕太も一緒に頷きながら、赤澤の手元を見た。
「えっと…部長、そんながむしゃらに切ってもダメですよ」
「ん?お前切り方分かるのか?」
「まあ一応…」
 そう言うと、赤澤からナイフとフォークを手渡された。
 裕太はまずフォークをテーブルの上に置いた。必要ないからである。
 うつ伏せになっていたチキンを仰向けにし、腿の内側に深くナイフを入れる。そして切込みの部分から腿を外側に引いて剥がし、テーブルの上に既に用意されていた個人の白い取り皿にそれを載せる。
「おおお!綺麗に取れただーね!売り物みたいだーね!」
「赤澤とは大違いだね。くすくす」
「てめえらなあ」
 赤澤がこめかみに青筋を浮かべながら言うが、二人は全く気にしない。
 裕太は、チキンの胴体部分の肩口からY字の形にナイフを深く入れた。
「なんでそんな風に切るんだ?」
 赤澤の問いに、裕太が答える。
「こうやって手羽先の間接を外しておくんですよ」
「へえ」
 手羽先を持って肩口から外側に引き、背中まで肉を外してそれを皿に載せる。
「こんなもんすかね」
「上等ですよ裕太君」
 何が上等なのかよく分からないが、褒め言葉として受け取っておいてよさそうだったので、裕太はどうも、と言って床に座った。
 裕太を目で追いながら、赤澤が感心したように言う。
「にしても裕太、お前よくチキンのばらし方知ってたな…ってか手馴れてたよな」
「はあ。結構よく食べますし」
「はあ!?」
 柳沢が素っ頓狂な声を上げる。
「普通クリスマス以外の日には食べないだーね」
「そうだね、柳沢の場合共食いだもんね」
「淳ぃ!」
 柳沢が振り下ろした拳を難なくかわして、木更津は微笑んだ。
「でも確かに、日本じゃチキンを丸々食べる習慣ってあまりないから、普通チキンの切り分け方って知らないもんだよね」
「さすが不二家の息子だなあ。やっぱりお坊ちゃんなんだよな」
 言ったのは野村。今までいたことに気付かなかった。
 裕太は何となく”不二家の坊ちゃん”と呼ばれたことに不快感を感じて反駁しようとしたが、その前に観月が口を開いていた。
「チキンの切り分けを知っているからどうだと言うんです?真の上流階級は自分の手を汚すことはしませんから、そんなことは知らないものですよ」
「………………」
 観月の言葉にも何か引っかかる所を感じたが、裕太は深く考えないことにする。
 不二家は基本的に、姉も兄も自分も、いつ独立しても一人で何でもこなせるように教育されている。
 チキンの切り分けが一人暮らしに必要なものだとは到底思えないが、フランス料理のマナーを知るのと同じような感覚で、身に付けさせられた。
 去年家でクリスマスパーティーをした時、姉が裕太がしたのと同じようにチキンを切り分けていたのを思い出した。
(そういや今年はどうしてるんだろうなあ…)
 実家に思いを馳せていると、金田がお疲れさま、と労ってくれた。それに笑顔で答えながら、裕太は手を拭う。
 全員が机の周りに座ったのを確認して、観月が言う。
「ではいただきましょうか」
「あ、ちょっと待つだーね!」
 柳沢が声を上げて赤澤を振り返った。
「赤澤、アレ出すだーね」
「ああ、アレな。すっかり忘れてたぜ」
「”アレ”?」
 不審そうに眉を顰める観月に、赤澤が笑って取り出したのは、スレンダーでおしゃれな形をした緑色の瓶。
「シャンパン買ってきたんだ」
「シャンパン?シャンメリーじゃなくて?シャンパンだったらアルコール入ってるでしょ。やばいんじゃない?」
 木更津が全然危機感を感じていないような涼しげな顔をしながら言う。実際、やばいと口で言いながらなんとも思っていなさそうである。
「ちょっとくらい構いやしないって」
 赤澤はそう言って笑ったが、赤澤の手元を覗き込んで、観月は大きくため息を吐いた。
「赤澤、君は馬鹿ですか」
「あ?なんだと観月!!」
「それはスパークリングワインです。れっきとした酒ですよ」
「は?」
 赤澤はラベルを見る。
 確かにそこにはスパークリングワインと書いてある。
「間違えて買ってきましたね?」
 観月は、ラベルを見て硬直している赤澤の手からワインボトルを抜き取る。
「度数9%…まあワインにしたら弱い方ですね。これなら大丈夫でしょう」
「…度数9%って、低いの?」
 金田がこっそり尋ねてくるので、裕太は首を傾げながら答える。
「大体14%未満のワインが多いから、弱い方といえば弱い方かもしれないけど…」
 言いながら、でも9%ってビールよりは高いよな、と胸中で思う裕太。
「間違ってしまったものは仕方ありません。勿体無いし、せっかくだから飲みましょう」
「お、おう!そうだな!!」
 気を取り直した赤澤の手によって、シャンパンと間違われたスパークリングワインは封は切られた。


 ガラスのグラスに、真珠のような気泡を内包した透明な赤色の液体が満たされる。
 部屋の明かりに透かして見ると、液体越しの部屋が橙赤色に染まって、年に一度見れるか見れないかの見事な夕焼けを想起させた。
 蠱惑的な色を顔の上に投げかけながらゆらゆらと立ち昇る気泡は、どこか艶めかしい。
 とくとくと音を立てて注がれたその液体から、ぷん、とアルコール臭が立ち昇ると、
「う」
 その匂いだけで既にダメなのか、野村が口元を押さえて部屋を出ていった。
「ノムタク君はてんで酒は駄目なんですね」
 仕方ない、と言った風に観月は口の端を綻ばせ、グラスを片手に持った。
「それでは、乾杯と行きましょう」
「乾杯!」
『かんぱ〜い!!』
 赤澤の音頭の後に全員で乾杯を唱和して、グラスを互いに打ち鳴らす。ガラスが触れ合う甲高い音が、部屋に次々と響き渡った。
 裕太は、一口、ワインを口に含んだ。
 辛口だったらどうしようかと思ったが、口当たりはまろやかで、予想以上にフルーティーだった。シュワ、と口の中で炭酸がはじけて、あまり酒っぽさを感じさせない。
「あ、美味しい」
 金田が呟く。
「うん。これなら普通に飲めそう」
 同意しながら、裕太は二口目を口に含んだ。
 そして先ほど自分が切り分けたチキンに手を伸ばす。
 空腹の状態でアルコールを腹に入れたら悪酔いすることを、裕太は知っていたからだ。
 チキンを飲み下し、続いて三口目も口に含んだ時、赤澤が机の中央に置かれたボトルに手を伸ばした。
 ぎょっとして見やると、赤澤が手にしていたグラスは既に空だった。
 赤澤は片手でボトルを持ち、勢いよくグラスにワインを注いだかと思うと、一気にそれを呷った。
「赤澤、ワインは味わいながら飲むものです」
 嫌そうに顔を顰めながら観月がグラスに口をつける。そういう観月のグラスも、既に半分近く減っている。
「赤澤、オレにも注いでくれだーね」
「僕にも」
「おうよ」
 裕太が猛スピードでグラスを空けていく先輩たちを呆然と見ていると、ぽそりと隣から呟きが聞こえた。
「すごいな、先輩たち」
「ああ………って、おい!」
 裕太は、そう呟いた金田の顔を見て、思わず声を上げる。
「ん?」
 不思議そうに見返してくる金田。
「お前顔真っ赤だぞ!?大丈夫なのか!?」
 金田の顔は、まるで火傷したかのように真っ赤になっていて、耳の端や目尻に差した朱はそれよりいっそう赤い。
「へ?あ、うん、別になんともないけど」
 金田の両手に包まれたグラスの中には、まだ半分以上液体が残っている。
「お前コレ何本に見える?」
 指を三本立てて見せると、金田は眉を顰める。
「三本だろ?何言ってんだよ裕太」
「…顔が真っ赤になるだけで酔わないってタイプのヤツもいるしな。お前はそういうタイプなのかもなあ」
「良くわかんないけど、別に酔ってる感じじゃないよ」
 金田は、舌もよく動いていて言葉も明瞭だし、思考回路も全く鈍っていない。第一、まだ目がまともな光を放っている。
 裕太はホッと息を吐いた。

 しかし、それは束の間の安息だった。

「一番赤澤脱ぎます!」
「ヨッ!バカ澤!やるだーね!!」
 突如湧き上がった喚声に、裕太は机に突っ伏しかける。
「なっ…なっ!!」
 恐る恐る赤澤たちの方を見ると、ズボンのベルトに片手を添え、もう片方の手を宙に突き上げ、人さし指をぴん、と立たせた赤澤と、ヒューヒューと空気交じりのすかすかの口笛を吹いて野次を飛ばす柳沢の姿が目に入った。
「部長たち、盛り上がってんなあ」
「金田!お前何冷静になってんだよ!!」
 裕太が混乱しながら喚くと、頬をほんのり赤く染めた柳沢が裕太を振り返って言う。
「裕太!赤澤を見るだーね!バカだーね!バカだーね!地黒だから全然赤くなってないのに赤澤だーね!わははははははははははははッ!!」
「柳沢先輩!!」
 支離滅裂に喋った後哄笑を上げている柳沢は、さては笑い上戸か、と心のどこかで冷静に思いながら、誰か(異様に冷静な金田以外に)正気を保っている人はいないのかと、裕太は周囲を見回す。
 そして更に衝撃的な場面が目に入ってきた。
「赤澤、君がそんなに男気溢れる男だとは思いませんでしたよ。漢字の漢と書いて”おとこ”と読む。当に君は漢ですね。猥褻物陳列罪で捕まろうとも、僕は擁護してあげますよ。ああ、君がこんな風に育ってくれて、僕は嬉しい」
 わけの分からないことを言いながら滂沱している観月。
「み、み、観月さんが壊れたっ!!」
「泣き上戸なんだね、観月さんは」
「か、金田〜!お前落ち着きすぎだ!!」
「まあまあ裕太、落ち着いて」
 そう言ってきたのは、大人しくグラスを傾けていた木更津だった。
 白い肌を微塵とも色を変えず、飄々とワインを口に含む木更津の様子に、裕太は胸を撫で下ろした。
 異様なオーラを放つ他の2年3人を他所に、木更津はいつも通り涼やかな微笑を浮かべている。
「こうなったらもう誰にも止められないよ。必殺仕事人みたいにヤらない限りはね。くす」
「えッ!?」
「裕太知ってる?死体の処理って大変なんだよ?どこか山中に埋めても、どうしても跡が残っちゃうし、海に沈めてもいつ浮かんでくるか分からないもんね。一番いいのは、酸で満たした浴槽に死体を沈めて溶かしちゃう方法なんだよ」
 くすくすといつもと変わらない笑みを浮かべる木更津だったが、確実に常態とは異なっていた。
 よく見れば、黒目がちの目が艶やかに煌きながらも、妙に据わっていている。
 裕太は思わず後退さる。
「赤澤は体躯がデカイから殺るのは大変だね。観月も悪くないけど、まず柳沢から行こうか、裕太」
「は……えぇッ!?」
「三味線で殺る?」
「え!?」



 結局、木更津は裕太の身が危うくなった所で、タイミングよく、ぷつりと糸が切れたマリオネットのように唐突に崩れ落ちて眠りについた。
 赤澤や柳沢、観月については、裕太は直視できなかった為に、語れない。

 裕太は結局、仕方がないので一人でボトルを全部空けた。といっても赤澤や柳沢、木更津が半分以上飲んでいたのでそれほど残っていなかったのだが。
 裕太は襲ってくる眠気に身を預け、意識が闇におちていくのを感じながら、この人たちと一緒には今後一切アルコールを飲まないと心に誓った。



<了>



※あとがき※