杉岡華邨先生の書の歩み

2004年3月9日

「上手だと言われるような字は書きたくない、杉岡とはどんな男だろう、いっぺん彼に会ってみて、どんな考えを持っているのか話をしてみたいというような字を書きたい。」
 91歳を迎えた杉岡華邨は、かな書の第一人者として今なお精力的に創作活動を続けている。
 大正2年奈良県下北山村に生まれ、純朴で野性味溢れる少年時代を過ごした華邨は、師範学校を経て郷里の小学校に奉職した。学校の習字教育は手本の真似ばかりで嫌い、芸術的な仕事に就くとは思っていなかった。習字の研究授業を命ぜられたのを機に、文検(文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験)の習字科を目指し、本格的に書を学んだ。文検合格後、関西書道の大御所であった辻本史邑に漢字を学ぶが、吉沢義則の影響を受け日本語を書くかなへと傾倒、かなの巨匠であった尾上柴舟に師事する。


◆古筆習熟の時代◆

東京まで夜行列車で通いながら、柴舟が至上のものとした粘葉本和漢朗詠集を精習し続けた。臨書を単なる模倣ではなく、見いだした美を再表現する主体的表現行為と考え、古典を徹底的に学び、その品の良い形や味を身につけ、形の変化が乏しいものを良く見せるために深く立体感のある線を鍛錬した。
 昭和32年、柴舟亡きあと京都の日比野五鳳に師事する。独学で勉強しようとしていたが、五鳳が添削した線の清澄な鋭さに感激し、その場で入門を願い出る。五鳳の書が西行に通じることに気付いた華邨は西行に留まらず、継色紙、寸松庵、本阿弥切、光悦や良寛、さらには書譜の草書を中心とした漢字を含め、古筆の習熟に努めた。
 一方、大阪学芸大学(現大阪教育大学)で教職に就いた華邨は、京都大学で国文学・美学・中国文学などを学び、以後のライフワークとなる「王朝文学にあらわれた日本書道について」を研究する。
 朗詠調で鍛えた直筆の線に西行、継色紙のリズムが乗った作品で2度の日展特選を受賞し、華邨は書壇における地位を築いた。


◆様式模索の時代◆

日展での華々しい活躍の一方、物理的に計量・計測できない書の審査への迷い、人生へ疑問と苦悩は増すばかりであった。そんな折、生き方の悩みを解決してくれる人を求め、西田幾多郎門下の久松真一を尋ね、その禅の哲学や芸術論に非常に感激し、以後約10年間禅の指導を受けた。
 しかし、芸術的境地を追求し続ける向上心と、禅の修業を積み全ての煩悩を絶ち無心の境地を得たいという、越え難い矛盾に苦悩した。
 そして、村上華岳の画論の仏教的雰囲気や、柳宗悦の民藝論から浄土宗的思想に感銘を受け、芸術意識が先立つことにより美の健康が阻害される、表現主体である人間自身の改造と美に対する修練をつむことで、自分の生きる道が分かると同時に自己が確立され、そこから自然に美と芸術が出てくるとの考えに至ったのである。


◆表現開花の時代◆

昭和53年、大阪教育大学を定年退官した華邨は、退官記念書作展を開き、杉岡様式とも言うべき作品を披露した。また同年、日展文部大臣賞を受賞し、五鳳はこれを「人柄と多年にわたって積み重ねてきた実力の賜物で、知性と感覚のバランスがとれた、優れた作品」と評した。
 昭和58年の日展出品作で日本芸術院賞を受賞するなど、旺盛な学習と深い探究によって得られた書理論や書的地盤を土壌とし、自己の啓発を怠らない人間性の表出としての書が花開いた。


◆円熟純化の時代◆

 平成元年、76歳を迎え華邨は日本芸術院会員に選ばれる。この頃より、滋味深くあたたかな書線が際立ってくる。広く深く耕された書的地盤の中で長い年月をかけて熟成してきた線が作品にゆとりと安らぎを与える。細字作品は、文字が線に解体され、線の流れの中に文字が埋没し、様式模索の時代に見られた流麗さとは趣を異にした、閑寂な流れが完成する。一方、大字作品は、「にじみ」に思いを込めた、息の長い線、空間の「白」を生かした作風が主流となる。
 平成7年文化功労者となり、平成12年に文化勲章を受章した後も、表面的には技術が見えてこない、鑑賞者に絵を眺めているように感じさせる、温かく存在感のある作品を生み出し続けている。


 さて、あなたの目には、どんな杉岡華邨が映るだろうか。


この文章は2004年3月9日付け奈良新聞に掲載されたものと同じです。