前方後円墳の築造年代
―箸墓古墳の年代を推定する―
個々の前方後円墳がいつ頃築造されたものなのか、という問題に対して現在のところ明快に答えられるまでには研究が成熟していない。ただし、考古学における研究がずいぶん進歩し、昔に比べるとある程度までしぼり込んで築造年代を推測することが可能になったのも事実である。年代推定の根拠になるものとして、墳丘の形態、埴輪、埋葬施設の様相(石室や棺の様相など)、副葬品(鏡など)があるがどれも決定的ではなく、全体からみた総合的な印象によって年代観が形づくられているのが実情である。
一方、明確な年代の基準になる可能性のある古墳は陵墓古墳(天皇陵など)であるが、これも問題を含んでいる。たとえば、仁徳天皇陵といわれている古墳が本当に仁徳天皇の墓なのかということについて確たる証拠がないという見方がある。さらに、日本書紀や古事記の伝える仁徳天皇の崩御年(399年や427年)が本当なのかどうかという根元的な問題もある。
本ホームページの原資料になっているコンピュータ考古学の立場で箸墓古墳をとりあげ、その年代観について紹介する。
上に述べたような不確かさの多い状況の中で一定の年代観を得るためには、いくつかの仮定と推論が必要になる。何を仮定し、何を推論したかを明らかにすることが学術的にみて最小限必要なことなので、まず仮定としてつぎの三点をおく。
(1) 崇神天皇(10代)は実在した天皇である。
(2) 箸墓古墳が女性墓として崇神天皇の在位中に築造されたという日本書紀・崇神紀の記述は信用できる。
(3) 箸墓古墳は最古の巨大前方後円墳である。
つぎに、崇神天皇以後の天皇の崩御年を数理統計的に推論する。この推論についてくわしくは本ホームページ「コンピュータ考古学に関する文献」29および31を参照されたい。さて、数理統計的にみちびかれた崇神天皇以後、推古天皇までの崩御年を一覧表にしている。
天皇諡号 | 記紀崩年 | 推定崩年 |
崇神天皇 | 318 | 364 |
垂仁天皇 | | 374 |
景行天皇 | | 383 |
成務天皇 | 355 | 392 |
仲哀天皇 | 362 | 401 |
神功皇后 | | 410 |
応神天皇 | 394 | 420 |
仁徳天皇 | 427 | 429 |
履中天皇 | 432 | 439 |
反正天皇 | 437 | 448 |
允恭天皇 | 454 | 458 |
安康天皇 | 456 | 468 |
雄略天皇 | 479 | 477 |
清寧天皇 | 484 | 487 |
顕宗天皇 | 487 | 497 |
仁賢天皇 | 498 | 507 |
武烈天皇 | 506 | 517 |
継体天皇 | 531 | 527 |
安閑天皇 | 535 | 537 |
宣化天皇 | 539 | 547 |
欽明天皇 | 571 | 558 |
敏達天皇 | 585 | 568 |
用明天皇 | 587 | 578 |
崇峻天皇 | 592 | 589 |
推古天皇 | 628 | 600 |
詳細は省くが、崇神天皇の崩御年の推定値(推定崩年)は一覧表にみえるように364年である。つまり、早くとも4世紀中頃と推定される。一方、仁徳天皇の推定崩年と古事記崩年はほとんど差がないことも注目にあたいする。
推定崩年の視点からみれば、上記の仮定(2)から、箸墓古墳の築造年代は早くとも4世紀前半〜中頃あたりと考えなければならない。卑弥呼が3世紀中頃に没したとすると、およそ100年の開きがあることになる。こうなると箸墓古墳が卑弥呼との墓とはとうてい考えられない。
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