ボールカゴは、一見して受ける印象以上に重い。 何十個のボールを一度に運ぶのだ。生半可な力では到底できることではない。 だが、それも2年以上続けていれば嫌でも必要な筋力はつくわけで、今ではこの程度で泣き言を言い出す後輩を叱り飛ばしてすらいるのだった。 「てか、先輩…これ、マジ、重いんス…けど……」 息も絶え絶えなのか、一つ一つ言葉を区切りながら訴える荒井に向けたのは冷たい視線一つ。 腕をぷるぷるさせながら下半身を何とか据えて頑張っているのだが、その歩みはあまりに遅い。 私はそんな後輩に容赦なくぴしりと言った。 「その程度も持てないようじゃ、レギュラーの座は程遠いね」 「うぐっ…」 この一言はどうやら彼の心の臓付近をもろに突き刺したらしく、変な声を挙げて押し黙った。 多分その腹の中では「先輩なんて女じゃねー」とか「怪力女」とかいう言葉が渦巻いているのだろうけど、そんなものに構ってなんかいられない。 コイツのペースに付き合ってたら普段以上の時間がかかりそうなので、さっさと見捨てて行くことにした。 ちなみに、私と荒井の持っているボールの量はほぼ同じだ。適当にカゴに放り込んであるだけなので正確な数では無いが大差ない。 なのに私は平然と話しているのに荒井は息切れを起こしているなんて、荒井が情けないだけだと思う。 もっとも、そんなことは私が口に出さなくても本人が一番痛切に感じていることだろうから、これ以上を追い討ちをかける気は流石に無いが。 さっさと自分の分を置いて、引き返して交代した方が絶対早い。 荒井にしたって自分の練習を始めたいだろうし。 なので、私は普段以上のペースで歩き出した。 その分荒井が余計にヘコむかもしれないが、そんなの私の知ったことじゃない。 これをバネに更に向上心が育まれるというならそれもまた願ったりだ。 後ろを振り向かずに歩いていたが、その背中に痛いほどの恨めしい視線を感じた。 …私を恨まれても困るんだけど。 フェンスの側までくれば、自然に視線はそちらへ向く。 練習前、特に手塚が来るまでは皆のびやかなものだ。 雑談に興じたり何やらドツキ合いをしてみたり。 少年たちらしいやりとりは、見ていて結構楽しい。 その中で、目についた集団。 真ん中には桃がいて、中には越前や赤月、林や池田なんかがいた。 桃は豪快かつ単純で、そのくせ気のつく奴だから自然と人が集ってくる。 ムードメーカーって言葉がぴったり。 一年の時から十分リーダー格だったけれど、進級してからは更に拍車がかかっていた。 スーパールーキーと名高い越前や赤月とは特に気が合うらしく、そのせいもあるのかもしれない。 以前にはなかった先輩らしさや落ち着きが出てきた。 いい傾向だった。 「やだな、桃城先輩ってば」 「んだと、こるぁっ」 「あはははは」 「……煩いし」 高い笑い声がコートに響く。輪の中で紅一点の赤月のものだった。 話題が盛り上がったらしく、周りの皆も爆笑している。唯一越前だけが呆れたように帽子のつばに手を触れていた。 赤月の首に腕を回し、頭を小突く真似をする桃。 悲鳴をあげながらも逃げようとするのはフリだけで笑い続ける赤月。 心底楽しそうで、他の皆のことも笑顔にさせる。 「………」 先輩と、後輩……か。 間違っても私じゃああはできない。 というより、先輩相手にそんなことをするなんて無礼千万。 いくら桃だってできることとできないことがある。 私だって、実際桃にそんなことをされたら怒るだろう。 けど、何だろう。 ちょっとだけ、羨ましい気がした。 「せーんぱいっ。ケツ乗ってきません?」 ちりりんと自転車のベルを鳴らした桃が後ろから声をかけてきた。 部室に鍵をかけた、絶妙のタイミング。 とっくに部活が終わって皆帰路についているはずのこの時間だから、当然待っていてくれたのだろうけど、そんなこと微塵も感じさせない。 他人に負担を与えない。 一見何も考えてなさそうなのに、こういうことが自然にできる桃は凄いと思う。 二人で過ごすことができるのは、この時間だけだった。 学年が違うと授業の間はどうにもならないし、休み時間なんて潰しても無駄と思える程度にしか時間はとれない。 部活は勿論テニス漬け。 そうすると、残るのは登下校の時間だけだ。 約束なんてしてないけど、桃は必ず私の仕事が終わるのを急かすこともせずに待っていてくれた。 「今日の荒井の不調、先輩のせいだってホントっスか?」 面白そうにくくっと笑いながら聞いてくる桃。 あの後、最初はすぐに戻って受け取るつもりだったのに、手塚に次の用事を頼まれてしまって行ってやることができなくなってしまったのだ。 おかげで道のり全て休憩無しでボールカゴを運ぶはめになった荒井は腕力の限界だったらしく、練習は散々だった。 大石くんに怒られても文句を言うに言えず、情け無い顔をしながら何とかメニューをこなしていた。 「自業自得だと思うけど。単なる力不足」 アッサリ言うと、桃も苦笑しながら頷いた。 「いつも先輩が運んでる量ですもんね。確かに情けねーな、情けねーよ」 ああ、やっぱり。こんな些細なこともちゃんと見ている。 私のことだけじゃなく、例えば英二が新しいシューズが足に馴染んでなくて動きが悪かった時とか。 池田が落ち込んでたのは昼に欲しいパンが売り切れてたからだとか。 そんなちょっとしたことでも、桃は気付く。それだけ周囲をよく見てる。 乾くんが桃をくせ者だと言ってたけど、少し違うと思う。 ただよく気がつくんだ。そして、それをどう対処すべきか的確に判断ができる。 その結果、一番効果的な攻撃方法に転じることができている。 それだけだと思う。 もちろん、その『それだけ』こそが難しいのだけど。 心の中で密かに感嘆しているなんてことは流石にわからないだろう、桃は次から次へと面白い話を提供してくれた。 私もそれに答える。 二人で笑い合いながら歩くこの帰り道は有意義なものだった。 そんな話題の中に紛れ込ませるように、さりげなく桃が聞いてきた。 「で、先輩の不調の原因は何ですか?」 「は?」 何気ない会話の間だったから、一瞬言葉の意味がわからなかった。 しかし、理解しても同じことだった。不調なんて心当たりがない。 ちょっとドジは多かったかもしれないが、大したものじゃない。 首を捻っていると、桃は言いにくそうにしながらも口にした。 「いや、そんな気ぃしただけなんスけど。…赤月とじゃれてたの、気にしてます?」 言われて、少しそんな気がしないでもなかった。 あの後ボールを運んですぐに手塚が来て、だから荒井のところに戻れなかったのは当然なんだけど、冷静に思い返してみれば誰かに言付けて手伝いにやらせても良かったのだ。普段の私ならそうしていたはずだ。 なのに、思考がそこまでまわらなくて、言われたことをそのままにするだけで精一杯だった。 少しばかり、胸にモヤモヤしたものがひっかかって。 丁度桃たちが騒いでいた直後だったことを考えれば、多分それがきっかけ。 直接的な原因では無いけど、赤月にヤキモチ焼いたとかじゃなくて…。 「少し、間違い」 慎重に言葉を選びながら、私は自分の気持ちをじっくり考えてみた。 気にならなかったと言ったらそれは嘘だ。 羨ましいと感じてしまったのは本当だし、それを否定する気はない。 ただ、ヤキモチかって言えばそうじゃない。 そうじゃなくて…。 「桃の後輩って、いいなぁって」 「はぁ?」 案の定、桃は素っ頓狂な声を挙げた。 素直にヤキモチ焼いてたなんて言うわけが無いとは思っていても、この妙な答え方は予想外だったのだろう。 「あれは、赤月とだからできるんでしょ。赤月っていうか、後輩に対して。私は桃にとって先輩だからそういうのはできないだろうし、して欲しいとも思わないんだけど……」 自分がそうして欲しいっていうのとも違う。 これって単語は見当たらないけど、心のどこかにある羨望の気持ち。 「桃が先輩だったら、楽しいだろうなって。そういう感じかな…」 我ながら馬鹿なことを言ってると思う。 生まれた年は変わらない事実で、どうにもならないのに。 桃に後輩扱いして欲しいわけじゃない。ただ、『最初から』『後輩だったら』もっと違う関係ができていたんだろうなと思うんだ。 面倒見の良い桃だから、傍から見ていても先輩として凄く馴染みやすいってことはよくわかる。 誰より人懐こく見える英二よりも、もしかしたら。 英二の場合は精神年齢が同じだけとも言うのだし。っと、失礼。 女が年上だってことを気にしてるわけじゃないけど、時々。 時々、誰かの何気ない一言が刺さることがある。 小鷹のまっすぐなところが可愛いとか。 赤月の負けず嫌いがいい刺激になるとか。 後輩だからこそ貰える言葉。 私だって後輩だった時があった。誰もが同じだ。 去年や一昨年は、私も先輩方からそんな風に言われたことがなかったわけじゃない。 ただ、私が後輩である時、桃はいない。 桃から見て私はいつだって先輩だから。 絶対に実現しないことを思っては、赤月たちが羨ましくなったりする。 「せんぱ…」 「くだらないとか言うの禁止」 「………」 先手を制すると、言葉を失ったみたいに黙った。図星らしい。 くだらないってことは自分でよくわかってる。 荒井が今日、ボールカゴ一つ運ぶことに関して情け無さを噛み締めていたみたいに。 自分でわかっていても、他人に指摘されたくないことはある。 だからこそスッキリしない。 桃はしばらく考えていたようだった。 普段意識しては使わない脳みそを酷使して。珍しく悩んでいるっぽい表情は面白かった。 意識しなければフルに使えるのに、意識すると途端に仕えなくなるなんて厄介な頭脳だ。それも桃の持つ一つの才能なのだけど。 うんうん考えた後、桃はぽんと手を打ってニっ、と笑顔を向けた。 企みを思いついた子供のような表情に、ちょっと眉を寄せる。 でも、フリだけだ。桃がこういう顔をする時、くだらないことであっても大抵は周りの人間を楽しませてくれる。 だから私は顔をしかめながらも、少し期待して待っていた。 桃は腕をぬっと伸ばすと、その大きな手でわしゃわしゃと私の頭をかき混ぜた。 撫でるなんて可愛いものじゃない。 髪の毛をぐしゃぐしゃにして、まるで犬でもがしがしと触ってるみたいだ。 さすがに私も抗議の声をあげた。 「ちょっ、桃!髪!ぐしゃぐしゃんなるって!」 「へっへっー、どうせ誰も見てやしませんって」 「桃がいるしー!」 「おう、オレの特権っス」 「ワケわかんなー!」 やめてくれと喚くが、一向に効果無し。 面白そうに笑いながら私の頭をかき混ぜ続ける。 何とかその手を止めようと私も手で応戦するが、敵はなかなかにウワテだった。私の抵抗なんてものともせずに攻撃の手を緩めない。 「先輩ってばもー、オレにラブラブなんすから」 「誰がっ!」 「照れなくていいですって。ホラ、お望み通り甘えていいっスよ」 「甘えっ……!?」 あぁ、そうか。 そういえばこれ、桃がよく赤月や越前にしていた。 私は横目で見ながら苦笑しているだけだったけど、ちらりと見ていたこと、桃は知ってたんだ。 十二分に頭をぐちゃぐちゃにしてからようやく手を止めた桃は、じっと私を見て堪えきれずに吹き出した。 「ぶっ…せんぱっ、ぷぷっ」 誰のせいだと言う気にもならず、そっぽを向いて抗議に代える。 その間に、少しでもマシになるように髪を束ねていたゴムをするりと抜いて手櫛で軽く整えた。 桃はまだこみ上げる笑いを必死に押し殺しながら、横を向いた私の頬をむにっとつまんで自分の方へと向かせた。 「後輩には後輩らしい、同輩には同輩らしい付き合いってモンがあります。 けどね。先輩としかしない付き合い方っての、あるでしょう?」 あんな馬鹿やった後なのに、それでもまっすぐな瞳に怯みそうになる。 どうしてコイツの言葉は、何も考えていなさそうで心に響くのか。 惚れた弱みなんかじゃない。 桃城武って人間が持ってる天性の才能だ。 だから私は、桃が好きなんだ。 「とりあえず、意地も肩肘も張らないで。オレと二人の時くらい、素直に甘えて下さいよ」 素直じゃないって、自分では思っていたはずなのに。 桃の言葉には人を信じさせるパワーでもあるのだろうか。 気付けば私は小さく頷いて、桃の白いシャツをぎゅっと握っていた。 ******************************** えぇっと。 今まで散々扱き下ろしておいて非常に恐縮なのですが、 桃城夢でございます。 準主役なあの扱いさえなければ 桃は嫌いじゃないので…す……(今更言っても嘘っぽい) でもちょっと誉めすぎた気はする(苦笑) ’04.2.28.up |