桑田忠親「羽柴秀保につきて」『国史学』19号、1934年。
永島福太郎「多武峯の郡山遷座について」『大和志』第3巻1号、1936年。
永島福太郎「大和大納言秀長」『大和志』第4巻第9号、1937年。
城戸久「多聞城に関する一知見」『大和志』第7巻第3号、1940年a。
城戸久「多聞城殿舎の建築」『大和志』第7巻第11号、1940年b。
永島福太郎『奈良文化の伝流』中央公論社、1944年。
永島福太郎「伊賀筒井氏の民政――近世封建制成立の一考察――」『史学雑誌』61−11、1952年。
杉山二郎編「興福寺関係文献目録」『仏教芸術』40号、1959年。
永島福太郎『奈良』吉川弘文館、1963年。
朝倉弘「戦国末期の布留郷」『大和文化研究』8−2、1963年。
朝倉弘「戦国期惣結合の動向について――大和平群郡五百井惣を中心とする――」『日本歴史』206号、1965年。
永島福太郎『奈良県の歴史』山川出版社、1971年。
和田義昭「中世奈良の一揆に関する一考察」『研究紀要』第1号、東大寺学園中学校高等学校、1975年。
脇田修『織田政権の基礎構造 織豊政権の分析T』第4章第2節「天正八年大和指出と荘園領」東京大学出版会、1975年。
小玉道明・村田修三・巽三郎編集『日本城郭大系第十巻 三重 奈良 和歌山』新人物往来社、1980年。(城郭史文献目録あり)
鈴木良一『大乗院寺社雑事記――ある門閥僧侶の没落の記録――』そしえて、1983年。
奈良市同和地区史的調査委員会編『奈良の部落史 本文編』奈良市、1983年。(史料編あり、86年)
松尾良隆「天正八年の大和指出と一国破城について」『ヒストリア』99号、1983年(後、藤木久志編『織田政権の研究』吉川弘文館、1985年所収)。
村田修三「大和の「山ノ城」」『日本政治社会史研究下』岸俊男教授退官記念会編、塙書房、1985年。
藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』東京大学出版会、1985年。
野崎清孝「奈良盆地における歴史的地域に関する一問題――墓郷集団をめぐって――」『人文地理』第25巻1号、1973年(後、『村落社会の地域構造』海青社、1988年所収)。
藤木久志『戦国の作法』平凡社、1987年(のち、平凡社ライブラリー251、1998年)。
安国陽子「戦国期大和に出現した「迦」について」『日本史研究』317号、1989年。
安国陽子「戦国期「庄屋」考――大和を例として――」『寧楽史苑』36号、1991年a。
安国陽子「戦国期大和の権力と在地構造――興福寺荘園支配の崩壊過程――」『日本史研究』341号、1991年b。
寺沢光世「大和郡山城代横浜一庵について」『歴史手帳』 第19巻3号、1991年。
山室恭子『黄金太閤』中公新書、1992年。
村田修三「中近世移行期大和における賎民制の展開」『部落問題研究』117号、1992年。
朝尾直弘「16世紀後半の日本――統合された社会へ」『岩波講座日本通史第11巻 近世1』岩波書店、1993年。
朝倉弘『奈良県史11 大和武士』名著出版、1993年。
半田実「織田信長側近一雲斎針阿弥に関する一研究」『日本歴史』549号、1994年。
藤木久志「戦国期の災害年表」『雑兵たちの戦場』朝日新聞社、1995年。
森田竜雄「中世後期奈良の声聞師集団に関する一考察――その構造と展開――」『部落問題研究』第133輯、1995年。
大宮守友「大久保長安下代衆と春日社・興福寺」『日本文化史研究』第25号、1996年。
西村幸信「中近世移行期における侍衆と在地構造の転換」『ヒストリア』153号、1996年。
水野正好「古代エッセー――山陵の丘から――」(4・16・21・22・23・42・44)『月刊奈良』1996年11月・1997年12月・1998年5・6・7月・2000年2・4月。
森田恭二『大乗院寺社雑事記の研究』和泉書院、1997年。
泉谷康夫『興福寺』吉川弘文館、1997年(文献目録あり)。
藤木久志『村と領主の戦国世界』東京大学出版会、1997年。
大宮守友「近世初期の中坊屋敷」『南紀徳川史研究』6、1997年。
田中慶治「中世後期の若党に関する一考察――大和国を中心として――」『高野山史研究』6、1997年。
安田次郎『中世の奈良 都市民と寺院の支配』吉川弘文館、1998年a。
安田次郎「尋尊と『大乗院寺社雑事記』」五味文彦編『日記に中世を読む』吉川弘文館、1998年b(雑事記に関する文献は上記所収の「中世古記録(日記)関係文献目録抄」を参照)。
大宮守友「統一政権と春日社・興福寺」『江戸時代人づくり風土記29 奈良』農山漁村文化協会、1998年。
小竹文生「豊臣政権と筒井氏――「大和取次」伊藤掃部助を中心として――」『地方史研究』279号、1999年。
水野正好「叡尊・忍性の考古学」シンポジウム「叡尊・忍性と律宗系集団」実行委員会編『叡尊・忍性と律宗系集団』2000年。
早島有毅「豊臣政権の寺社政策――朝鮮侵略の背景として――」朝鮮日々記研究会編『朝鮮日々記を読む――真宗僧が見た秀吉の朝鮮侵略――』法蔵館、2000年。
堀新「織豊期王権論――「日本国王」から「中華皇帝」へ――」『人民の歴史学』145号、2000年。
B【書誌等】
毛利一憲「多聞院日記巻三の筆者について」『古文書研究』16、1981年。
杉山博編『多聞院日記索引』角川書店、1967年。
「解題」『史料大成多聞院日記5巻』1978年、臨川書店。
奈良国立文化財研究所『興福寺典籍目録第1巻』法蔵館、1986年。
永島福太郎「多聞院日記」『国史大辞典』吉川弘文館、1988年(後、加藤友康・由井正臣編『日本史文献解題辞典』吉川弘文館、2000年所収)。
興福寺国宝館「多聞院日記」興福寺国宝館特別陳列パンフレット、1997年(多聞院指図あり)。
河野昭昌・松尾恒一「「大乗院文書」の継承・流出の軌跡――國學院大學図書館蔵「福智院家文書」の理解の手掛かりに、付、同文書調査中間報告――」『国学院大学図書館紀要』第10号、2000年。
C【仏教学・仏教文化・思想(夢)】
島田成矩「多聞院日記に見えたる夢と信仰――白狐と舎利と人狐をめぐりて――」『國學院雑誌』第58巻第4号、1957年。
芳賀幸四郎「非合理の世界と中世人の意識――多聞院英俊の夢――」『東京教育大学文学部紀要 史学研究』36号、1962年(後、『芳賀幸四郎歴史論集W 中世文化とその基盤』思文閣、1981年所収)。
富貴原章信「足利時代の唯識宗」『大谷大学研究年報』21、1969年。
下房俊一「多聞院英俊の夢」『国語国文』40−1(437号)、1971年。
富貴原章信『日本中世唯識仏教史』大東出版社、1975年。
江口孝夫『日本古典文学 夢についての研究』風間書房、1987年。(未見)
河合隼雄『明恵 夢を生きる』京都松柏社発行、法蔵館発売、1987年。
カラム・ハリール『日本中世における夢概念の系譜と継承』第4章「近世人の夢――中世とのかかわりにおいて」雄山閣、1990年。
多川俊映「「多聞院日記」を読む」1〜70『奈良新聞』(「興福寺点描」60〜129)、1990〜1996年。
多川俊映「多聞院英俊の春日信仰」『春日文化』第2冊、春日大社、1994年。
多川俊映「興福寺僧徒の春日信仰」上田正昭監修『秘儀開封 春日大社 生きている正倉院』上田正昭監修、角川書店、1995年。
竹居明男『日本古代仏教の文化史』吉川弘文館、1998年。
小野晃嗣「中世に於ける奈良門前市場」『史学雑誌』45−4、1934年。
永島福太郎「今井氏及び今井町の発達」『社会経済史学』10−1、1940年。
小葉田淳『改訂増補日本貨幣流通史』刀江書店、1943年。
永島福太郎「町人の抬頭」『日本歴史』21号、1949年。
永島福太郎「都市自治の限界――奈良の場合――」『社会経済史学』17−3、1951年。
伊藤鄭爾「小五月郷の家屋の規模分布――中世奈良の研究(1)――」『建築史研究』14、1954年a。
伊藤鄭爾「中世奈良に於ける風呂・上水・洗濯について――中世奈良の研究(2)――」『建築史研究』15号、1954年b。
伊藤鄭爾「中世奈良の住居に於ける就寝状態に就いて――中世奈良の研究(3)――」『建築史研究』16号、1954年c。
木村博一「晒屋におけるマニュファクチュア経営」『奈良学芸大学紀要』3−3、1954年(後、『近世大和地方史研究』和泉書院、2000年所収)。
伊藤鄭爾「中世奈良に於ける屋敷価格表」『建築史研究』20号、1955年。
永島福太郎「中世奈良の市場〔沿革篇〕(上)(下)」『日本歴史』101・2号、1956年。
永島福太郎「織豊両氏の都市支配」『史林』41−8、1958年。
伊藤鄭爾『中世住居史』東京大学出版会、1958年。
木村博一「奈良晒」『日本産業史大系6 近畿地方篇』東京大学出版会、1960年(後、『近世大和地方史研究』和泉書院、2000年所収)。
朝倉弘「織豊期における村落共同体の動向――大和今井→大和を中心とする――」『史林』45−5、1962年。
毛利一憲「ビタ銭の価格変動に関する研究(上)(下)――『多聞院日記』により天正期を中心として――」『日本歴史』第310・1号、1974年。
橋詰茂「寺内町今井について」木代修一先生喜寿記念論文集編集委員会編『日本文化の社会的基盤』雄山閣、1976年。
森本育寛「織豊期における大和の綿作と繰綿の流通――高市郡四条・同郡今井を中心として――」『津田秀夫先生古稀記念 封建社会と近代』同朋社、1989年。
浦長瀬隆「一六世紀後半の奈良における貨幣流通――多聞院日記にみる支払手段の変化をめぐって――」 『社会経済史学』第48号第4巻、1982年。
木咲利枝子「戦国時代における僧侶の食生活の一様相――『ニ条宴乗記』を中心に――」『奈良歴史通信』24号、1985年。
浦長瀬隆「一六世紀後半における米価・金利と悪銭流通――多聞院日記を中心として――」『市場史研究』第5号、1988年。
亀井伸雄「今井町形成史論」『研究論集[(奈良国立文化財研究所学報第47冊)』1989年。
藤田裕嗣「一六世紀都市住人の活動から見た商品流通」『日本都市史入門T空間』、東京大学出版会、1989年。
藤田裕嗣「『多聞院日記』に現われた奈良での購買活動と流通システム」『奈良大学紀要』18号、1990年。
河内将芳「戦国期奈良における郷民の諸相とその史的展開」『史朋』26号、1991年。
森本育寛「今井寺内町の「市」について」『史泉』77号、1993年。
河内将芳「豊臣政権下の都市奈良に起こった一事件――「ならかし」、「金商人事件」、「奈良借」――」『史潮』新36号、1995年(後、『中世京都の民衆と社会』思文閣出版、2000年所収)。
河野昭昌「興福寺の「升の体系」と京升使用令の構図」『奈良歴史研究』45号、1996年。
E【教育】
芳賀幸四郎「室町時代の教育」伊東多三郎編『国民生活史研究 生活と学問教育』1958年(後、『芳賀幸四郎歴史論集W 中世文化とその基盤』思文閣、1981年所収)。
堀 一郎「わが国学僧教育制度」『堀一郎著作集第3巻』未来社、1978年。
和歌森太郎「中世興福寺における学僧教育」『和歌森太郎著作集第1巻』弘文堂、1980年。
田端泰子「中世の「家」と教育」『日本中世女性史論』塙書房、1994年。
幡鎌一弘「多聞院長実房英俊が記した南都寺院の教育」『江戸時代人づくり風土記29 奈良』農山漁村文化協会、1998年。
F【国人】
永島福太郎「筒井順慶」『大和志』6巻10号、1939年a。
永島福太郎「筒井順慶補考」『大和志』6巻11号、1939年b。
永島福太郎「戦国大名の教養――筒井順慶と金春能――」『大和文華』11、1953年。
永島福太郎『筒井順慶菩提所南都伝香寺』伝香寺、1983年。
藪景三『筒井順慶とその一族』新人物往来社、1985年。
森本育寛「大和十市の集落」『横田健一先生古希記念 文化史論叢下』創元社、1987年。
田端泰子「戦国・織豊期の十市氏と十市後室の生活」『日本中世女性史論』塙書房、1994年。
山川均「筒井城に関する復元的研究」『関西近世考古学研究』W、1996年。
幡鎌一弘「中近世移行期における小領主の社会関係――山辺郡備前村衛門太郎を一例に――」(国立歴史民俗博物特定研究「地域社会における基層信仰の研究」研究会口頭発表、1998年。近稿予定)。
永島福太郎「近世興福寺領の成立」『国史学』25号、1935年(後、『奈良文化の伝流』所収)。
渡辺澄夫「興福寺六方衆について」『増訂畿内荘園の基礎構造下』吉川弘文館、1970年(初出の『史学研究』11−1、1939年を補訂して所収)。
鈴木止一「興福寺衆中について――特に検断を中心として――」『歴史地理』81巻、1943年。
鈴木止一「続興福寺衆中について」『歴史地理』82巻、1943年。
鈴木止一「興福寺講衆について――特に検断を中心として――」『史淵』30・31合併号、1944年。
永島福太郎「中世大和の教界」『大和志』11巻1号、1944年。
鈴木止一「興福寺学侶・六方について(上)(下)」『日本歴史』88・9、1955年。
小林剛「興福寺沿革略年表」『仏教芸術』40号、1959年。
松山鉄夫「東大寺大仏の永禄再興について」『美術史』79号、1970年。
永島福太郎「天川の歴史」林屋辰三郎ほか著『天川』 駸々堂、1976年。
神谷文子「十五世紀後半の興福寺堂衆について」『史論』39号、1986年。
清田義英『日本中世寺院法の研究』敬文堂、1987年。
毛利一憲「興福寺「六方引付」(天文十二年)」『北見大学論集』19、1988年。
幡鎌一弘「近世寺僧の「家」と身分の一考察――興福寺の里元を手がかりに――」『ヒストリア』145号、1994年。
奈良県教育委員会文化財保存課『奈良県大般若経調査報告書二』奈良県教育委員会、1995年。
清田義英『中世寺院法史の研究』敬文堂、1995年。
幡鎌一弘「近世興福寺領覚書―内部構成と支配論理の特質―」『天理大学学報』第181輯、1996年。
幡鎌一弘「近世寺院の脱呪術化と官僚主義について――興福寺学侶引付を一例に――」『仏教史学研究』39巻12号、1997年。
高山有紀『中世興福寺維摩会の研究』勉誠社、1997年。
幡鎌一弘「中近世移行期の春日若宮祭礼と供物負担――「庁中漫録」に残された送状の分析を通して――」『神戸大学史学年報』第14号、1999年。
安田次郎「春日の流鏑馬」五味文彦篇『芸能の中世』吉川弘文館、2000年。
福持昌之「薬師寺寺僧のライフコース――南都寺院社会研究の一試論――」『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要』創刊号、2000年。
幡鎌一弘「祭礼奉仕人――奈良春日若宮祭礼に流鏑馬を奉仕した家――」『論集近世の身分的周縁1 民間に生きる宗教者』吉川弘文館、2000年。
H【文学】
福田秀一「「雨月物語」と「多聞院日記」」『文学研究』15、1960年。
福田秀一「太平記享受史年表」『成城文学』第35号、1964年(後、『戦記文学』日本文学研究資料叢書、有精堂出版、1974年に補足して所収)。
福田秀一「暁月房為守とその「狂歌酒百首」」『中世和歌史の研究』角川書店、1972年。
徳江元正「咄の生い立ち――『多聞院日記』・『大乗院寺社雑事記』――」『国文学研究資料館講演集6 日記と文学』国文学研究資料館、1984年 。
徳田和夫『お伽草子 研究』三弥井書店、1988年。
奥田勲『連歌師 その行動と文学』日本人の行動と思想41、評論社、1976年。(里村紹巴の研究文献あり)
加美宏『太平記享受史論考』桜楓社、1985年。
小林幸夫「<はね字>の遊び――聯句・連歌・咄――」『東海学園国語国文』第48号、1994年。
部矢祥子「時世の成立と展開――中世和歌の一様相――」『和歌文学研究』第69号、1994年。
大磯義雄「豊臣秀吉の俳諧」『日本古書通信』804号、1996年。
能勢朝次『能学源流考』岩波書店、1938年。
小林静雄『能楽史研究』(未見)。
永島福太郎『中世文芸の源流』河原書店、1948年。
和田義昭「中世南都における郷民祭礼の基盤」『芸能誌研究』36号、1972年。
和田義昭「中世奈良の風流についての一考察」『芸能誌研究』51号、1975年。
広瀬瑞弘『能と金春』初音書房、1969年。
山路興造「群小猿楽座の動静」『観世』44巻2・3号、1977年、のち『翁の座』平凡社,1990年所収。
和田義昭「中世南都の郷民と風流」『中世日本の歴史像』日本史研究会史料研究部会編、創元社、1978年。
渡辺一郎『宝蔵院流槍術』奈良市、1981年。
徳江元正『室町芸能史論攷』三弥井書店、1984年。
伊藤磯十郎『田楽史の研究』特に第6章「安土桃山時代」吉川弘文館、1986年。
小高恭編『中世芸能史年表』名著出版、1987年。
永島福太郎「槍宝蔵院」『奈良の宝蔵院槍術』奈良市武道振興会、1989年。
鈴木晶子「『多聞院日記』天正十年五月十八日条のやや子踊に関する一考察」『学苑』603号、1990年。
天野文雄『翁猿楽研究』和泉書院、1995年。
松尾恒一『延年の芸能史的研究』岩田書院、1997年。
宮本圭造「南都禰宜衆の演能活動(上)――もう一つの能楽史――」『芸能史研究』138号、1997年。
天野文雄『能に憑かれた権力者 秀吉能楽愛好記』講談社選書メチエ、1997年。
岩崎雅彦「[証言・能楽史]能を見た人びとの記録35」『国立能楽堂』No.163、1997年。
岩崎雅彦「[証言・能楽史]能を見た人びとの記録36」『国立能楽堂』No.164、1997年。
宮本圭造「南都禰宜衆演能年表」『芸能史研究』142号、1998年。
森末義昭『中世の社寺と芸術』畝傍書房、1941年(特に「南都絵所」)。
森蘊「中世興福寺の住房」『仏教芸術』40、1959年。
森蘊「大和国と小堀遠州の業績(一)(二)」『大和文化研究』10−4・5、1965年。
森蘊『奈良国立文化財研究所学報第18冊 小堀遠州の作事』奈良国立文化財研究所、1966年。
上原昭一「室町彫刻」『日本の美術』98号、至文堂、1974年。
奈良県教育委員会文化財保存課編『奈良県文化財全集14 興福寺T』奈良県教育委員会、1978年。
本田博太郎『南都七大寺の歴史と年表』岩波書店、1979年。
皆川祥子「宿院仏師について」『仏教芸術』129号、1980年。
河原由雄「祐全と琳賢」『南都仏教』43・44号、1980年。
浅井允晶『奈良人形――その歴史と伝統――』奈良市、1982年。
山本勉「宗貞と宗印――近世初頭の奈良仏師に関するおぼえがき――」『MUSEUM』No.407、1985年。
竹林薫風『奈良の一刀彫』(個人)1988年。
清水真一「中世法隆寺大工とその造営形態」『建築史学』12号、1989年。
鈴木喜博「宿院仏師源三郎の狛弁財天十五童子像について―附、宿院仏師作例年表―」『美術史学』12号、1990年。
河原由雄・吉田友之「総説」『奈良市の絵画――奈良市絵画調査報告書――』奈良市教育委員会、1995年。
大河内智之「室町時代の奈良仏師について」『仏教史研究』33号、1997年。
大河内智之「南都絵所座の後裔――中世末期から近世初頭にかけての南都の絵師の動向――」『仏教史研究』34号、1998年。
奈良県教育委員会編『奈良県中世彫刻調査報告 宿院仏師――戦国時代の奈良仏師――』奈良県教育委員会、1998年。(宿院仏師関連文献目録あり)
本田博太郎編集『奈良六大寺大観第七巻 興福寺一(補訂版)』岩波書店、1999年。(参考文献目録あり)。
朽木量「墓標の考古学的分析からみた近世前期の採石活動――奈良在地産石材の消長と南山城における墓標の地域的差異――」『史学』第69巻3・4号 2000年5月。
服部敏良『室町安土桃山時代医学史の研究』吉川弘文館,1971年。
新村拓『日本医療社会史の研究』法政大学出版局、1985年。
中村昭「多聞院英俊の病跡――梅毒を中心として――」『日本医史学雑誌』33−4、1987年(同氏には、大会報告要旨あり、注に引用)。
奈良県薬業史編さん審議会編『奈良県薬業史 通史編』同会、1991年。(史料編あり、1988年)