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子供の頃、父に貰ったものと言えば たった一度きり 5歳の誕生日に貰った 私と同じ年の白い羽の少年ただ一つだけだった 壁にこびりついたしみを見て、彼女は眉間を寄せた。 すでに上から何度も重ねられた赤いべっとりとしたそれは、もはや嗅覚すら麻痺させてしまうほど見慣れてしまった。 彼の部屋としてあてがわれているそこは、部屋と言えば聞こえは良いが、実のところ拷問部屋に相違無かった。 体の自由を奪う鎖。 逃げ出すなどと考えさせないように痛めつけるための拷問具。 窓と言えば、鉄格子をはめた小さな通気口ただ一つ。 自分ならいくらもしないうちに気が狂っているだろうと思えるようなその場所で、それでもその彼は生き続けている。 彼女の元へ来た日から、今までの10年近くをずっとそこで。 彼にしてみればもう慣れたものなのだろう。 日の差さないそこのじっとりした空気も。そこで与えられる質素を通り越した残飯のような食事も。不条理に与え続けられる痛みすらも…。 鍵を開けて中に入ると、二つの鋭い光がこちらを見ているのがわかった。 彼のいつもながらの挨拶だ。 大抵の者ならそれだけで萎縮してしまうだろうその視線を軽く受け流し、は彼に近寄った。 傍に跪き、傷だらけの腕に手をかける。 彼は何も言わなかった。 ただされるがままに任せ、それでも何かあった時のために絶えずその気を張り詰めていた。 「…明後日、ですって……」 「ああ………」 父からの伝言を伝えると、彼は静かに頷いた。 命令ならば従うだけだ。 自分は奴隷で、それ以外に生きる道も生きている証も無いのだから。 力こそ全てのこの世の中で、それでも自分の力を誇示できずに死んでゆく者たちが多いことを思えば自分はまだ運が良いほうだと彼は思っていた。 悪運、とも言うかもしれないが。 生まれた時から教えられたのは、ただ力をつけること。命令に逆らわないこと。 それだけだ。 金持ちの道楽の道具だとしても、命令通り勝つことさえできれば問題ない。 生きてゆくのは何て簡単なこと。 ただ、生きてゆくだけなら。 「………なんだ」 なのに、どうしてなのだろう。 目の前の少女は、いつもそんな彼をとても辛そうな表情でみつめるのだ。 特にそう。今のように次の闘技会の日程を伝えにくる時は。 彼の問いかけに、は答えなかった。 これもいつも通りだ。 今にも泣き出しそうな顔をして、下手をすれば自分が死んでしまいそうなはかなさを見せる。 死地へ赴くのは少女ではなく男の方なのに。 一つ深いため息をつくと、彼女は顔を隠すように頭をたれた。 言いにくいことがある時の彼女のくせだ。 最近は特に頻繁に見られるようになった気がする。 気の弱い彼女の、唯一の防衛方法。 「……仁は…怖くないの?」 震える声で、この時初めて彼女はその問いに言葉を返した。 長年このやり取りをしているが、それに答えた試しは無かった。 仁自身、既に答えを貰えるとも、欲しいとすら思っていなかった。 驚いてを見ると、彼女は相変わらず気の弱そうな態度で、けれど意志だけはしっかりと瞳に宿して自分を見つめていた。 「…怖い?何がだ」 「………」 「おい」 また答えるのを躊躇う彼女に、今度は逃げ出すなと言わんばかりに腕を掴む。 初めて答えようとしている彼女。 今を逃せば、二度と聞くことはできない気がした。 「答えろ」 静かだが重々しい仁の言葉に、はおそるおそる言葉にした。 「闘技会…。負ければ死ぬだけの、それだけのルールの中で生きること……」 何を馬鹿な、と。思ったが口には出さなかった。 彼女はとても弱い女だった。 父の身分がなければとっくに罪に問われていただろうと確信を持って言える程に。 そんな彼女にしてみれば、死地同然の場所へ、命令とはいえ喜んで赴く彼の気持ちは計り知れないことだろう。 少し考えて、言葉を選んだ。 「行かなきゃどのみち殺される。同じことなら自分に良い方を選ぶ。それだけだ」 「………」 答えはわかりきっていたのだろう。 は表情を変えず、じっと彼を見続けた。 「……私が、貴方の主人よね」 彼女の言葉に仁は眉を潜めた。 今まで一度だって、彼女がそんなことを口にしたことは無かったからだ。 驚いた彼に、はもう一度はっきりと確認した。 「貴方の主は、父様じゃなく、私よね」 確かに仁の主はこの目の前の少女以外にありえなかった。 買われてきたあの日から、ずっと。 けれど、そうと認識したことは少なかった。 何せはこの通り気も弱く、また仁を奴隷として扱うこともしなかったから。 だから、闘技会へと出場させ自分の利益のために使役している彼女の父親の方がよほど彼の主人たりえた。 彼の働きは彼女の父親に膨大な利益を与え、父親も仁を手放さなくなっていた。使い捨ての駒でも、使い勝手が良い方が良いのは当然だ。 しかしそれでも彼の直接の主人はだった。 未だかつて見たことのない彼女の剣幕に気おされつつ、仁はゆっくりと頷いた。 その答えに満足したのか、彼女は意を決したように言った。 「……決して、死なないで。不当に傷つかないで。 これは……命令よ」 唐突な命令に面食らって、承諾の言葉すら出なかった。 信じられないものを見るように彼女を見、それが冗談で無いことだけは認識できた。 「何だ、突然」 「………」 あまりにも当たり前な命令だけど、当たり前すぎて疑問を持たずにはいられなかった。 闘技場は賭博場。 莫大な金が賭けられ、負ければ自分には死が、主には莫大な損益が約束されている。 だからこそやっきになって黒き羽の権力者たちは強い奴隷を求めるのだ。 その血すら自らの意志でかけあわせて。 勝たなければ全てを失う戦い。 それに勝てと、わざわざ念を押されるまでも無い。 事実今まで彼は無敗を誇ってきたし、だからこそ今こうして向かい合って話をできるのだ。 「…死なないで、お願い。これからも、ずっと一緒にいて…。 私が頼れるのは、信じられるのは貴方だけ。 この家でいて、貴方といた時間だけが私にとって本物だった……」 ぎゅっと、自分のスカートを握り締めながら搾り出すように口にする。 誰かに聞かれれば、いかに彼女の身分でも間違いなく牢獄送りとなるだろう。 黒き羽の高貴なる身分で、白き羽の下賎なる者にそんなことを言えば法律に引っかかるのは言うまでもないことだ。 今度こそ心のしんから驚いた仁は、ただ彼女を見つめるばかりだった。 その視線は『正気か?』と問いかけていた。 それを受け止めるように、彼女は無言のままこくりと頷いた。 黒き羽の人間にとって、家族を繋いでいるのは体に流れるその血のみ。 心という不確かなもので繋がってはいなかった。 高貴な家柄になればなるだけ、その傾向は強い。 彼女の家はまさしくその典型だった。 同じ家にいても、すれ違ってすら声を掛け合うこともしないでどうして家族と言えるだろう。 子供ながらに…いや、子供だからこそ暖かい感情を求めていた彼女が唯一それを感じられたのは、この奴隷である彼といる時だけだった。 彼だって、そんな感情を持っているわけではない。 けれど、彼だけは思うまま、心のままに接してくれていた。 裏に何も隠さずに接してくれたことが、彼女にとってどれだけの救いだったか、彼には考えも及ばないだろう。 『友達』『恋人』 今では死語とされているそれを、彼が教えてくれた気さえした。 それは完全に一方的なものであったが。 すがるように見つめる彼女を突っぱねることはできなかった。 なぜかはわからない。 いつもの彼なら、他の者に対してなら一笑に付していただろう。 けれど。 幼い頃から主として仕えてきたこの少女は、どこか他人と違って扱い辛かった。 「無茶……言いやがる」 しばらくして、彼は苦笑交じりに呟いた。 え?と表情を動かした彼女を引き寄せ、そのたくましい胸に押し付けるように抱きかかえた。 「死に物狂いはどいつも同じだ。誰だってわざわざ怪我してぇなんて思ってねぇよ」 「……あ、うん…」 明日をも知れぬ身は誰もが同じ。 そこにある違いは力の差によって決定される、勝者と敗者という単純明快な図式のみ。 「…俺だって、むざむざ殺されんのはごめんだ。無様な試合したって鞭で引っ叩かれんのもな」 ニヤ、と笑うと彼は自分のすぐ下から見上げる小さな双眸に向かって言い放った。 「掛け金、倍にしな。損はさせねぇよ」 「仁……」 負ける気は無いが、別段勝つ気は無かった。これまでは。 死ぬまで続くくだらない道楽に付き合わされるのと、今すぐ死ぬことにどれだけの違いがあるかわからなかったから。 けれど。 自分の死を望まない者が。 生き続けることを望んでくれる者がいるのなら。 それが自分にとって一番身近な者…それも、主であるのなら。 この少女のためなら、自らの意志で生き抜いてみるのも悪くない。 仁は今まで生きてきて初めてそう思った。 ふいに唇に暖かな感触があった。 すぐになくなったそれを彼の口付けだと感じる間も無く、は彼の次の言葉を聞いた。 「…前借だ。それと、次勝ったら少しは俺の扱いマシにしろ。いいな」 彼の行動と言葉の両方を理解するには少々時間を要した。 ようやく意味がわかった時には、彼女は真っ赤になって壊れた人形のようにこくこくと首を縦に振るばかりだった。 2日後、闘技場にて今までにない一方的な殺戮が行われるのは想像に難くない。 ******************************** オチに救いがあるんだか無いんだか(寧ろ無い/爆) なぜに亜久津か。 剣闘士奴隷の設定を聞いて、 まず浮かんだのが亜久津だっただけなのですが。 他に誰って浮かばないよ。跡部様はむしろ賭ける方で(をい) 何だかもう、B/Mパロは救いのある話が出てこなくて困ります。 どうもオチが…。 それでも楽しんでくださっている方々、ありがとうございます。 ’02.10.15.up |