彫刻 |
聖観音菩薩立像…平安時代(藤原時代前期)木造彩色 重要文化財 像高1・9㍍
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寺伝によると、業平朝臣御自作といわれ業平観音と呼ばれている。また『和州寺社記』によると「住持一世に一度開帳」とあり、近世まで秘仏であっ
たらしいが、明治以後はずっと御開帳されている。桂材の一木造で、宝冠帯が大きくリボンを着けた観音像である。全身胡粉地の上に極彩色の花紋
装飾が施され、復元するとかなり艶かしい観音像になるので、業平朝臣の理想の女性ではないかと思われるが、現在は彩色が剥落して木地が所々
見えて痛々しい。なお、業平朝臣は「馬頭観音、聖観音の化身」と言われていて、愛知県東海市富木島町の宝珠寺、愛知県知立市八橋の無量寿寺
と在原寺に業平朝臣自作の観音像が伝えられている。
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五大明王像…平安時代(藤原時代後期)木造(檜材の寄木造)彩色 重要文化財
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不動明王 像高87㌢ 降三世明王 156㌢ 軍荼利明王 158㌢ 金剛夜叉明王 149㌢ 大威徳明王 139㌢
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五大明王は古代インドで独立に成立したヒンズー教の神々であった。その後中国において護国経典である『仁王経念誦儀軌』によって、中央に不
動明王、東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王という配置で組み立てられたものである。
平安時代初めに弘法大師空海が中国から五大明王を請来し、京都東寺の講堂に安置され、平安時代の彫像で、奈良において現存しているのは当寺だけである。
一般に五大明王像は慈悲相で容易に教化しがたい衆生を導くために憤怒の形相が激しいが、当像は躍動感が無く、穏やかに表現されている。
不動明王を除く四大明王は迦楼羅炎と踏割蓮華が欠如しており、大正3年の修理の際に岩座に変更された。不動明王は玉眼が嵌め込まれているので、平安時代末期から鎌倉時代初期に彫像されたのではないだろうか。
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阿保親王坐像…鎌倉時代 木造彩色 玉眼嵌入 奈良県指定文化財 像高104㌢
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本堂内陣西小部屋の中に平城天皇、伊都内親王の尊儀とともに安置されている。桧材の寄木造りで、精密な彩色が施されている。胎内に何か文
字らしいものが書かれているが、まだ解読されていない。鎌倉時代後期から室町時代中期にかけて彫造されたものと様式上考えられている。阿保親
王は在原氏、大江氏、毛利氏の先祖だといわれているので、これらの氏族が阿保親王の遺徳を讃えるために彫造したものではないだろうか。特に毛
利氏の家紋である一文字三ツ星は阿保親王が逝去後に追贈された一品を象ったものである。
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絵画 |
八相涅槃図…江戸時代 紙本著色 掛幅装 184×188㌢ |
本堂内陣東奥の壁には『八相涅槃図』があり、裏面の墨書によると、享保酉年つまり享保14年(1729)奈良市大柳生町の西福寺で、涅槃講を始めるにあたり、紙本着色で描かれた画像で、大正12年(1923)西福寺が廃寺になった折り、当寺に寄贈されたものである。
涅槃図は2月15日の涅槃会・常楽会の法要に使用するもので、その日にしか画像は掲げないが、当寺の涅槃図は年中掛けたままである。
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興正菩薩像…江戸時代 紙本版彩色 掛幅装 86×31㌢
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鎌倉時代初期、不退寺は真言律宗西大寺の興正菩薩叡尊によって中興された。真言律宗は弘法大師空海を高祖とし、興正菩薩思円上人叡尊を宗祖としている。密律不二の教義に基づき、真言密教の奥旨を伝え、戒律を修し済世利人の聖業を期することを主旨としている。叡尊は生きとし生けるものは宇宙の根源的な大生命である大日如来の顕現であることを説き、ものの生命を尊び、身を修めることの大切さを説かれた。
また光明真言による滅罪生善安楽の功徳を強調され、毎年西大寺では10月3日ー5日まで昼夜不断の光明真言土砂加持法要が厳粛に執行されている。鎌倉時代北条氏の帰依を受けたためにその勢力範囲は広く、北は福島県から南は熊本県まで広範囲に渡り、約90ヶ寺の末寺で構成されている。奈良市内には11ヶ寺あり海龍王寺、般若寺、元興寺、福智院、白毫寺など有名な寺院が多い。
叡尊の生涯を探っていくのに最も不可欠な文献は『金剛仏子叡尊感身学生記』で、三巻から成る叡尊の自叙伝である。同記には不退寺の名は全く出てこない。しかし、叡尊が菩薩戒を授けた弟子の中に不退寺僧6人の名前があり、西大寺西僧坊造営に不退寺僧が一二人合力していることからわかるように、西大寺との関係は親密であった。
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