はじめにお読みください 
    
【追加分】
◎2003/3/14追加
金松誠「三好・松永方城郭の陣城プラン――松永方の大和口宇陀侵攻における陣城をとおして――」
        『城館研究論集』創刊準備号、仮称城館学会、2001年。
金松誠「戦国末期における大和国衆と中央権力――岡氏の動向を事例として――」
        『ふたかみ』10号、香芝市二上山博物館、2002年

◎2003年2月13日追加
西戸雄一郎「大和高天市の地鎮祭と幸徳井友栄」『ぐんしよ』Vol/14,No3  2001年
西戸雄一郎「戦国期大和の「連判衆」について」『ぐんしよ』Vol15,No3 2002年

◎2003年2月4日追加
仁木宏「『二条宴乗記』に見える大坂石山寺内町とその周辺――「石山合戦」開戦時を中心に――」『人文研究』49巻、1997年。
浦長瀬隆『中近世日本貨幣流通史――取引手段の変化と要因――』勁草書房、2001年。
黒田智「信長夢合わせ譚と武威の系譜」『史学雑誌』第111編6号、2002年。
多川俊映「『多聞院日記』にみえる夢」『悠久』第88号、2002年。
河東仁『日本の夢信仰――宗教学から見た日本精神史――』玉川大学出版部2002年。
幡鎌一弘「多聞院英俊が見た一小領主――大和国山辺郡備前村衛門太郎の活動の軌跡――」
  『国立歴史民俗博物館研究報告』第93集、2002年。
坂本雅央『平群谷の驍将 島左近』平群史蹟を守る会、2002年。

(参考)
上島享編『興福寺旧蔵史料の所在調査・目録作成および研究』京都府立大学、2002年
牧野和夫「室町期南都学芸の一端――釈栄甚『太子伝金玉抄』所収朗注・源注を通して――」『実践国文学』44号、1993年。

◎2002年3月14日追加
京都大学近世物価史研究会『一五〜一六世紀における物価変動の研究』読史会、1962年。
城郭談話会『大和高取城』2001年11月。
下記の太田論文以外で特に関わりの深い論文をあげる(全編で関係は深いがそのなかでも)。
  高田徹「高取城略史とその研究史」
  金松誠「大和高取城に関する文献史学的研究」
  黒田慶一「大和高取城の瓦について」
  松本崇秀「高取城天守曲輪石垣における転用石の使用状況について」
  山川均「郡山城および城下の発掘調査について」
  藤岡英礼「大和国における越智氏勢力圏の城館構成」
伊藤真昭「慶長期における徳川家康と畿内寺社――『西笑和尚文案』の分析を通して――」『待兼山論叢』28、1994年。
伊藤真昭「京都の寺社と統一政権」今谷明・高埜利彦編『中世・近世の宗教と国家』岩田書院、1998年。
伊藤真昭「京都の寺社と統一政権」『日本史研究』455、2000年
伊藤真昭「中近世移行期における寺社と統一政権」『日本史研究』452、2000年。
伊藤真昭「大和の寺社と西笑承兌」『仏教史学研究』42-2、2000年。
伊藤真昭「豊臣政権における寺社政策の理念」『ヒストリア』176号、2001年

◎2002年1月28日追加
太田三喜「「奈良県の城館発掘調査事例――高取城研究の一資料として――」『大和 高取城』城郭談話会、2001年11月4日

◎2002年1月20日追加
幡鎌一弘「多聞院英俊と『多聞院日記』」『第203回興福寺佛教文化講座要旨』 興福寺教学部 2001年3月。
幡鎌一弘「16世紀後半の衆徒と奈良」『第204回興福寺佛教文化講座要旨』興福寺教学部 2001年4月。
幡鎌一弘「十六世紀における「興福寺衆中引付」の整理と検討」『奈良歴史研究』第56号、2001年9月20日。
幡鎌一弘 『衆徒の記録から見た筒井氏―筒井順慶顕彰会講演会―』筒井順慶顕彰会、2001年9月20日。

◎2001年9月3日追加
川崎佐知子「紹巴所用『狭衣物語』とその意義―伝本研究への一階梯として―」『中古文学』第67号、2001年。
四宮志帆子「山田道安と鶴峰如廣」『黄檗文華』第120号、2001年。
幡鎌一弘「中山念仏寺墓地の墓郷と歴史的環境――『多聞院日記』を中心に――」
  『近畿地方における中・近世墓地の基礎的研究』  (文部省科研費基盤研究(A)(2)報告書:代表白石太一郎)
  国立歴史民俗博物館、2001年。

◎2001年6月18日追加
藤田達生『日本中・近世移行期の地域構造』校倉書房、2000年。
加美宏・田中正人「太平記享受史年表(中世・近世)」『軍記文学研究叢書9 太平記の世界』汲古書院、2000年。(既出の増補版)

◎2001年5月18日追加
『東大寺三社池―史跡東大寺旧境内の発掘調査―』奈良県文化財調査報告書第71集、奈良県立橿原考古学研究所、1996年。

◎2001年5月15日追加
平山敏治郎「疏林牛抄――読史余禄――」『日本常民文化紀要』15輯、1990年。
坂井孝一「「三ヶ大犯」考――中世奈良における「児童・神鹿・講衆」に対する犯罪――」『日本歴史』469号、1989年
永島福太郎「大垣廻し」魚澄先生古稀記念会編『魚澄先生古稀記念 国史学論叢』同記念会、1959年。

◎2001年4月26日追加
水野正好「天正六年七月廿日 『多聞院日記』の中の一日-話題の背景」『文化財学報』第16集、
     奈良大学文学部文化財学科、1998年
四宮美帆子「山田道安筆「月に波芦図」」『美学・美術史学科報』第29号、跡見学園女子大学美学・美術史学科、2001年
脇本十九郎「戦国の武人画家山田道安」(正・続・続)『画説』10・11・12号、1937年
永島福太郎「山田道安」『日本美術工芸』122号、1948年。
川崎佐知子「里村紹巴と奈良連歌―『狭衣物語』享受史研究の一助として―」『待兼山論叢』文学篇第34号、
   大阪大学大学院文学研究科、2000年。
木藤才蔵『連歌史論考下』増補版、明治書院、1993年。
石川真弘「興福寺関係連歌年表(稿)」『大谷女子大国文』18号、1988年。
両角倉一「紹巴小伝(改稿)」『山梨県立女子短期大学紀要』21号、1988年。
上野英子「紹巴所持本狭衣物語と『下紐』をめぐる考察―巻一を中心に―」
       『論叢狭衣物語1―本文と表現―』新典社、1999年。(未見)

◎2001年3月追加
水野正好 「多聞院英俊とその時代」
幡鎌一弘 「『多聞院日記』とその史料的価値」
中井 均  「多聞院英俊が見聞した城郭―中世城郭から近世城郭へ―」
藤澤典彦 「考古資料から見た奈良町の形成」
今尾文昭 「東大寺三社池出土卒塔婆の検討―南都における近世移行期の一状況―」
安田次郎 「寺社と地域社会」
河野昭昌 「素描・興福寺から見た筒井順慶―中・近世移行期興福寺の意識を探る手掛かりに―」 
以上は、いずれも『多聞院英俊の時代―中世とは何であったか―』シンポジウム「多聞院英俊の時代」実行委員会編、2001年。

幡鎌一弘「多聞院英俊と『多聞院日記』 『第203回興福寺佛教文化講座要旨』興福寺教学部、2001年。
金子敬徳 「織田政権と大和」『史文』3号、天理大学文学部歴史文化学科歴史学専攻、2001年。

長田光男 「今、筒井順慶に学ぶこと」
山川均  「筒井城の復元とその歴史的意義」
 以上は、『順慶と筒井城を語る』郡山教育委員会、2000年。

目  次

A【歴史全般・『大乗院寺社雑事記』に関するもの(一部)
B【書誌等】
C【仏教学・仏教文化・思想(夢)】
D【都市・流通】
E【教育】
F【国人
G【寺院・神社
H【文学】
I【芸能】
J【建築・美術】
K【医学史】

A【歴史全般・『大乗院寺社雑事記』に関するもの(一部)

桑田忠親「羽柴秀保につきて」『国史学』19号、1934年。

永島福太郎「多武峯の郡山遷座について」『大和志』第3巻1号、1936年。

永島福太郎「大和大納言秀長」『大和志』第4巻第9号、1937年。

城戸久「多聞城に関する一知見」『大和志』第7巻第3号、1940年a。

城戸久「多聞城殿舎の建築」『大和志』第7巻第11号、1940年b。

永島福太郎『奈良文化の伝流』中央公論社、1944年。

永島福太郎「伊賀筒井氏の民政――近世封建制成立の一考察――」『史学雑誌』61−11、1952年。

杉山二郎編「興福寺関係文献目録」『仏教芸術』40号、1959年。

永島福太郎『奈良』吉川弘文館、1963年。

朝倉弘「戦国末期の布留郷」『大和文化研究』8−2、1963年。

朝倉弘「戦国期惣結合の動向について――大和平群郡五百井惣を中心とする――」『日本歴史』206号、1965年。

永島福太郎『奈良県の歴史』山川出版社、1971年。

和田義昭「中世奈良の一揆に関する一考察」『研究紀要』第1号、東大寺学園中学校高等学校、1975年。
脇田修『織田政権の基礎構造 織豊政権の分析T』第4章第2節「天正八年大和指出と荘園領」東京大学出版会、1975年。
小玉道明・村田修三・巽三郎編集『日本城郭大系第十巻 三重 奈良 和歌山』新人物往来社、1980年。(城郭史文献目録あり)

鈴木良一『大乗院寺社雑事記――ある門閥僧侶の没落の記録――』そしえて、1983年。

奈良市同和地区史的調査委員会編『奈良の部落史 本文編』奈良市、1983年。(史料編あり、86年)
松尾良隆「天正八年の大和指出と一国破城について」『ヒストリア』99号、1983年(後、藤木久志編『織田政権の研究』吉川弘文館、1985年所収)。

村田修三「大和の「山ノ城」」『日本政治社会史研究下』岸俊男教授退官記念会編、塙書房、1985年。

藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』東京大学出版会、1985年。
野崎清孝「奈良盆地における歴史的地域に関する一問題――墓郷集団をめぐって――」『人文地理』第25巻1号、1973年(後、『村落社会の地域構造』海青社、1988年所収)。

藤木久志『戦国の作法』平凡社、1987年(のち、平凡社ライブラリー251、1998年)。

安国陽子「戦国期大和に出現した「迦」について」『日本史研究』317号、1989年。

安国陽子「戦国期「庄屋」考――大和を例として――」『寧楽史苑』36号、1991年a。

安国陽子「戦国期大和の権力と在地構造――興福寺荘園支配の崩壊過程――」『日本史研究』341号、1991年b。

寺沢光世「大和郡山城代横浜一庵について」『歴史手帳』 第19巻3号、1991年。

山室恭子『黄金太閤』中公新書、1992年。

村田修三「中近世移行期大和における賎民制の展開」『部落問題研究』117号、1992年。

朝尾直弘「16世紀後半の日本――統合された社会へ」『岩波講座日本通史第11巻 近世1』岩波書店、1993年。

朝倉弘『奈良県史11  大和武士』名著出版、1993年。

半田実「織田信長側近一雲斎針阿弥に関する一研究」『日本歴史』549号、1994年。

藤木久志「戦国期の災害年表」『雑兵たちの戦場』朝日新聞社、1995年。

森田竜雄「中世後期奈良の声聞師集団に関する一考察――その構造と展開――」『部落問題研究』第133輯、1995年。

大宮守友「大久保長安下代衆と春日社・興福寺」『日本文化史研究』第25号、1996年。

西村幸信「中近世移行期における侍衆と在地構造の転換」『ヒストリア』153号、1996年。
水野正好「古代エッセー――山陵の丘から――」(4・16・21・22・23・42・44)『月刊奈良』1996年11月・1997年12月・1998年5・6・7月・2000年2・4月。

森田恭二『大乗院寺社雑事記の研究』和泉書院、1997年。

泉谷康夫『興福寺』吉川弘文館、1997年(文献目録あり)。

藤木久志『村と領主の戦国世界』東京大学出版会、1997年。

大宮守友「近世初期の中坊屋敷」『南紀徳川史研究』6、1997年。

田中慶治「中世後期の若党に関する一考察――大和国を中心として――」『高野山史研究』6、1997年。

安田次郎『中世の奈良  都市民と寺院の支配』吉川弘文館、1998年a。
安田次郎「尋尊と『大乗院寺社雑事記』」五味文彦編『日記に中世を読む』吉川弘文館、1998年b(雑事記に関する文献は上記所収の「中世古記録(日記)関係文献目録抄」を参照)。

大宮守友「統一政権と春日社・興福寺」『江戸時代人づくり風土記29 奈良』農山漁村文化協会、1998年。

小竹文生「豊臣政権と筒井氏――「大和取次」伊藤掃部助を中心として――」『地方史研究』279号、1999年。
水野正好「叡尊・忍性の考古学」シンポジウム「叡尊・忍性と律宗系集団」実行委員会編『叡尊・忍性と律宗系集団』2000年。
早島有毅「豊臣政権の寺社政策――朝鮮侵略の背景として――」朝鮮日々記研究会編『朝鮮日々記を読む――真宗僧が見た秀吉の朝鮮侵略――』法蔵館、2000年。

堀新「織豊期王権論――「日本国王」から「中華皇帝」へ――」『人民の歴史学』145号、2000年。

B【書誌等】

毛利一憲「多聞院日記巻三の筆者について」『古文書研究』16、1981年。

杉山博編『多聞院日記索引』角川書店、1967年。

「解題」『史料大成多聞院日記5巻』1978年、臨川書店。

奈良国立文化財研究所『興福寺典籍目録第1巻』法蔵館、1986年。
永島福太郎「多聞院日記」『国史大辞典』吉川弘文館、1988年(後、加藤友康・由井正臣編『日本史文献解題辞典』吉川弘文館、2000年所収)。

興福寺国宝館「多聞院日記」興福寺国宝館特別陳列パンフレット、1997年(多聞院指図あり)。
河野昭昌・松尾恒一「「大乗院文書」の継承・流出の軌跡――國學院大學図書館蔵「福智院家文書」の理解の手掛かりに、付、同文書調査中間報告――」『国学院大学図書館紀要』第10号、2000年。


C【仏教学・仏教文化・思想(夢)】       
島田成矩「多聞院日記に見えたる夢と信仰――白狐と舎利と人狐をめぐりて――」『國學院雑誌』第58巻第4号、1957年。
芳賀幸四郎「非合理の世界と中世人の意識――多聞院英俊の夢――」『東京教育大学文学部紀要  史学研究』36号、1962年(後、『芳賀幸四郎歴史論集W  中世文化とその基盤』思文閣、1981年所収)。

富貴原章信「足利時代の唯識宗」『大谷大学研究年報』21、1969年。

下房俊一「多聞院英俊の夢」『国語国文』40−1(437号)、1971年。

富貴原章信『日本中世唯識仏教史』大東出版社、1975年。

江口孝夫『日本古典文学 夢についての研究』風間書房、1987年。(未見)

河合隼雄『明恵  夢を生きる』京都松柏社発行、法蔵館発売、1987年。
カラム・ハリール『日本中世における夢概念の系譜と継承』第4章「近世人の夢――中世とのかかわりにおいて」雄山閣、1990年。

多川俊映「「多聞院日記」を読む」1〜70『奈良新聞』(「興福寺点描」60〜129)、1990〜1996年。

多川俊映「多聞院英俊の春日信仰」『春日文化』第2冊、春日大社、1994年。
多川俊映「興福寺僧徒の春日信仰」上田正昭監修『秘儀開封 春日大社 生きている正倉院』上田正昭監修、角川書店、1995年。

竹居明男『日本古代仏教の文化史』吉川弘文館、1998年。

 

D【都市・流通】

小野晃嗣「中世に於ける奈良門前市場」『史学雑誌』45−4、1934年。

永島福太郎「今井氏及び今井町の発達」『社会経済史学』10−1、1940年。

小葉田淳『改訂増補日本貨幣流通史』刀江書店、1943年。

永島福太郎「町人の抬頭」『日本歴史』21号、1949年。

永島福太郎「都市自治の限界――奈良の場合――」『社会経済史学』17−3、1951年。

伊藤鄭爾「小五月郷の家屋の規模分布――中世奈良の研究(1)――」『建築史研究』14、1954年a。
伊藤鄭爾「中世奈良に於ける風呂・上水・洗濯について――中世奈良の研究(2)――」『建築史研究』15号、1954年b。
伊藤鄭爾「中世奈良の住居に於ける就寝状態に就いて――中世奈良の研究(3)――」『建築史研究』16号、1954年c。
木村博一「晒屋におけるマニュファクチュア経営」『奈良学芸大学紀要』3−3、1954年(後、『近世大和地方史研究』和泉書院、2000年所収)。

伊藤鄭爾「中世奈良に於ける屋敷価格表」『建築史研究』20号、1955年。

永島福太郎「中世奈良の市場〔沿革篇〕(上)(下)」『日本歴史』101・2号、1956年。

永島福太郎「織豊両氏の都市支配」『史林』41−8、1958年。

伊藤鄭爾『中世住居史』東京大学出版会、1958年。
木村博一「奈良晒」『日本産業史大系6  近畿地方篇』東京大学出版会、1960年(後、『近世大和地方史研究』和泉書院、2000年所収)。

朝倉弘「織豊期における村落共同体の動向――大和今井→大和を中心とする――」『史林』45−5、1962年。
毛利一憲「ビタ銭の価格変動に関する研究(上)(下)――『多聞院日記』により天正期を中心として――」『日本歴史』第310・1号、1974年。
橋詰茂「寺内町今井について」木代修一先生喜寿記念論文集編集委員会編『日本文化の社会的基盤』雄山閣、1976年。
森本育寛「織豊期における大和の綿作と繰綿の流通――高市郡四条・同郡今井を中心として――」『津田秀夫先生古稀記念 封建社会と近代』同朋社、1989年。
浦長瀬隆「一六世紀後半の奈良における貨幣流通――多聞院日記にみる支払手段の変化をめぐって――」 『社会経済史学』第48号第4巻、1982年。
木咲利枝子「戦国時代における僧侶の食生活の一様相――『ニ条宴乗記』を中心に――」『奈良歴史通信』24号、1985年。
浦長瀬隆「一六世紀後半における米価・金利と悪銭流通――多聞院日記を中心として――」『市場史研究』第5号、1988年。

亀井伸雄「今井町形成史論」『研究論集[(奈良国立文化財研究所学報第47冊)』1989年。

藤田裕嗣「一六世紀都市住人の活動から見た商品流通」『日本都市史入門T空間』、東京大学出版会、1989年。

藤田裕嗣「『多聞院日記』に現われた奈良での購買活動と流通システム」『奈良大学紀要』18号、1990年。

河内将芳「戦国期奈良における郷民の諸相とその史的展開」『史朋』26号、1991年。

森本育寛「今井寺内町の「市」について」『史泉』77号、1993年。
河内将芳「豊臣政権下の都市奈良に起こった一事件――「ならかし」、「金商人事件」、「奈良借」――」『史潮』新36号、1995年(後、『中世京都の民衆と社会』思文閣出版、2000年所収)。

河野昭昌「興福寺の「升の体系」と京升使用令の構図」『奈良歴史研究』45号、1996年。

 

E【教育】
芳賀幸四郎「室町時代の教育」伊東多三郎編『国民生活史研究 生活と学問教育』1958年(後、『芳賀幸四郎歴史論集W 中世文化とその基盤』思文閣、1981年所収)。

堀 一郎「わが国学僧教育制度」『堀一郎著作集第3巻』未来社、1978年。

和歌森太郎「中世興福寺における学僧教育」『和歌森太郎著作集第1巻』弘文堂、1980年。

田端泰子「中世の「家」と教育」『日本中世女性史論』塙書房、1994年。
幡鎌一弘「多聞院長実房英俊が記した南都寺院の教育」『江戸時代人づくり風土記29 奈良』農山漁村文化協会、1998年。

 

F【国人

永島福太郎「筒井順慶」『大和志』6巻10号、1939年a。

永島福太郎「筒井順慶補考」『大和志』6巻11号、1939年b。

永島福太郎「戦国大名の教養――筒井順慶と金春能――」『大和文華』11、1953年。

永島福太郎『筒井順慶菩提所南都伝香寺』伝香寺、1983年。

藪景三『筒井順慶とその一族』新人物往来社、1985年。

森本育寛「大和十市の集落」『横田健一先生古希記念 文化史論叢下』創元社、1987年。

田端泰子「戦国・織豊期の十市氏と十市後室の生活」『日本中世女性史論』塙書房、1994年。

山川均「筒井城に関する復元的研究」『関西近世考古学研究』W、1996年。
幡鎌一弘「中近世移行期における小領主の社会関係――山辺郡備前村衛門太郎を一例に――」(国立歴史民俗博物特定研究「地域社会における基層信仰の研究」研究会口頭発表、1998年。近稿予定)。

 
G【寺院・神社

永島福太郎「近世興福寺領の成立」『国史学』25号、1935年(後、『奈良文化の伝流』所収)。
渡辺澄夫「興福寺六方衆について」『増訂畿内荘園の基礎構造下』吉川弘文館、1970年(初出の『史学研究』11−1、1939年を補訂して所収)。

鈴木止一「興福寺衆中について――特に検断を中心として――」『歴史地理』81巻、1943年。

鈴木止一「続興福寺衆中について」『歴史地理』82巻、1943年。

鈴木止一「興福寺講衆について――特に検断を中心として――」『史淵』30・31合併号、1944年。

永島福太郎「中世大和の教界」『大和志』11巻1号、1944年。

鈴木止一「興福寺学侶・六方について(上)(下)」『日本歴史』88・9、1955年。

小林剛「興福寺沿革略年表」『仏教芸術』40号、1959年。

松山鉄夫「東大寺大仏の永禄再興について」『美術史』79号、1970年。

永島福太郎「天川の歴史」林屋辰三郎ほか著『天川』 駸々堂、1976年。

神谷文子「十五世紀後半の興福寺堂衆について」『史論』39号、1986年。

清田義英『日本中世寺院法の研究』敬文堂、1987年。

毛利一憲「興福寺「六方引付」(天文十二年)」『北見大学論集』19、1988年。

幡鎌一弘「近世寺僧の「家」と身分の一考察――興福寺の里元を手がかりに――」『ヒストリア』145号、1994年。

奈良県教育委員会文化財保存課『奈良県大般若経調査報告書二』奈良県教育委員会、1995年。

清田義英『中世寺院法史の研究』敬文堂、1995年。

幡鎌一弘「近世興福寺領覚書―内部構成と支配論理の特質―」『天理大学学報』第181輯、1996年。
幡鎌一弘「近世寺院の脱呪術化と官僚主義について――興福寺学侶引付を一例に――」『仏教史学研究』39巻12号、1997年。

高山有紀『中世興福寺維摩会の研究』勉誠社、1997年。
幡鎌一弘「中近世移行期の春日若宮祭礼と供物負担――「庁中漫録」に残された送状の分析を通して――」『神戸大学史学年報』第14号、1999年。

安田次郎「春日の流鏑馬」五味文彦篇『芸能の中世』吉川弘文館、2000年。
福持昌之「薬師寺寺僧のライフコース――南都寺院社会研究の一試論――」『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要』創刊号、2000年。
幡鎌一弘「祭礼奉仕人――奈良春日若宮祭礼に流鏑馬を奉仕した家――」『論集近世の身分的周縁1  民間に生きる宗教者』吉川弘文館、2000年。

 

H【文学

福田秀一「「雨月物語」と「多聞院日記」」『文学研究』15、1960年。
福田秀一「太平記享受史年表」『成城文学』第35号、1964年(後、『戦記文学』日本文学研究資料叢書、有精堂出版、1974年に補足して所収)。

福田秀一「暁月房為守とその「狂歌酒百首」」『中世和歌史の研究』角川書店、1972年。
徳江元正「咄の生い立ち――『多聞院日記』・『大乗院寺社雑事記』――」『国文学研究資料館講演集6 日記と文学』国文学研究資料館、1984年 。

徳田和夫『お伽草子 研究』三弥井書店、1988年。

奥田勲『連歌師 その行動と文学』日本人の行動と思想41、評論社、1976年。(里村紹巴の研究文献あり)

加美宏『太平記享受史論考』桜楓社、1985年。

小林幸夫「<はね字>の遊び――聯句・連歌・咄――」『東海学園国語国文』第48号、1994年。

部矢祥子「時世の成立と展開――中世和歌の一様相――」『和歌文学研究』第69号、1994年。

大磯義雄「豊臣秀吉の俳諧」『日本古書通信』804号、1996年。

 
I【芸能】

能勢朝次『能学源流考』岩波書店、1938年。

小林静雄『能楽史研究』(未見)。

永島福太郎『中世文芸の源流』河原書店、1948年。

和田義昭「中世南都における郷民祭礼の基盤」『芸能誌研究』36号、1972年。

和田義昭「中世奈良の風流についての一考察」『芸能誌研究』51号、1975年。

広瀬瑞弘『能と金春』初音書房、1969年。

山路興造「群小猿楽座の動静」『観世』44巻2・3号、1977年、のち『翁の座』平凡社,1990年所収。

和田義昭「中世南都の郷民と風流」『中世日本の歴史像』日本史研究会史料研究部会編、創元社、1978年。

渡辺一郎『宝蔵院流槍術』奈良市、1981年。

徳江元正『室町芸能史論攷』三弥井書店、1984年。

伊藤磯十郎『田楽史の研究』特に第6章「安土桃山時代」吉川弘文館、1986年。

小高恭編『中世芸能史年表』名著出版、1987年。

永島福太郎「槍宝蔵院」『奈良の宝蔵院槍術』奈良市武道振興会、1989年。

鈴木晶子「『多聞院日記』天正十年五月十八日条のやや子踊に関する一考察」『学苑』603号、1990年。

天野文雄『翁猿楽研究』和泉書院、1995年。

松尾恒一『延年の芸能史的研究』岩田書院、1997年。

宮本圭造「南都禰宜衆の演能活動(上)――もう一つの能楽史――」『芸能史研究』138号、1997年。

天野文雄『能に憑かれた権力者 秀吉能楽愛好記』講談社選書メチエ、1997年。

岩崎雅彦「[証言・能楽史]能を見た人びとの記録35」『国立能楽堂』No.163、1997年。

岩崎雅彦「[証言・能楽史]能を見た人びとの記録36」『国立能楽堂』No.164、1997年。

宮本圭造「南都禰宜衆演能年表」『芸能史研究』142号、1998年。

 

J【建築・美術

森末義昭『中世の社寺と芸術』畝傍書房、1941年(特に「南都絵所」)。

森蘊「中世興福寺の住房」『仏教芸術』40、1959年。

森蘊「大和国と小堀遠州の業績(一)(二)」『大和文化研究』10−4・5、1965年。

森蘊『奈良国立文化財研究所学報第18冊 小堀遠州の作事』奈良国立文化財研究所、1966年。

上原昭一「室町彫刻」『日本の美術』98号、至文堂、1974年。

奈良県教育委員会文化財保存課編『奈良県文化財全集14 興福寺T』奈良県教育委員会、1978年。

本田博太郎『南都七大寺の歴史と年表』岩波書店、1979年。

皆川祥子「宿院仏師について」『仏教芸術』129号、1980年。

河原由雄「祐全と琳賢」『南都仏教』43・44号、1980年。

浅井允晶『奈良人形――その歴史と伝統――』奈良市、1982年。

山本勉「宗貞と宗印――近世初頭の奈良仏師に関するおぼえがき――」『MUSEUM』No.407、1985年。

竹林薫風『奈良の一刀彫』(個人)1988年。

清水真一「中世法隆寺大工とその造営形態」『建築史学』12号、1989年。

鈴木喜博「宿院仏師源三郎の狛弁財天十五童子像について―附、宿院仏師作例年表―」『美術史学』12号、1990年。

河原由雄・吉田友之「総説」『奈良市の絵画――奈良市絵画調査報告書――』奈良市教育委員会、1995年。

大河内智之「室町時代の奈良仏師について」『仏教史研究』33号、1997年。
大河内智之「南都絵所座の後裔――中世末期から近世初頭にかけての南都の絵師の動向――」『仏教史研究』34号、1998年。
奈良県教育委員会編『奈良県中世彫刻調査報告 宿院仏師――戦国時代の奈良仏師――』奈良県教育委員会、1998年。(宿院仏師関連文献目録あり)

本田博太郎編集『奈良六大寺大観第七巻 興福寺一(補訂版)』岩波書店、1999年。(参考文献目録あり)。
朽木量「墓標の考古学的分析からみた近世前期の採石活動――奈良在地産石材の消長と南山城における墓標の地域的差異――」『史学』第69巻3・4号 2000年5月。

 

K【医学史

服部敏良『室町安土桃山時代医学史の研究』吉川弘文館,1971年。

新村拓『日本医療社会史の研究』法政大学出版局、1985年。
中村昭「多聞院英俊の病跡――梅毒を中心として――」『日本医史学雑誌』33−4、1987年(同氏には、大会報告要旨あり、注に引用)。

奈良県薬業史編さん審議会編『奈良県薬業史 通史編』同会、1991年。(史料編あり、1988年)