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PTAまとめ(3)


蛇足編

民主主義・人権尊重は元々面倒くさいものじゃない?

 長々と書いて参りましたが、一応の結論は前のページで書きました…ということにしまして、ここから先は、もうちょっとフランクな口調で書かせていただきます。余りにも久し振りで、『だ・である』調で文章を書こうとしたので、緊張して疲れてしまいましたよ(笑)。また、ここから先は今までに増して私の独断と偏見で書きますので、その辺、お留め置きくださいませ。

 『PTA日記』・『PTAまとめ』でいくつか触れたように、幼・小・中のPTAを通して、議事進行がオフィシャルな場でのそれとは思えない展開になる場面を多く体験して参りました。それとは別に、個人的にPTAについて語り合っていても、想定外のリアクションが返ってきて驚くことが多かったです。

 例えば、役員選考会が私に対して病人でもその役ができるようにと、たくさんの条件を提示してきて、条件が折り合ったので役を引き受けたわけですが、その条件は、新会長候補、新副会長に全く伝えられてはいなかったということがありました。このことを指して、「詐欺まがいの行為であった。今後はこういうことが二度と起きないようにして欲しい。」という文書を自腹で作って役員会に配ったところ、「一所懸命やってくれた人にこんな言い方をするなんて」という言葉が返ってきて、その論点のすり替わり方に驚かされました。“一所懸命人を騙した人”は偉いのでしょうか?


 役員になる条件として私にとって一番重要だったのは『“魔の4月懇談会”の司会をしなくても良い』という条件でした。PTA行事で最も嫌いなのがこの行事であって、私は特に対人関係のストレスに対して過敏に反応する系統の病気であったため、それはもう絶対の条件なのでした。しかし、これもあっさりと覆され、「役員なんだから司会をするのが当然だ」と言われました。『司会をしなくても良い』という前提条件で役員を引き受けたのに、『役員になったら司会をするのは当然だ』というのは、自称理系人の私にはどうしても論理が破綻しているようにしか見えません。しかし、「PTAはボランティアです。ボランティアだから約束は守らなくてもいいんです」ということで、一カ月半前にもメールで再確認してOKの返事を得たこともぬか喜びに終りました。しかも、他の役員にその話をしても「副会長は間違ったことは言っていない。」という人もいました。この人達も、例えば足の骨折をした人を捕まえて、役員の仕事だからと、机や椅子を運ばせることはしないだろうと思います。目に見えない他人の病気だから自分がピンチに陥った時には、無かったことにすることができるのです。

小・中学校で私達は民主主義・人権尊重を習ってきたはずでした。それなのにどうしてこんな事になってしまったのだろうと私は時々考えてしまうのです。これから先は、全くもって身も蓋も無い話なのですが、『私達は民主主義が苦手な世代なのかもしれない』と思うことがあります。そして、その世代が輪切りで切り取られてPTA活動を行っているのでは無いかと?

 現在40代半ばの世代が小学生のころ、大学生のお兄さん・お姉さん方が学園紛争で大暴れしていた時代でした。しかも、当時の保護者と先生の主流は戦中教育を受けてきた世代が中心でした。戦中教育というのは、私は良く知らないのですが、なんとなく上下関係を守ることが重要な課題だったような気がするのです。
その教育を受けて育った当時の大人たちが学園紛争を起こしている大学生達を見て、『こんな風にいろいろと考えて議論するような若者は扱いが難しいから、今の小学生たちはあまりものを深く考えず、柔順な人間に育てたい』と考えたのではないだろうか?と私は時々邪推することがあります。

 思えば、今のゆとり教育とは正反対の“詰め込み式、暗記式教育”で、運動会の前には「どうしちゃったの?」と思うくらい“行進”や、“気をつけ、前へ倣え”や、“マスゲーム”など、頭を空っぽにして先生の言いなりに成るようなことばかりやらされていました。未だに、4列縦隊でコーナーを回るときに足並みを揃えるために内側の列の人は歩幅を狭くして外側の人は歩幅を広くして同じ歩数で校庭を一周する方法なんかを覚えている程です。局所的に教育の復古主義が起きていたのではないでしょうか?大学受験の頃には、『政経・倫社』よりも『歴史・地理』の方が大切とされていたのです。嘘だと思ったら1981年以降に国立大学の受験をした人に聞いてみてください。

 傍証として、大正生まれの著者によって書かれた、「なんで英語やるの?」中津燎子(著)という本を読むと“岡本公三分岐点”という言葉が出て来ます。その世代(Wikipediaによると1947年生まれ)くらいまでは英語を教えた学生達に討論をさせれば、言いたいことをたくさん内に秘めていた学生達はどんどん自分の言葉で話始めたそうです。しかしある時期、英語の発音も文法もそれまでの大学生に無いスピードでマスターして行ったのに、仕上がった英語を使って、何を話したら良いのか分からないと言う優等生が現れたそうです。その女子学生達は、高校時代の先生から「今はものを考えるな。考えるのは大学に入ってからにしなさい。」と言われたと語ったとのこと。今の40代は全てそれよりも下の世代に属しているのです。
この本は大宅賞受賞作で、英語のことだけでは無くて日米文化の比較や教育論にまで深い考察が述べられているのに、とても読みやすい本です。お勧めなのですが、今現在絶版中で、中古の本が高騰しているみたいですよ。気が向かれた方は、図書館でも探して読んでみてくださいね。

 自分の意見を述べようとするたびに、「生意気な」とか「今はそんなことは考えないで勉強しなさい」などと言われ続けて小学生・中学生・高校生時代を過ごした人は多分この世代には多いのではないかと思うのです。それで、何となく虚無的になりがちで、それよりもうちょっと上の世代は『三無主義(無気力・無責任・無関心)』などと呼ばれ、この世代は『三語族(うそー、ほんとー、カワイイ)』(ええ、本当に当時私や私の周囲にいた女子中学生は、この言葉を良く使っていました。考えてみれば、表現力の訓練にはなりませんよねぇ?)と呼ばれ、大人になった直後は『新人類』と呼ばれるに至りました。

 ひょっとして、現在の中学生くらいの子供の親自体が、私も含めて、教育の失敗の犠牲者であるかもしれないなぁ…と思うことがあります。人の能力の分布を正規分布とみなせば、もちろん山の裾野の辺りに思考能力・言語能力が非常に高い優秀な方々もいらっしゃいます。全員が同じ程度の能力だというような暴論を書くつもりはありません。でも、『自分達はひょっとして民主主義が苦手な世代なのかもしれない』と考えてみることによって、自分の考え方にバイアスを持たせる方が良いのかもしれないと私は考えることがあります。もうちょっと、他人の(例えば弱者の、例えば少数派の人々の)立場に立ってものを考える癖を付けた方が良くは無いでしょうか?幼・小PTA時代の自分への反省の気持ちも含めて書いています。

 PTAに限らず、民主主義って本来面倒くさいものなんですよ。だって、相手の意見が自分の意見と異なっていても、いちいち聴いて、理解できない部分は相手に確認して一旦自分のものにしてから反論を考えなければいけないのですから。
 例えば民主的な議論の末決定したことが、誰か優秀な方が出した結論よりも劣っていたとしても、私は、それでいいと考えます。みんなで決めたことを実行してみて失敗したら、みんなで反省して改めて考え直せばそれでいい。だって事はPTAじゃないですか。失敗したって誰かが死ぬようなことじゃないですよ?

そして、現代の親たる者・師たる者、子供の話を聴くべし。一旦は肯定的に聴くべし。『自分達の親の轍を踏むべからず』と考える今日この頃です。

さて、蛇足も含めて、だいたいPTA関連で考えたことはこれで書き尽くしたように思います。微力ですが実際に総会でも発言できたことですし、これにて、苦手な作文はいったん終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

2007.6.6 byとまて

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