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不退寺に残る業平伝説
伊勢神鏡…平安時代後期 散逸
本堂内陣の東小部屋には神仏習合の名残りの伊勢神宮社殿が奉安してあり、寺では「ダイジグサン(太神宮さん)」と呼んでいる。正面観音開きの扉の中に御神体の伊勢神鏡が祀られていて業平朝臣が天照大神より賜った神鏡であるという。寺伝によると、ある時業平朝臣は伊勢太神宮に参詣されたところ天照大神が現出され、「広く万民に拝せしめば、大いに利益をなすであろう」という神勅を賜り、神鏡を霊宝となし、仁明天皇の詔を奉じて平城天皇の旧殿である萱葺きの御所を改めて、承和14年(847)に佛閣を建立されたという。
当寺は鎌倉時代、西大寺の興正菩薩叡尊によって再興されたが、叡尊は釈迦信仰、文殊信仰、聖徳太子信仰、伊勢信仰に深く根ざしていた。特に伊勢信仰については熱心であったという。叡尊は伊勢参宮の度に多くの経典を神前に奉納したが、叡尊は伊勢神宮の内宮を胎蔵界曼荼羅に、外宮を金剛界曼荼羅としてとらえ、この両界曼荼羅をもって、伊勢神宮の内宮と外宮を説明している。(両部神道)
当寺の本堂は叡尊の両部神道的な思想によって建立され、伊勢大神宮の社殿を堂内に勧請されたのではないだろうか?後世、業平伝説の隆盛に伴い、寺伝のような伝説が生まれたのかもしれない。なお、伊勢神鏡は残念ながら寺外へ散逸してしまった。

舎利厨子…鎌倉時代 木造黒漆塗 重要文化財 奈良国立博物館寄託 総高19㌢
前後両面観音開き式の舎利厨子で、本体と基壇部から成っており、もとは屋根が付属していて携帯用であったと推定される。四方の扉裏には四天王の彩画が施され、内</FONT部壁板には五輪塔を形どった舎利容器が埋め込まれている。かつて、この舎利容器はプラチナで出来ていた。
この舎利容器には寺伝によると、業平朝臣の遺骨(御舎利)が納入されていたらしいが、散逸してしまった。宝暦2年(1752)の『業平之舎利粒数(不退寺文書)』には25粒の舎利が確認されている。舎利厨子の背面には、仏涅槃図と鹿に乗った春日大明神の姿(鹿島武雷命神影図)の細密画が描かれており、春日曼荼羅の形式である。この舎利厨子は舎利信仰と共に、春日信仰の流行があったことを教えてくれるものである。
伊勢物語…室町時代 根源本 雁皮紙 列帖装
平安貴族は毎日、日記をつけるのが日課であった。業平朝臣も『在五中将日記』ともいうべき日記を書かれていたらしいがまだ確認されていない。
その日記を基にして在原氏子孫の男性が業平朝臣逝去後に、業平朝臣を主人公にして様々な逸話を挿入し、約3回の編集を経てしだいに増補、修正されながら平安時代中期に成立したのが『伊勢物語』である。
当寺所蔵の『伊勢物語』は伝来不詳で奥書によると藤原定家の孫、冷泉家の祖である冷泉為相が書写した底本をさらに室町時代後期に写したもので、初冠から始まり終焉の125段で終わる根源本系の写本である。
在原業平朝臣画像…江戸時代 絹本著色 掛幅装 66×40㌢
業平画像は当寺に二幅あったらしい。現存している画像の紙背には、墨書で「天保11年(1840)修補」と記されているので、描かれたのはそれより200年以上前の江戸時代初期だと思われる。もう一幅は江戸時代の『大和名勝志』に出ているもので、鎌倉時代に描かれ、寛正4年(1463)に表具の荘厳がなされたという。構図(向かって右手で箋を握り、左手で筆を持って歌を思索中のポーズ)は今日寺に伝わる画像と全く同じで、本紙左上の色紙形には業平朝臣の略歴と『伊勢物語』第88段の和歌一首が書かれ、この部分は寺伝では第57代陽成天皇の御震筆であるという。
残念ながらこの画像は当寺が無住の時代(おそらく明治初年から昭和初年の間)に寺外に散逸してしまい、昭和13年(1938)頃には、井上侯爵の手元にあったらし<(『大日本文庫藝道篇 畫道集』)その後、故松下幸之助氏の所有となり、重要文化財に指定された。
百人一首に登場する業平朝臣像は一般に、背に弓をさした中将、または武人の姿であるが、当寺所蔵の歌人の御影は珍しい。業平画像は公開するたびに剥落が激しくなったので、平成6年(1994)6月から10月にかけて本格的に修理され、同年10月29日から11月27日まで東京都世田谷区の五島美術館で開催された特別展「伊勢物語の世界」のために、初めて寺外へ出て、関東地方で初公開された。(本当の東下りであった)
在原業平朝臣供養塔…鎌倉時代 花崗岩製
不退寺裏山墓地の最下段奥に南面して立っている高さ3・5㍍の五輪塔で、銘文は無く、鎌倉時代後期の様式で、花立に「伝在原業平朝臣之墓」と刻まれている。業平朝臣は元慶4年(880)5月28日に56歳で逝去され、16世紀前期に成立した『榻鴫暁筆』によると、京都市東山区吉田山に御廟が築かれ、所縁の地に分骨され、かつては16ヶ所もあったが、11ヶ所が現存している。
この供養塔は西大寺奥の院、興正菩薩叡尊の五輪塔と姿形が同じで、裏山墓地の総供養塔として西大寺の律僧によって建立されたものと思われ、室町時代以降業平伝説が流行発展したために、業平朝臣の供養塔として尊崇されたのであろう。

『伊勢物語』第88段歌碑 おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人の老いとなるもの
私はたいていの人が言うように月の美しさを誉めたくない。(平安時代、世間の人は月を愛でなかった)それはこの月が積もり重なって、人は年をとってしまうからである。あんまり若くはない友人が数人集まって、お月見をしていた時、その中ひとり(業平朝臣)が読んだ晩年の歌といわれ、掛詞は「つき」で本当の月と年月が掛けられている。業平画像の詞書に業平朝臣の業績とともに記されている歌で、この部分は寺伝では第57代陽成天皇の御宸筆と伝えられている。なお、この歌碑は昭和55年の1100年御遠忌の記念事業として建立されたものである。
『百人一首』第17段歌碑 業平朝臣 ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれないに水くくるとは

 (歌意)神代の昔でさえも聞いたことはない。竜田川が(紅葉を散り流して)紅色に水をしぼり染めにしているなどとは。
『古今和歌集』の詞書によると、業平朝臣が竜田川に紅葉の流れている屏風絵を題にして詠まれたものと言われているが、奈良県北葛城郡王寺町の久度神社北側つまり三郷町役場の南東側の大和川堤防あたりを地元では古くから「紅葉の瀬」と呼んで、この歌が詠まれた旧蹟と伝えている。
しかし、残念ながら「紅葉の瀬」は大和川護岸工事のために消滅してしまった。
この歌碑は昭和62年(1987)奈良市、京都市、大津市「京津奈広域観光事業」の小倉百人一首史跡めぐりを記念して平成元年(1989)5月15日に建立したもので、生駒石の自然石に平田華邑氏が書かれたもので、これが遺作となった。
業平格子…吹寄菱欄間 業平菱
本堂の内外陣を仕切る結界上に緑青で塗られた業平格子が使用されている。三筋縞を一組みとして菱形の斜め格子を作り、その格子の中にさらに四つ菱を入れた物で、業平朝臣が好んだ柄であったらしく、さらに江戸時代の歌舞伎役者歌右衛門が用いたことから流行した。現代でも絣の着物、帯、浴衣、法被の柄として十分通用する派手な格子縞柄である。
業平朝臣ゆかりの場所(滋賀県高島郡マキノ町在原の正法院、大阪府東大阪市東石切町の千手寺、愛知県知立市八橋町の在原寺、同町の無量寿寺)には、この業平格子がよく見受けられる。さらに、必ず業平朝臣が挿し絵で登場する江戸時代の地誌(『大和名所図会』、『河内名所図会』、『江戸名所図会』)などには決まって業平格子が用いられている。
業平椿…樹齢約100年
本堂の左に樹齢500年以上の業平椿があって昔、当寺は「椿寺」とも呼ばれていたが、昭和36年(1961)9月、第2室戸台風の直撃に会い倒木し、樹勢が衰え、さらに昭和40年(1965)の夏の猛暑ですっかり弱り10月頃惜しくも枯れてしまい、本堂左側の軒先にその老体を横臥している。長さは258㎝、幹回りは147㎝で、現在は2代目(樹齢約100年)が成長している。
花は濃紅色の一重で、ヤブ椿とほとんど同じであるが、枝が様々に交差し、接合するという少し変わった習性があり、ここから伝説が生まれた。『大和の年中行事』82によると、「業平がこの寺に住んでいた頃、歌姫(平城京跡北方の村落、奈良市佐紀町歌姫)に愛する女がいたが、2人の仲は結ばれなかったが、この寺の椿は枝と枝とが触れあって、一本になっていた。心ない木でさえこうして結ばれているのに、自分の恋はなぜ結ばれないのであろうかと、業平はこの椿に2人が結ばれることを祈ったという」昔は縁結び、夫婦和合の椿として、ひそかに祈りを込める人たちの参拝があったという。愛知県知立市八橋の無量寿寺にもかつて金魚葉の業平万葉椿があったと言うことであるが、現在は本堂左後方に2代目が植えられている。
   なお、当寺の庭園では現在約300種類以上の椿を栽培しており、10月から4月まで椿の花を楽しむことができる。(日本ツバキ協会会員)
業平忌 5月28日
本堂内陣須弥檀の左奥の壁に業平画像を掛け、前に壇を作り、五具足を飾り、三方の上に季節の野菜、精進供を盛り、業平朝臣所縁のカキツバタ、黄ショーブの花を飾り付け、真言律宗の僧侶数名によって、法要が厳粛に営まれる。一般の参列者は外陣に着座となる。法要は午前11時から始まり、約一時間で終了する。毎年業平忌には歌の上達を願って和歌、俳句をたしなむ方々が参拝され、またこの日は真言八祖の壁画が描かれている多宝塔が特別開扉され、本堂内では伊勢物語写本などの寺宝が公開される。
昔、業平忌の時は午前中に寺僧が読経するだけであったが、年々参列者は増え、マスコミにも取り上げられて、今では奈良市の年中行事の一つになっている。業平朝臣が亡くなって1100年以上も経過しているのに、今でも多くの人々(特に当寺は女性が大勢参拝される)に親しまれていることに対して、尊敬と羨望の念を業平画像を拝する度に抱いている。
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