『心の洗濯』




 激しいffの低音、そして絶望を誘うかのようなpppの不安な和音。
 停止しそうな程にゆったりとしたテンポ、柔らかい音色の中に極度の緊張感。
 しかし絶望の予測に反して、明るく煌くような和音の進行が続き、光が差すかと思いきや、再び冒頭の不穏なメロディが繰り返された後、突如始まるAgitato(激しく)。


「珍しいわね、周助がラフマニノフなんて」
 声に振り返ると、由美子が自分愛用のカップ片手に、壁にもたれて立っていた。いつの間にか、部屋に入ってきていたらしい。
「ショパンは?」
「今日はそんな気分じゃないんだ」
「今日はラフマニノフの気分なの?」
「うん、そういうことだね」
「何か嫌なことでもあったの?」
「なんで?」
「周助のラフマニノフはストレス発散にしか聞こえないわ」
 由美子は笑いながら壁から身を起こし、不二の隣に立つ。
「あたし、『エオリアンハープ』聴きたいな」
「なんでよりにもよってそんな難曲リクエストするかな」
「そういう気分だから」
 由美子はそう言いながら、戸棚から楽譜を取り出してくる。
 不二の前のグランドピアノの譜面台にセットして、由美子は「さあどうぞ」と言わんばかりに、隣に椅子を置いて腰掛ける。
「そうして座られると、なんだか昔のレッスンを思い出すなぁ」
「周助は絶対泣かない子だったわね。あたしはよく泣いてたけど」
「姉さんは忍耐力がないから」
「なによ」
 軽く頭を小突いて口を尖らせる由美子に、不二はクスクスと笑った。
「それで?何があったの?」
 由美子の優しい眼差しに、不二は笑い声を収めて見つめ返す。
「”何か”ないと、そんな音楽にはならないでしょ」
「そうかな?」
「そうよ。音には心が映るもの」
 由美子は、ピアノの鍵盤を指の腹でそっと撫でる。
「話したくなかったら、話さなくていいわよ。ただピアノを弾いてくれたらいいわ」
「…エオリアンハープ?」
「なんでもいいわよ」
「さっきはエオリアンハープがいいって言ってたじゃない」
「気が変わったの」
「なんだかなぁ」
 姉の傍若無人な振る舞いは今に始まったことではない。でも、少し偉ぶっているような態度の中に、何でも許容してくれそうな大きな包容力を感じる。
 弟としてとても大切にされている、ということが、由美子の声音から感じ取られた。
 きっと、ただそれを真っ直ぐに口にするのが恥ずかしいだけなのだ、と、そう思った。
 不二は、自然と苦笑いが口元に浮かぶのを止められなかった。


 ピアノに向き直って、小さく息を吐く。
 ひやりとピアノの鍵盤の冷たさを指先に感じながら、全身の力を抜く。
 先程から弾いているので、大分指は解れている。
 なのですんなりと、抵抗無く、右手の指が、イメージ通りに、滑らかに鍵盤を叩いた。


 一瞬後、光り輝くような響きのアルペジオが、部屋に満ちた。
 音の一つ一つが融解して絶妙に混じりながら、風に流れるように鳴り響いた。

 美しい響きが、満足する響きが空気を震わすたびに、脱力した身体に音楽が染み込む。共鳴する。
 グランドピアノと自分の境界が曖昧になっていく、一体になっていく。そんな感覚が、身体に満ちる。

 ただただ、美しい音楽。
 体の中で、循環する、その音楽。

 胸に凝ったわだかまりが、綺麗に押し流されていく。どんどん清浄化されていく。
 心の中が真っ白に塗り替えられていく―――そんな気がした。




 最後の和音を丁寧に置いて、ペダルから足を離す。
 余韻が澄み切った部屋の空気に溶けた後、不二は、ふぅと小さくため息を吐いた。
「結局エオリアンハープ弾いてくれたのね」
 話し掛けられて、振り返る。弾いている間、そこに姉がいたことなどすっかり頭から抜けていた。
 隣に彼女が座っていたことを思い出し、不二はにっこりと微笑んだ。
「リクエストされたし」
「いいでしょう、エオリアンハープ。ひたすら綺麗な旋律もいいけど、心が洗われるような感じがするのが、もっと好き」
「そうだね」
 不二は頷く。

 ピアノ室に足を踏み入れた時、悶々としていた気分が、いまやすっかりどこかに消えていた。
 自分の心中に跡形もなくなった黒い影。今となって振り返ってみれば、なんて些細なことだったんだろう、と思う。

「機嫌直った?」
 目元に慈愛を滲ませながらの由美子の問いに、不二はグランドピアノの蓋に手を掛けながら答えた。
「元々、機嫌が悪いワケじゃなかったよ。ただ…その、英二とケンカしただけ」
「ふーん、珍しいこともあるもんね。周助が喧嘩なんて」
「だって…………あ、やっぱりやめとこ」
「何よ、そこまで言いかけておいて!」
「話したくなかったら話さなくていい、って言ったのは姉さんだよ」
 カバーをピアノに被せながら言った不二の左頬に、すかさず由美子の指が伸びた。
 くい、と頬を摘みながら、由美子が横目で不二を睨む。
「言質を取るなんて、可愛くない!」
「可愛くなくていいよ。可愛いって言われて嬉しい年頃じゃないもの」
「ああ、もう。なんで男の子ってこうなのかしら。あんたもそのうちオッサンになるのかと思うと、あたし悲しくて涙が出そう」
「…その時、姉さんはおば」
「何か言った?」
「ううん、別に」
 恨みがましい目付きの姉が可笑しくて、不二は声を上げて笑った。




<了>




※あとがき※