第2夜 「アンアンにこだわる男」 (超短編)
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タイトル
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冬夜が局から自宅のマンションに戻り、玄関の鍵を開けて中にはいると、いつもは蒸し風呂のようになっている部屋が涼しかった。季節は7月を過ぎたばかりだったが、温暖化が進んでいるせいで初夏のさわやかさなど無い。日中は真夏のような太陽が地面を照らしていて、当然、熱された空気は日が落ちた後も空気を冷やさず、ムッとした湿気と共に世間の人達の不快指数を上げていた。
同時に、締め切られた部屋は家主が帰るまでの間にサウナと化すのだけれど、今日に限っては違った。
朝、出かけるときにクーラーを切り忘れたのだろうかと冬夜は一瞬考えたが、それはタイマーになっていて毎日同じ時刻に切れる筈だ。
機械の故障かな?
不審に思いつつ、玄関で靴を脱ごうとした冬夜は、見知らぬ靴を見つけた。
「……あ……青柳くんが帰ってるのか?」
まさかと思ったが、朝無かった靴がここにあると言うことは、そうとしか考えられない。
「青柳くんっ!帰ってるのか?」
慌てて靴を脱ぎ、冬夜がリビングの方へ走ると、ソファーの上に身体を伸ばして青柳が眠っているのをみつけた。いかにも自分が家主のような顔をして、青柳がスースーと寝ている姿をみた冬夜は、その姿をどう受け止めて良いか分からない。
「嘘だろ……」
あまりにも驚いた所為で、冬夜は青柳の眠るソファーの真横でへたり込んでしまった。気が抜けたような、腹立たしいような、奇妙な気分だ。
本当に突然帰ってきた……。
何となく予想はしていたが、これほど唐突に帰ってくるとは思いも寄らなかったのだ。普通なら電話やメール、青柳の性格では考えられないが手紙という連絡方法もある。手段はいくらでもあったのだろうが、青柳はどれ一つとして選ばなかった。
「……君にはいつも驚かされるよ……」
小声で冬夜は呟くと、久しぶりに見る青柳をじっと見つめた。数ヶ月前、パリに戻っていった時よりも少し日に焼けている。栗色だった髪が、今度は金髪に染められていて、髪は冬夜が覚えている長さよりも短くなっていた。
それでも相変わらず彫りの深い顔立ちだ。これほど整っていただろうかと思うほど、冬夜には青柳が格好良く見えた。
こうしてみると、自分の方が子供に見えてしまうのだから不思議だ。もちろん、冬夜の顔立ちはどちらかと言えば童顔であるから、年下である青柳が大人びて見えるのも仕方ないのかもしれない。
本当に帰ってきてくれた……
最初は驚いたものの、冬夜は今度、今まで不安に感じていたことが綺麗さっぱり心の中から消えていくのが分かった。
青柳は冬夜に帰ってくると約束してくれたが、それが本当なのか、この場で見るまで信じていて良いものか随分と悩んでいたのだ。
言いたいことは全て青柳に伝えた。
だから、パリに帰ってから、連絡一つ寄越すことのなかった男に対し、冬夜はもう何も言えなかった。連絡しようと思いつつ、例の事件でひっくり返った毎日を過ごして、気が付くと一ヶ月経っていたから。
そうなると気が引けて、こちらからは何も言えなくなった。
気軽に連絡すればいいのに、冬夜にはそんな簡単な事が出来なかったのだ。
帰ってから、新しい恋をみつけたかもしれない……
冬夜があまりにも必死になっていたので、その場限りの言葉を聞かせたのかもしれない。
希望だけを冬夜に持たせ、青柳はパリに逃げることだって出来る立場だった。
もしそうだったとしても冬夜は仕方ないと、ここ最近は、諦めムードに陥っていたのだ。
仕事に対しての姿勢は青柳と出会ったことで変わった。どれほど悲惨な報道であっても目を瞑ることは無くなった。
それと恋愛はまた別物だ。
一人で考える時間が増えた所為で、色々と考えることが多かった。青柳よりも年上だという事すら、諦めたほうが良いのだと自分に言い聞かせる格好の理由になっていたほどだ。
恋愛に対して前向きになれた。
自分の気持ちを偽ることなくこれからは生きていくのだと決めた。
それでも……
一人の時間が長すぎると、人間は悪いことを考えてしまう。
青柳が連絡一つ寄越さないのだから、冬夜が後ろ向きになってしまうのは仕方ないことだろう。
「……あ? 帰ってたんだ」
フッと目を開け、目の前にいる冬夜を見つけた青柳は、ここでずっと生活でもしているかのように自然に言った。
「帰って……って……。そ、そうじゃなくて……」
青柳が帰ってきたら何を言おうと思っていたのか。冬夜はすぐに思い出せなかった。
「ていうか、連絡くらいしろよ。あ~んな告白したあんたのことだから、毎日でもラブラブメールをくれると思ったのに、ひとっつもねえ。電話もねえ。信じられなかったぜ」
不機嫌そうに青柳は言う。
「それは、き、君の方だろ?」
「責任転嫁するなよな~」
「は?僕は別に責任転嫁なんかしてないんだけ……っ!」
冬夜はいきなり青柳に掴まれてソファーに押し倒された。
「……嫌な夢を見たんだ……」
じっと見下ろす瞳は、ひどく真剣な眼差しを伴っていた。
「……青柳くん?」
「あんたが、俺の知らない奴に散々突っ込まれてアンアン言わされてたぜ。誰だよそいつ」
青柳の言ったことが理解できず、冬夜はただ瞳を見開いた。
「……?」
「……むかつくぜ。一体なんだって言うんだ」
「……それは、君の夢だよね?」
「ああ、そうだ。夢でもむかつくものはむかつくんだ」
苛々と青柳は言うが、彼の見た夢で腹を立てられても冬夜にはどう答えて良いのかわからない。いや、これではただの言いがかりだ。
「僕にどうしろって言うんだ……」
呆れた冬夜はこういうしかない。
「俺、明日の朝には戻らなきゃならない」
唐突に青柳は言った。
「え?帰ってきたんじゃないのか?」
「……正式に帰る予定は来月なんだ」
「もしかして、君が見た夢に腹を立てて、思わず飛行機に乗ったとか?」
「その通り」
何故か青柳は胸を張っていたが、冬夜には信じられない行動だった。
「……あんたをアンアン言わせていいのは俺だけだからな」
……
笑えるんだけど……
「なあ、あんた、笑ってるとか言うか?」
「いや……嬉しいんだ」
「……俺は不愉快なんだ」
「……だって、君、それは青柳くんの見た夢だろう?僕が実際そういうことをしてる訳じゃなくてさ。なのに真剣になって怒っている青柳くんが可笑しいんだよ」
たかが夢であるのだろうが、お陰で久しぶりに冬夜は青柳に会えたのだ。とすると、嫌な夢もたまには良いのかもしれない。これが逆だったとしたら余計に冬夜を落ち込ませていただろう。
その点では悪い夢を見たのが自分では無かったことに冬夜は本気で感謝した。
「笑ってる場合かよ。俺は滅茶苦茶腹を立ててるのによ……」
「そうだったね。忙しい時に来てくれてありがとう」
素直に冬夜が言うと、青柳は鼻の頭を少しだけ赤くさせて照れていた。
「あ……違う。アンアンだ」
アンアンと言われた冬夜は、青柳が何を言いたいのか分かっていても、どうしても某雑誌しか思い浮かばない。
「だから、それは君が見た夢だろう?」
「そうなんだけどな。むかつくんだよ」
本当に青柳は腹を立てていた。
「君って……」
夢を見て腹を立てることもさることながら、衝動的に飛行機に乗ってここまで来るという行動力も驚くべき事だ。
「会いたかったか?俺に……」
そして相変わらず尊大な態度。
青柳は空港で別れたときとこれっぽっちも変わっていない。
「会いたかったよ。ずっと……」
目の前の男が、それこそ夢ではないかどうか確かめるように冬夜は指先で青柳の頬に触れた。自分にはない青柳の手入れされた肌の感触が冬夜には心地よい。
「じゃあ、普通、連絡寄越さないか?」
冬夜の手を掴み、甲に何度もキスを落として、それでも青柳は眉根を寄せていた。
「したかった」
「口でいくらそう言っても、現実は何もしてないだろ。俺が変な夢を見たのもあんたの所為だぜ」
「君が僕の事を気にしてくれていたから見たんだよ。現実の僕は相変わらず仕事に追われてはここに帰ってきて、泥のように眠る毎日だったんだから……。誘惑に関してだけで言えば、青柳くんの方が多いはずだよ」
「そんなもんねえよ。俺に突っ込みたい奴がいたら逆にぼこぼこにしてやるぜ」
……
それは考えたことないんだけど……
「急いできてくれたのは分かるし、僕も素直に嬉しいんだけど、疲れただろう?拘束している手を離してくれたら、お茶でも入れるけど」
冬夜が言うと、青柳は口の端をやや上げて笑った。
「この状態のあんたを俺が離すと思ってるなんてなあ~。甘いね。腹が空こうが、喉が渇こうが、俺は自分が満足するまであんたをアンアン言わせるんだ。俺が何のために帰ってきたと思ってるんだよ。茶を飲みに来たとでも思ったか」
嬉しそうに青柳は、冬夜のネクタイを手慣れた手で解いて、はらりと床に落とした。
「青柳くん……」
まだ抱き合ってもいないのに、冬夜は想像だけで顔が真っ赤に染まった。いや、想像だけは数え切れないほどしてきたのだ。
青柳の愛撫。繋がったときの快感。頭の中で繰り返される思い出だけでは満たされることなど無いのに、身体に残された記憶を冬夜は何度も辿った。
酷い目にあわされた過去の出来事ですら、冬夜を甘く疼かせるものにしかなり得なかったほどだから、よほど青柳に触れられることを待ち望んでいたのだろう。
「会いたかった……」
自分から青柳の背に手を回して、冬夜はもう一度言った。
「朝までアンアン言わせてやるから覚悟しろよ」
青柳が言ったとおり、クーラーが全く役に立たなくなるような夜を冬夜は過ごすことになった。
―完―
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これが暑い日なのかよくわからないんだけど(汗)。まあ久しぶりの二人は相変わらずということでいかがでしょうか? |