=後編= 「くん」 来た。 私は数日ぶりにかけられた彼の声に、体をすくませた。 あれから数日、私はとにかく彼を避けていた。 もともとクラスが違うから、それはそう苦でもなかった。 ただ、あそこまであからさまに逃げていては不審がられても仕方の無いこと。 何せ今まで週に2度は訪れていた野球部にも全く顔を出さず、休み時間になると他のクラスか女子トイレに逃げ込む。 そして移動時間は誰より先に教室を出るにも関わらず、一番最後に教室に着くのだから。 所在を明らかにしたくないことは明白だったろう。 同じクラスである蛇神くんは、「何事也」といぶかしんでいたほどだ。 けど、とうとう捕まってしまった。 ここで逃げたら絶対怪しい。 いや、これまでの行動だって十分怪しかったとは思うけど、これはその比じゃない。 「何、牛尾」 私は体を固くしながらも、なるべくいつも通りに対応した。 それが実際、どれだけ普段通りに見えているかはわからないが。 とにかく今は、彼と会いたくなかった。 会って、この感情をはっきりと認識したくなかった。 これだけ意識している時点ですでに認めているようなものだとは思うが、私の意地はそれを無理やり認めないことにしたのだ。 「最近、僕を避けていないかい?」 「まさか。どうしたのよ急に」 まさかも何も、避けていた。 これで何も感じていなかったら、彼は私のことなんて友人としてすら全く見ていないことになる。 「いや、避けていたね。実際、こうして話すのも実に13日ぶりだ」 男のクセに細かい奴だな。 しかも最初は疑問形だったのに、私が否定したら断定するのか。 「どうしたって言うんだい。何かしたか……」 パンッ そう言って、私の腕を掴もうとした牛尾の手を反射的に払ってしまった。 私自身、何をしたのかわからなかった。 手を抑える牛尾を見て、ようやく私は彼の手を叩いたのだとわかったが、謝ることもできずに逆に牛尾を睨んでいた。 何も言えなくて。 何がしたいのかもわからなくて。 気づけば私は走っていた。 牛尾から逃げられればどこだっていい。 とにかく彼のいない所に行きたかった。 「くんっ!?」 後ろで牛尾の驚いた声が聞こえた。 怒っているわけでもないらしい。 いっそ怒ってよ。 でもって、縁を切ってくれればこんな気持ちに悩まされることもないのに。 中途半端なのよ。 この『友人』って関係は。 それ以上にも以下にもなれない、あまりに定着してしまったポジション。 私以外、誰も牛尾のそばのこのポジションにつくことはできない。 けれど、同じように私が彼のコイビトというポジションにつくこともまたありえないのだ。 意地張って意地張って、認めたくなかった感情だけど。 ホラ、アイツに会った途端嫌でも認めざるをえなくなる。 私は、牛尾御門のことが好きなのだ。 だから会いたくなかったのよ。 これ以上私に関わらないでよ。 野球を語りたいなら、部員で十分じゃない、アンタの場合。 もう、私から野球を奪わないで。 私の中で一番を占めるのは、野球以外であっていいはずないのに。 私は止まることなく走り続け、グチャグチャになった思考回路でそんなことだけを思った。 「待った!」 けれど、現役野球部員、それも野球を愛してやまないキャプテンと、引退してすでに2年以上経っているただの女子高生では勝負は明白だった。 いくらもしないうちに追いつかれる。 野球部の練習はダテじゃない。 腕を今度は逃げられないほどしっかりと掴まれ、私はこれ以上逃げることは適わなかった。 「どうしたんだい、本当に……」 息を切らす私に対して、コイツは少々肩を上下させる程度。 私の体力も随分衰えてしまったものだ。 現役の頃は、チーム内でもかなりの俊足を誇っていたのに、これでも。 私は彼のあまりにもまっすぐな視線に耐え切れず視線をはずした。 じっとみつめてくるその瞳に、疑問こそあれど疑いなんてカケラも見えなくて。 だからこそ、いてられなかった。 彼は純粋に野球を愛していて、そうやって好きなものに対して純粋でいられるからこそ、他人にもこうやってまっすぐ接することができるのだ。 「いい、何でもない。放っておいて」 まだ顔を背けたまま言う。 けれど、納得していないのか、その手は離されなかった。 「何でもなければどうして逃げたりするんだい。僕にはわからないよ」 わからなくて当然。 アンタは本当に野球しか見ていないんだから。 だから他人の、それも女心なんて全くの無関心。 わかるはずがない。 「いい、から……。これ以上、私から野球を奪わないで………!」 何を言っているのか、理解できなかっただろう。 私が唯一野球に関してあそこまで語れる存在である牛尾に対してそんなことを言っても、理屈が通らない。 けど、このままコイツといると、そうなってしまいかねないのだ。 今まで野球で占められていた私の心の部分まで、彼が占めて。 けれど彼の一番は永久に野球で。 野球が一番でない私なんて、きっと彼にとっては意味がなくて。 私にとっての一番は野球。それ以外にない。 だから、これ以上牛尾と関わりたくなかった。 「何を言っているんだい。僕は……」 「もういいっ!」 わからない。 牛尾に野球を取られるのが怖いのと。 野球に牛尾を取られるのが怖いのと。 頭の中整理なんてできていなくて、何が言いたいのかもわからない。 自分でも、どう思っているのかわからない。 「……き、なの…」 「え?」 「野球が、好き…なの、に………。牛尾のことも、好き………」 もう、心の中めいっぱいだった。 どうにも抑え切れなくて、まるで歯止めが利かなくなって呟いていた。 本人を前に。 あまりの脈絡の無さに、面食らったままさすがの牛尾も固まっていた。 「……何だ、そんなことだったのか」 長い沈黙を破ったのは、どこか呆れたような牛尾の声だった。 重すぎる沈黙だったのが嘘のように、とても軽く言われたそれに、顔を背けるように俯いていた私も思わず顔をあげてしまった。 そこにはなぜだかホっとしたような牛尾の笑顔。 何がどう『そんなこと』なのか。 私にとっては死活問題だというのに。 にらみつけた私を、牛尾は怯むことなく微笑みながら見ていた。 もっとも、私が睨んだくらいで怯むような奴でないことは百も承知だが。 それでも今回ばかりは私は今にも噛み付きそうな顔をしていただろう自信もあったのだが、それもコイツには問題無いらしい。 「くんって、案外鈍いんだね」 「はぁ?」 何を言い出すんだ。ってか空気を読め。 私はアンタから逃げて、それも怒ってて。 もう近づくなってまで言ったのに。 牛尾は掴んでいた私の腕を引っ張ると、そのまま体勢を崩した私を抱きしめた。 「はなしっ……」 「僕は、ずっと君を見ていたんだよ?」 耳元で囁かれる声は、やはり余裕たっぷりで、真実味なんて感じなかった。 「ふ……っざけないでよ!恋人はグラウンドでしょ!!」 牛尾も、私も。 だから、こんな感情でコイツのことを見るなんて私にとってはあるまじきことなのに。 けれど牛尾は平然と言ってのけた。 「もちろん、野球はLOVEだよ。けど、君と野球を同じ次元で考えることなんて、そもそもできるはずが無いだろう?」 さっきまで、自分にとっても野球が一番じゃなくなって、牛尾から見放されることが怖かったのに。 なのに今度は牛尾のその物言いに腹がたった。 矛盾してるってことは自分でもわかってる。 けど、私にとって野球はDNAレベルで染み付いているのだ。 「何よそれ!ふざけないでよ!」 「ふざけてなんかいないさ」 平然と言われるから、余計に腹立たしいのかもしれない。 私が悩んできたことを、いとも簡単に言ってのけてくれるからかもしれない。 何にせよ、納得できなかった。 どうあっても譲らない私に、牛尾は軽くタメ息をついた。 「全く…どうして欲しいんだい、君は」 「………」 わからない、自分でも。 牛尾へのこの気持ちを認めたくなかったのと同じように、牛尾にとっての野球と私の有りようも認めたくないらしい。 「僕は……」 牛尾の出した言葉は、思いのほか私の心に響いた。 「野球無しじゃ生きられないと思っている。そして、そんな野球に関して君と話すことも、同時になくてはならないんだ」 私はぎゅっと唇をかみ締めた。 嬉しさと、嫉妬と。 入り混じって、泣きそうだったから。 「野球も君も、手に入れたいと思うのはいけないことかい?」 牛尾の目は、真剣だった。 そして、ほんの少しだけ寂しそうで。 それまでだって本気だろうことはわかっていたけど、本当に本気なんだって思った。 しばらくして、牛尾は表情を緩めた。 ふ、と戻ったいつもの笑顔に、私の緊張も少し緩んだようだった。 「返事は、どうやら聞く必要はなさそうだね」 そう言うと、彼はもう一度私を抱きしめた。 私に逃げる気などもうないことはわかっているのだろう。 さっきのように、息苦しいまでの抱きしめ方ではなかった。 「…自過剰男」 「そう答えるってことは、僕のいいようにとって構わないのだろう?」 クスクスと顔のそばで聞こえる笑い声。 その勝手な言い分が悔しくて、軽い反抗として私も牛尾の体に腕をまわしてやった。思いっきり強く。 普通の奴なら苦しがるだろうくらい力を込めてやったけど、並の鍛え方でないコイツにはやはり効かないらしかった。 End BACK ******************************** はい、完結です。 最初はもうちょっと簡単に終わるつもりだったのですが、 “そんな簡単に素直になるタマかい”と思い引っ張りました(苦笑) 牛尾氏は策士だと思うのです。 野球に対するLOVEは天然だけど、対人関係は策士。 さすが牛、黒も白も兼ね備えていますね(違) ’02.6.9.up |