故事成語

明鏡止水

 悪いことをしてしまって足を切り落とす刑を受けていた申徒嘉(しんとか)という者と、鄭(てい)の国の宰相(さいしょう=今の日本でいう内閣総理大臣くらいの役職)である子産(しさん)は、同じ師匠のもとで学んでいました。あるとき、子産申徒嘉に 「いつも、わたしが先に帰るときには君が残り、君が先に帰るときにはわたしが残っているよね。今日はわたしが先に帰らせてもらおうと思うのだが、君が残ってくれるだろうか。それとも都合が悪いだろうか。そういえば、いつも思っていたのだが、君は宰相であるわたしを見てもまるで避けようとはしないね。もしかすると君は、自分は宰相と同等の人間だと思っているのかな?」 と尋ねました。
 申徒嘉は 「先生の弟子として学んでいるときには、宰相という地位に何の意味があるでしょうか。あなたは宰相であることを常に誇りに思っていて人を見下そうとしているところがあるようですね。次の様な話を聞いたことがあります。『鏡がよく磨かれていれば塵(ちり)や垢(あか)がつかない。それらがついてしまうのは鏡が汚れているからだ。塵がつくと物事がはっきりと見えなくなる。立派な人と長く過ごしているとよく磨かれて過ちをしないようになる』と。今、あなたと私が学ぼうとしているのは先生です。先生の前ではみんなが同じ立場です。それなのに、このようなことをおっしゃるのは、何かおかしいとは思いませんか。」 と答えました。

 孔子(こうし)が活躍していた時代に、王駘(おうたい)という人物がいて孔子と同じくらいの弟子を集めていました。孔子の弟子である常季(じょうき)は、自分の師匠であり尊敬している孔子の方が明らかに立派な方なのに、王駘のもとにもたくさんの弟子が集まっているのが不満でした。ある日、孔子に「王駘は、自分の知恵によって自分の心をとらえて、自分の心をさとっただけの人物です。とても博学だとは思えません。それなのに、どうして多くの弟子が集まるのでしょうか。」と尋ねました。
 孔子は 「人は流れる水を鏡にすることはないでしょう?止まっている水を鏡にするのです。止まっているものだけが物事を映し出すことができるのです。王駘はまるでじっと止まっている水のように落ち着いた平静な心を持っているので、自分の心を見たいという人々の心を見事に映し出す。だからみんなの足も止まるのですよ。」 と答えました。

落ちついている様子や心境のこと。人を引きつけるような立派な人物。

<例> 雑念を排して、明鏡止水の心でのぞみたいと思います。