兄の中学からの友です。だから、私は小学校から知ってる事になります。兄とアルバイトも一緒やったし、旅行も行ってました。私が20代後半、家で小・中生を少人数教えてた頃、社会人バスケットの応援に来いと言われてて、行かへんかったら、急に車で家に来て「美子、応援に来てくれ」って、中央体育館に連れて行かれた。そこでは、観客席でKOZUクラブの人等が着替えてた。うそ〜、こんなとこで着替えてるって、びっくりした。でも当たり前のことらしい。そこで内田さん一言、「マネージャー連れて来たで」私(心の中でげ〜〜ぇ)はびっくり通り越して、しらん人等の中で「違います、違います」って必死で言ってた。でも、誰も聞いてへん。内田さんかまわず、「しの、美子にスコアーブックの説明したって」「いいです、いいです」って言っても、「しの」と呼ばれた人が何も聞いてない見たいにスコアーブック持ってきた。バスケのルールどころかスコアーブックの付け方?何?訳のわからんまま押し切られて・・・。トホホホ。でも、内田さんの一言で、送り迎え、ビール付やった。良い仲間の中でお姫さん印もろたみたいに、みんなに大事に、ほんまに大事にしてもらった。古墳見学、スキ−(初心で上でほったらかしされた)とみんなと一緒に連れてもろた。私の人生変わった。内田さんのお陰やわ。幅広い道歩かせてもろた。まさかと思ったけど、最初にスコアーブック持ってきて説明した「しの」と結婚してる。娘が「内田のおっちゃんいなかったら、私ら生まれてなかったん」ごもっとも!その内田さんももう居ない。泣いた、いっぱい泣いた。出かけらへんし、ペンもてんし、PC始めて内田さんとサヨちゃん宛に手紙書く事しか何もできんかった。私が入院中、サヨちゃんときて、「美子、見とけ。僕は負けんで」って言って、ほんま2年も頑張った。サヨちゃんも必死やったと思う。私が病院行ったら、凄い足になってた。あ〜〜ぁと胸が詰まった。病室で泣けへん決心したから。動かん身体で、私があるけんようになったら俺が車椅子押したるって言ってくれた。もう、泣く寸前やった。
病室でたらもう泣いてた。サヨちゃんが出てきて抱いてくれた。いっぱい書いた手紙も内田さんとこ入れてくれた。サヨちゃんが、「美子ちゃん、他人さんで名前呼び捨てにするん、美子ちゃんだけやねんで」って言ってた。ほんまに、小さい時から、叔母の木工所でバイトしてる時も私も一緒やった。大事に、大事にしてもろて、私の世界を広げてくれた人です。もっと生きてて励まして欲しかった。今はサヨちゃんと子供達が優しくしてくれる。恵まれてる自分を幸せに思う。
内田さん、ほんまにありがとう。見てて、頑張るから。
            2003年8月25日 美子
サヨちゃん、代わりに見ててな。
力かしてな。いつもありがとう。

アレックスも病気と
戦ってる。えらいなあ。頑張れ、アレ!

KOZUクラブは高校のOBの社会人バスケットクラブで、私はここで育
てて貰った。人は幾つになってもいい環境の育ての親がいると思った。
KOZUクラブと尼伊の人達が居なかったら病気した後の私は絶対今のよ
うにはなってないはず。ほんとに、ほんとに感謝している。   美子