夜叉と寺田庄司の伝説
いつごろのことであるかはよく分からないが、
むかし、寺田に寺田庄司とよぶ人があった。
その娘は幾度も結婚したが、不幸にも不縁ばかりであったので、
ついに尼僧となり、観音寺の観音菩薩に仕えて一生を終わった。
世人は、この女性を「夜叉」とあだ名をしたという。
夜叉とはインドの鬼神で、顔かたちがきわめて悪く、
しかも猛悪な神とされ、仏教では毘沙門天の拳属とされている。
この女性が夜叉神のような醜怪な顔であったかどうかはあきらかでないが、
彼女の死後、観音堂の前を嫁入りの行列が通ると崇るといい、
そこを避けて通ると伝えられる。
この夜叉の石塔は、明治13年(1880)まで
寺田の観音寺の東南の隅にあったが、
この年、明治天皇が大和畝傍御陵へ参詣されるにあたり、
旧奈良街道の整備が行われ、当時無住となっていた
観音寺が撤去されるとともに、夜叉の搭も寺田墓地へ
移転したとつたえられる。(中島敏景氏談)
ちなみに、この夜叉婆さんを葬ったところを夜叉塚とよび、
ひいてはそれが地名になったものの如く、中世の
古文書には寺田の名が見えず、
夜叉塚としてしるされているのが注目される。
城陽町史よりお借りしました