部室の中は至って静かだった。 外の雑音は聞えてくるけど、どこか遠くの出来事みたいで。 この微かなざわめきの中、一人で部室に残っている時間が私は好きだった。 誰かが乱入してくる時もあるし、それも時に楽しかったりはするのだけど。 一人の時間というのは、それも自分の部屋という確実に一人になれる場所とは違う空間でのその時間というのも大事なものなのだ。 「ちーっす……って、先輩、何やってんスか」 突然ガチャリと開けられた扉の音に異常なくらい反応してしまった私は、御柳が入ってきた瞬間には机の上に置いていた鞄を引っ掛けて落としてしまった。 運の悪いことに鞄の口は開けっぱなしな上、ここまで見事に散らばらなくてもというくらい中身が散乱した。 普段皆を叱り付ける立場にある私のこの醜態に、御柳が呆れよりも驚きの声をあげたのは、至極当然のことだった。 「わっ!あー、こりゃ見事」 自分でも驚きの声をあげて、椅子に座ったまま手を伸ばそうとしたが、あと一歩のところで指先が触れる程度。 仕方なしに立ち上がった私を御柳はガムを噛んだまますいと近寄って拾うのを手伝ってくれたが、顔にはありありと『不審』と書かれていた。 中身を拾い上げながら、少しばかり混じっている女ならではの中身(ブラシだとかソックタッチだとか)を珍しそうに見ていた御柳は、何気無いように聞いてきた。 「部誌、書いてただけっスよね?何であんなに驚くんスか」 まさかアンタの顔が怖いからなんて冗談を言えるわけも無く(初対面でさえ全く表情を変えなかった私に、逆に御柳が驚いたくらいなのだ) 適当なことを言ってはぐらかそうとはしたのだが、こんな時に限って上手い言い訳がみつからない。 集中しすぎていた、と言ったらコンマ3秒で否定してくれた(コイツ…) 「明日…練習試合でしょ」 「ん、……あぁ。そいやそっスけど。で?」 「いや、別に……」 答えが無いことにむっとした御柳だったが、これ以上言いようが無いのは掛け値なしの事実なのだ。 私が動揺したのは、明日の試合について考えすぎていたため。 久しぶりのアイツらの対決に、情け無いながらとても情緒不安定になっていたから。 けど、そんなことを御柳が知るはずもない。 「先輩、いい加減に…」 痺れを切らした御柳が語気を荒くした時だった。 「まだ残っているのか。…お前ら、何をやっているんだ」 正に絶妙のタイミングで入ってきたのは主将である屑桐だった。 入ってきたなりの第一声は、当然と言えるだろう。 マネージャーと一年エースが床にはいつくばっている背中を見れば、問いかけないでいられる方がこっちとしても寒い。 落ちている物は丁度私たちの体の影で見えなかったのだから、尚更だ。 「いや、先輩が…」 「あはは、慌ててひっかけて鞄の中身ぶちまけちゃってさ。御柳が手伝ってくれてたの」 この言葉に嘘は無い。 けれど、私がそんなに慌てたということは屑桐にとっても意外な言葉であって。 御柳と同じように不審な目を向けたけど、こちらは何も言わずにいてくれた。 「全く、何をやっているんだ。御柳、ご苦労だったな。お前は帰っていい」 「いや、俺……」 何かを言おうとした御柳だったが、屑桐は無言のまま眼で威圧した。 言葉に詰まった御柳は、そのまま言葉を飲み込んですごすごと帰って行った。 残った私たちは、無言のまま作業を終え、部誌も書き上げて部室を出た。 かかった時間は10分ほど。 その間、私たちに会話は無かった。 必要無いのだ。 仲が悪いとか機嫌が悪いとか、そういうものでは無く。 何も言わなくても構わない。無言が重く無い。 それが私たちの関係だった。 言いたいことは同じだし、それに返す言葉も同じ。 ならば何も言う必要は無いのだ。 何も言わなくても通じ合えるとまではいかなくても、私たちは確かに通ずるものがあった。 けれど、今日は珍しく屑桐が口を開いた。 随分思案していたらしく、声がかけられたのは学校を出て5分以上歩いてからのこと。 意を決したように出てきた言葉は、やはりと言うべきか、私が考えていたのと同じことだった。 「気に、しているのか」 「明日の試合?」 「ああ。それと……ヤツを」 「…………うん」 重要な単語はこれでもかってくらい抜けているのに、とても自然に成立する会話。 だから私たちはこうやって一緒に歩いてこれたのだ。 気にならないはずがなかった。 明日の練習試合。相手校は十二支。牛尾御門の率いる…。 どちらかが勝てば、どちらかが負ける。 それはそのまま、夢の成立へと直結している。 中学三年の時。牛尾の進路を聞いた私はとても驚いた。 十二支は確かに伝統ある学校だけど、最近の実力不足は眼に見えて明らかだった。 そんな廃れた学校へ行くよりも、もっと牛尾に相応しい学校は、チームは、他にもあったはずだ。 何より、彼と屑桐が違うチームにいるなんて考えたくなかったのだ。 同じチーム内で、彼らは良いライバル関係を築いていた。 タイプは全く違うし家庭の事情なんて正反対も良いところだったけど、彼らは意外に気が合っていた。 屑桐、牛尾、そして私。 三人でいることが当たり前で、あの空気がとても心地好くて。 だから、当然高校でも同じ毎日が続くと思っていたのだ。 牛尾が十二支を受けると言い出すまでは。 屑桐も牛尾も、一度こうと決めたら決してそれを曲げることはしない奴らだ。 必然的に、そこで選択を迫られることになったのはまだ進路を決めていなかった私だった。 三人同じ高校へ行くものだと思っていた私に突きつけられた選択肢。 二人とも、来いとも行けとも言わなかった。 私が全く違う第三の学校へ行くと言っても止めはしなかっただろう。 そして、そうしていればどちらも応援できた。 甲子園へ行けるのは、きっとこの二人のうちどちらかを有する学校だという確信が私にはあった。 この二人が、華武や十二支以外の学校を選んでいたとしても、きっとそうなるだろうという。 なぜって、彼らは私が知る限り最高の選手だったから。 最終的に、私は華武を選んだ。 どちらが甲子園に近いかを考えたわけじゃない。 どちらの方が好きだなんて、そんなことを考えたわけじゃない。 けど、それは多分必然だった。 選択肢を突きつけられた時はあんなに焦ったのに、私の口は驚くほどするりと華武の名前を告げていたのだ。 あの時の牛尾の顔は今でもよく覚えている。 「勝つんでしょ」 「ああ」 屑桐の努力は私が一番知っている。 中学の頃から、弟たちの面倒を見ながら家計も支えて。 バイトの最中すらもトレーニングの一環にして。 どんな時だって、彼は努力を怠ることはしなかった。 牛尾も見た目に反して努力の人間だ。 けど、気迫が違う。屑桐の、何に対しても死ぬ気で望む姿勢の前には、牛尾のそれはまだ足りない。 その差はおそらく生まれ育った環境なのだろう。 誰よりも恵まれた環境にいる牛尾と、現代では考えられないような苦境を越えてきた屑桐との。 普通なら恵まれている牛尾の方が上を行くものだろう。トレーニング内容だって充実しているし、何人もの専属コーチや最高の設備。 だが、そんなものは一切無い分、屑桐は自らの力で全てを乗り越えてきた。 結果、最強のピッチャーと呼んで差し障り無いだけの選手ができあがった。 同じ苦境にあったとしても、屑桐以外の人間ではこうはならなかった。 断言しても良い。屑桐だからこそ、マイナスをプラスに変えることができたのだ。 だから、私の言う言葉は「負ける気は無い」ではなく、「勝つ」のだと、そうなるのだ。予想でも希望でもなく、事実だと知っているから。 牛尾がどれだけ野球が好きで、そうとうの努力をしているかも知っている。 それでも勝つのは屑桐なのだ。 「……良いのか」 「今更」 「そうか」 やっぱり私たちの間に、会話なんて必要無い。 否、まともに男女の会話にはならないのだから、あまり言葉を交わすべきでないだけなのかもしれない。 けど、それだけで十分だった。 明日への杞憂を吹き飛ばすのも、気合を入れるのも。 「せんぱーい!屑桐せんぱーい!」 遠くから聞える声に揃って顔を向けると、元気良く手を振っている録と、その横で突っ立っている白春が見えた。 顔を見合わせて苦笑してやると、屑桐は仏頂面のまま顔を背けて後輩たちの方へと歩き出した。 彼らが今の私たちの仲間。かけがえの無いチームメイト。 昔は昔。それもまた大切な元チームメイトなのだけど。 時は流れる。録も白春も御柳も、大事な弟みたいな奴らだから。 前を向いて歩こう。 隣を見れば、いつだってむすっとした顔のコイツがいるのだから。 放課後の人気の無い部室が好きだったのは、中学の頃からだった。 不必要なほどの干渉は無く。完全に一人だと、この世に一人だと思うほどに遠いわけで無い、あの微妙なバランス。 今では一人の時か屑桐とだけしか味わえないけど、あの頃はもう一人私の空間を邪魔しない奴がいた。 もう同じ空気を共有することは、できないのかもしれないけど。 ******************************** 書きたかったことの半分も書けていないけれど。 屑桐に恋愛要素を絡めようとすると、ちょっとしたことでさえ キャラが違う気がしまって不可能でした(苦笑) テニプリは他校派なのに、ミスフルはなかなか他校に走らなかったなぁ。 これが初のまともな他校かしら。 鳥居兄や録、白春も大好きなのですよ。 ’03.11.8.up |