「S2で終わりますよ、んふっ」
 裕太は観月の言葉が終わるや否や、黙々と、左手にしたシャープペンシルを無心に動かした。
 いや、無心に、というより、もう既に惰性で動かしていると言った方が正しい。さっきから、飽きる程同じ単純作業を繰り返しているからだ。
 裕太は観月に気付かれないように視線を落とした。
 テーブルの下にこっそり隠した右手に握られたメモ帳の上に、”正”の字がもう、かれこれ9つ並んでいるのが目に映る。
 裕太は人知れず小さなため息を吐いた。
 観月に気付かれないようにやるにはかなり骨が折れる。その割に作業自体は単純極まりない。
 最初は何となくスパイ気分で面白いと思いもしたが、それもここまでくるといい加減嫌になろうものである。
 裕太が嫌気を覚えながらこっそり行っている作業――――それは、観月の「んふ」を数えることだった。



『裕太の受難』



 裕太とて好んでこんなことをしているわけではなく、一応ちゃんとした理由があった。
 しかしちゃんとした理由と言っても、他愛もないことであったが。

 事の発端は遡ること1時間前。



 ガッシャーン!
 大きな音が整理整頓されていない雑多な部屋に響き渡った。
「…………………」
 左手に細長い木片を摘んだまま彫刻のように固まった裕太は、瞬きを繰り返しながら自分が倒したジェンガを見下ろした。
「あーあ、これまた盛大にやったね」
 木更津がクスリと含み笑いを漏らしながら言った。
「…下の階まで響いてるんじゃないですか?音」
 困惑したように言う金田。
「まだ消灯時間じゃねぇんだから、文句言われる筋合いはないぜ」
 しれっとそう答えた赤澤は、言いながらテーブルの下まで落ちたジェンガの部品を拾いにかかった。

 今日は夜の9時から、寮の食堂を借りてミーティングを行う予定になっていた。
 夕食が終わったのは8時ごろ。ミーティングが始まるまでの空き時間、暇を持て余していた面々はいつの間にか、いつも遊ぶ時に使う部屋―――赤澤の部屋に揃っていたのだった。
 暇を持て余していた人員、それは裕太と金田と木更津。
 柳沢は、木更津の言によると、明日提出の宿題がまだ終わってないらしく、自室で大人しくノートに向かっているそうである。観月はミーティングを前にして、顧問と打ち合わせをしに行っている。
 そんなこんなで集まった暇な4人は、おもむろにどこからか赤澤が持ち出してきたジェンガで遊ぶ事になった。成り行きで。
 数十分間の格闘の末、危うい均衡を崩してそれを倒してしまったのは―――裕太だった。


「じゃ、罰ゲームは裕太に決定な」
 赤澤はテーブルの下に落ちていたジェンガの部品を掌一杯に集めながら言った。
「え、罰ゲームあるんですか?聞いて無いスよそんなの」
「当たり前だ。言って無いからな」
「………」
 返す言葉が見当たらずに沈黙していた裕太の隣で、木更津が楽しそうに声を上げる。
「何にするの?罰ゲーム」
「うーん、そうだなあ」
 赤澤は腕を組んで考える。
 今から考えるのなら、罰ゲームなんてやらなくていいじゃないか、と裕太は思ったが、それはこっそり胸の中だけで呟いておく。
 赤澤は暫く熟考していたが、唐突に何かを思いついたらしく、突然裕太に指を突きつけた。
「よし、決めた。今夜のミーティングの時、観月が何回”んふ”って言うか数えろ」
「……………は?」
「俺は観月の”んふ”が一体一日に何回使われているのか非常に気になる。しかし一日調べるのは大変だ。だからミーティングの時だけに絞ってやろうと言ってるんだ。俺の温情に感謝しろ」
「いや、そういうことではなくてですね、なんでそんなこと…」
「俺が気になるからに決まってるだろ」
「…………」


 かくして、裕太は観月の”んふ”を数える羽目になったのである。
 ちなみに、あの後こっそり木更津が耳打ちしてくれたのだが、数学の吉村先生(男)の「〜ネ」という語尾に「ネ」が付く口癖は、50分の授業の間で126回もあったそうである。
 人の口癖って意外とスゴイ数になるよ、と可笑しそうにクスクス含み笑いながら言った木更津だったが、裕太はそんなことよりも、木更津が授業中にくだらないことで時間つぶしをしていることが意外で可笑しくて吹き出しそうになった。もちろん吹き出すのは堪えたが。

「裕太君、さっきから何をしているのですか?」
 メモ帳に目を落としているところで突然名指しされ、裕太は椅子から飛び上がらんばかりに驚いた。
「は、はい?」
 なんとか平静を装って聞き返してみるも、観月の目は裕太の目よりも下方に向いていた。
 まるでテーブルを透かしてその下にあるものを見るように。
「テーブルの下に何かあるのですか?」
「い、いいいええ、別に!」
 慌てたように殊更ぶんぶん首を振る裕太の様子に、観月は眉を顰める。
「怪しいですね。なんですかその狼狽振りは」
「い、いや、ホント何でもないですよ!気にせず続けてください!」
「…?フン、まあ、いいでしょう。んふ、じゃあ次にこの選手ですが…」
 裕太はドキドキとまだ驚愕の尾を引いて高鳴る心臓を感じながら、今の観月の”んふ”をカウントするべく、シャープペンシルを滑らせた。
 その瞬間。
「裕太君」
 静かな声が、ホッと息をついて間もない裕太の耳に飛び込んできた。
「今何かしたでしょう?」
「い、いいえっ」
 観月は自分の口癖を数えられて笑っていられるような人物ではない。もし今裕太が行っていることがバレたら、自尊心を傷付けられたと感じて怒り心頭に達することは間違いないだろう。
 従って裕太は、不自然なのは重々承知しつつも頑迷に否定し続ける。
「裕太君、では両手をテーブルの上に出しなさい」
「え、いやあのその」
「出しなさい」
 静かに、だが有無を言わせない厳しい口調で、観月が言う。
(メモ帳とシャーペンを床に捨ててから手を出そうか…いや、そんなことしたら音でバレる。そうだ、膝にのっけておいたらいいんだ)
 裕太はメモ帳とシャーペンを自分の膝の上に手探りで慎重に載せ、両手をテーブルの上に差し出した。
「何にもないですよ、ホラ」
「………」
 観月は、裕太の空の両手を見てもまだ納得が行かないようだった。怪訝そうな瞳の色を隠そうともしない。
「では、ちょっと立ってみましょうか」
「は……ええええ!?」
「その場に立ちなさい」
 少し苛立たしげに言う観月。

 裕太はとうとう観念した。

 がたり。
 椅子を後方へ押しやって立ち上がると、膝の上に載っていた物達がぽとりと床の上に落ちた。
 観月が床の上に落ちたメモ帳とシャープペンシルを拾い上げる。
 そしてメモ帳の中に書かれた正の字を見て、目を細めた。
「…これは?」
「ええと、それは…」
 メモ帳には正の字しか書いていない。それだけを見た限りでは、それが一体何を意味するのか分からないだろう。だから何か適当に言い繕えば良いのだが、所詮正の字。ミーティングで取るメモでは到底ありえず、適当な言い訳が思いつかない裕太はただ目を泳がせる。
「それは?」
 先を促すように言った観月は裕太の様子から何らかを察したのか、視線に氷のような冷たさが篭り始める。
 裕太はもう耐えられないと思った。
「ええっと、その…」
 裕太は意を決して言う。
「…観月さんの”んふ”を数え…」
 ぴくり。
 裕太の言葉に、観月は神経質そうに細い眉を吊り上げた。そして言う。
「裕太君」
「は、はい」
 鋭い刃のような口調に、裕太は思わずその場に気を付けする。
「ミーティングに集中していなかった罰です。明日の朝練で柳沢君が何回”だーね”を言うか数えなさい」
「は………はい?」
 普通に頷きかけて、裕太は我が耳を疑った。
「え、数えるんですか?”だーね”を?」
 思わず聞き返すと、観月は嫌悪感丸出しに顔をしかめる。
「貴方には日本語も通じないのですか?僕が今そう言ったじゃありませんか」
「ちょっと待つだーね!」
 柳沢が椅子を蹴って抗議の声を上げたのを完全に無視した観月は、一言ぴしゃりと倣岸に言い放った。
「命令です。従いなさい」
「は、はい」
 裕太はただこくりと頷いて、命令を受け入れるしかなかった。


 ミーティング後。
 憮然とした表情で資料を揃える観月に、赤澤は苦笑しながら耳打ちした。
「観月、あれ裕太にやらせたの俺なんだ。悪かったな」
「どうせそんなことだろうと思っていましたよ」
「ならなんで、裕太にあんな罰やらせんだよ」
「そんなの、僕が気になるからに決まっているでしょう?」
 さも当然、という風に言った観月の言葉に、どこかで聞いた言葉だな、と思いながら、赤澤は確かにな、と答えた。
「何回になるか見物だな。あ、ついでに、観月の”んふ”は48回だったらしいぜ」
「…貴方は一言余計です」
 そう言った観月の表情は心底嫌そうだった。



<了>



※あとがき※