どんよりと重く垂れこめた灰色の雲から雨滴が落ち続けること早3日。
『南の海上に停滞する前線の影響で、今日も関東地方は一日中雨でしょう』
 テレビから流れてくる天気予報に千石はため息をついた。
「じとじとじとじと、こう毎日だとやんなっちゃうなあ」
 雨に白く煙る風景を窓越しに見ながら、まだ梅雨でもないのに、と愚痴を零しながら制服の上着に腕を通す。
 空気中の湿気を吸ってか、心なしか制服がいつもより重い気がして、どうにも憂鬱な気分が抜けない。
「雨で朝練がなくなるのは嬉しいけどさー……」
 自分以外誰もいない部屋。聞いている者なんて誰もいないと分かっていながら、千石は独り呟いた。
「こんだけ続くと体がなまって仕方ないよね」
 制服のホックを襟元まできっちり止めて、卓上の鏡を覗く。
 少しだけ顔を傾けて、鏡の中の自分と上目遣いに視線を交わす。
「うん、男前」
 満足げに呟いた千石の声を遮るように、階下から苛立たしげな声が飛ぶ。
「清純!いい加減学校行きなさい!遅れるわよ!!」
「へーい」
 母親の怒声にのほほんと答えながら、千石は部屋を出かけ、ふと、ぴたりと足を止めた。
「あ、危ない危ない」
 ベットに駆け寄って、枕元に置かれた携帯を手に取る。
「目覚まし代わりにするからいつも忘れてっちゃうんだよね」
 忘れていくたびに、携帯不携帯でどうする、と千石は南に突っ込まれる。
「今日は忘れなかったぞ〜。偉いぞ俺」
 言いながら、千石は携帯を鞄の中に放り込んだ。



『MESSAGE』



 がらり。
 教室の扉を開けて中に入ると、もう既に大方のクラスメートが揃っていた。
 それもそのはず、予鈴が鳴ってから既に数分が経っており、本鈴まであと1、2分も無いという時間帯である。
「オハヨー」
 なのに千石は別段走ってくるでもなく悠々と歩いて来たらしく、息の一つも上がっていない。
 千石は制服の生地の上で球を作る水滴を払いながら、自分の席についた。
 現在の千石の席は、窓際の列の最後尾。3週間前の席替えのくじ引きの時、幸運にもこの特等席に当たった…というより、千石は大体いつも後ろの方の席に当たる。大抵の生徒が嫌がる前から2列目までの席には、今まで一度たりとも当たったことが無い。それもこれも、千石ならではのラッキーの賜物なのかもしれない。
 それはともかく、今は、歴代の席順の中でも最上級の特等席である。
 窓際ほど楽しい席は無い、と千石は思う。
 飛んでいる鳥を眺め、風にそよぐ緑を眺め、グラウンドを駆け回る生徒たちを眺め、時折塀の上を横切っていく親子連れの猫を眺める。
 難解な言葉が並ぶ黒板にはあまり興味が湧かなくても、楽しみの対象は窓の外にたくさん見つけることが出来た。
(でも雨の日は動くものが少なくてつまんないんだよなあ)
 だから早く晴れて欲しいなあ、朝練もしたいし……などとぼんやり考えながら一時間目の授業に必要なノートや教科書を机上に置いた時、千石はふと気がついた。
 黒板の端に、授業の板書の妨げにならないようにひっそりと、「男子硬式テニス部員へ」と書かれていることに。
 その言葉に続いて書かれた内容は、”本日4時より部室にてミーティング”といたって普通のものだった。
「ン、あれ?」
 が、千石は首を傾げて、黒板に残されたメッセージを凝視した。

 前方の黒板の端や、教室の後ろにある小黒板に、こういった部活、もしくは諸委員会の連絡事項が書き込まれることは、そう珍しいことではない。
 一階の廊下に部活や委員会専用の連絡用黒板が設けられてはいたが、何故かひっそりと奥まったところにあるので、そこに書いたところで見てくれない生徒が大半だし、大人数に緊急の連絡を伝えるのには携帯電話はあまり適さない。
 したがって、至って原初的な方法であろうと、各教室に同一のメッセージを地道に書き残していくのが一番手っ取り早い上、伝え漏らしがない最適な方法なのである。

 テニス部もご多分に漏れず、緊急連絡があった時は、部長である南がこのように各教室の黒板に連絡事項を書いていくのが常であった。
 だから今日だって、こんな風に連絡事項が黒板に書かれていることに関して疑問を差し挟む余地は無い。
 だがしかし、千石が思わず黒板のメッセージを凝視してしまったのには理由があった。
(…なんであんなに低い所に書いてあんの??)
 千石は目を瞬かせてもう一度メッセージを見やる。
 連絡事項の書き出しは、明らかにいつもと違う位置から始まっていた。
 いつもと比べると、低すぎる。大雑把な目算だが、字が始まっている位置は南の胸の高さくらいだと思われた。
「あれは………南が書いたんじゃないなぁ」
 千石は一瞬にして、そう結論付けた。
 普通、人は黒板に文字を書くとき、自分の目の高さくらいから書き始める。黒板に残ったメッセージは南が書いたと思うには明らかに不自然すぎて、むしろあの高さは――――。
「太一だな」
 そう呟いて、千石の脳裏に疑問が浮かんだ。
(あれ?んじゃ南は??)
 千石はそう思うや否や、折角落ち着けた腰を勢いよく上げていた。
「おい千石今から何処行くんだ?」
 クラスメートの問いに、千石はちょっとソコマデ、と早口で言い置いて、慌しく教室を飛び出した。


 ガラッ!
 大きな音を立てて扉が開かれる。
 廊下側の席に座っている東方があまりの音の大きさにギョッとして振り向くと、軽く息を弾ませた千石が立っていた。
 一拍置いて、千石が口を開いた。
「東方、南は休み?」
「ああ」
「風邪?」
「そうじゃないかな、多分。俺の方には直接連絡無かったから分からないんだけど、太一によるとそうらしい」
「マジで?こんなほとんど風邪が流行ってない時期に風邪引くなんて、器用なヤツ」
「全くだ」
 東方は机の上に置いた教科書やノートを端に揃えて置く。
「んで?何しに来たんだ?律儀にも南の様子を聞きに来たのか?」
「それもあるけど〜…お願い!雅美ちゃん、英語の辞書貸して」
 千石は懇願するように両の掌を合わせて東方を拝む。
 東方は露骨に嫌そうな顔をして千石を睨んだ。
「”雅美ちゃん”言うな、気持ち悪い」
 言いながら、東方は教室後方のロッカーに歩み寄る。
 個人ロッカーの中から英語の辞書を取り出して渡すと、千石は片手で謝りながらウィンクを返してくる。
「いつも南に借りてたからさー、いやー、メンゴメンゴ!」
「いいからとっとと行けよ。授業始まるぞ」
 東方の言葉に促されて耳を澄ましてみると、チャイムの残響が漠として聞こえてきた。どうやら話し込んでて気付かなかったみたいだが、数秒前にチャイムが鳴り始めていたらしい。
「うわヤバ!」
「そういえばなんで南が休みって分かったんだ?」
 駆け出そうとする千石の肩越しに質問すると、千石は首だけ振り返って言った。
「いや、あれ、低い位置にあるから太一が書いたんだろうなーって思って」
 千石が指差したのは、黒板の隅。そこには、千石のクラスの教室に残されていたものと同じ内容の連絡事項が書かれてあった。
「なるほど」
 東方が頷いたのも束の間。
「辞書センキュー!!んじゃ!」
 しゅぴ、と片手を上げて、千石は脱兎の如く駆けていった。



 先生と同時に教室に滑り込んだ千石は、辞書を机の上に放り出すなり鞄の中に手を突っ込んだ。
「起立、礼」
 学級委員長の声に合わせて条件反射のように適当に立ったり座ったりした後、こっそり机の下で携帯を開く。
 家を出るときはチェックせずにただ引っ掴んできたし、学校についてからも携帯を見ていなかったので、もしかしたら南から何か連絡が入っていたのかも、と思ったのだが、しかし着信も新着メールもなかった。
(そういえば東方も直接自分のトコには連絡が無かったって言ってたっけ)
 大方、マネージャーの太一に今日の部活に関する連絡をするのが精一杯で、東方や千石には連絡をするだけの体力と気力を使い果たしてしまったのだろう。
 千石はしばらく雨に濡れる町を眺めながら考えた後、新規メールを作成した。



 朝目覚めると体がとても重く、まるで両手両足に重石がつけられているように感じた。
 ぼうっと熱に浮かされて、どんな簡単な動作でもするのがひどく億劫だったが、部長という立場上部活をほっぽり出して勝手に休むわけにはいかないので、とりあえずマネージャーの太一に連絡をつけた後、南は浅い眠りを貪っていた。
 しかしそれも、ざあざあという雨の音で中断され、南はつい先ほど、夢の中から現実の世界に引き戻されていた。
 そして覚醒して間もなく、枕元の携帯が鳴った。
 まだ手足が重く、携帯に手を伸ばすのも鬱陶しかったが、とりあえず手に取ると、ディスプレイには新着メール1件の存在が表示されていた。
 ボタンを操作してメールを開くと、それは千石からのメールだった。
 件名には”返事はいらないヨ@”とある。
”南、生きてるか〜?ノートはオレが取っておいてやるから心配すんな!
ミーティング終わったら南の大好きなコロッケ買って、お見舞いに行くかんな〜。そん時は起きててちょ☆”
「ちょ☆って何だよ、ちょ☆って」
 南はふっと笑って、携帯を閉じかける…が。
(……千石のノートは当てにならない)
 ふとそう考えて、携帯を手に取ったついでに東方にメールを打つ。
”今日のノートよろしく頼む”
 いつもならもう少し長い文を打つのだが、今は文を考えるだけの集中力も打つだけの気力もない。
 いたって簡潔なメールを送信した後、南は考えた。
(ミーティングが4時からだから終わるのは5時くらい……学校からここまでが30分くらいだから……)
 熱のせいかいつもより格段に計算能力が落ちていたが、そこは現役中学生。緩慢な思考で時間が余分にかかってもきちんと計算し、携帯のアラームを5時半にセットした。
(まあ、昼にはまた起きると思うけど)
「じゃ、寝ながら待っててやるとするか…」
 南はふぅ、と息を吐いて、目を閉じた。
 視界が暗くなって、倦怠感がすぐにも睡魔を運んでくる。
 意識が遠ざかるに連れて雨音が遠くなっていくのを感じながら、ふと気が付いた。
(あー…今日は英語がある日だったな……)
 千石は荷物が重くなるのが嫌で、英語の授業で必要であっても、確信犯的に辞書を持って来ないきらいがある。だから例の軽い調子で辞書を借りに来るのが、英語のある日における千石の日課であり、それを迎えるのが南の日課でもあったが、今日は自分は欠席している。
(辞書、調達できたのかな…?)
 そんなことをぼんやり考えながら、南はゆっくりと寝入っていった。



<了>



※あとがき※