「約束だからね、大人になっても、ずうっとずうっと一緒にすべろうね」
「ああ、約束。忘れるなよ」
遠い幼い日の約束。
もう、あの子は忘れてしまっているのかも知れない。
けれど俺は・・・。
銀盤の恋人たち
プロローグ:幼い日の約束
byドミ
東京都米花市。
市の中心部近いあるスケートクラブにて、そこの専任コーチが、ある高校生男子選手と言い争いをしていた。
「工藤!お前だったら世界の頂点に立てる!世界選手権の選考に今年落ちた位でどうしたと言うんだ、来年は絶対代表に選ばれる、そして再来年はオリンピックだぞ!考え直せ!」
コーチから必死で引き止められているのは、工藤新一という、高校1年生の選手であった。
今年は惜しくも世界選手権代表には選ばれなかったが、試合に出る度に記録を縮めていると言う、日本スケート界期待の星である。
「コーチ。わりぃけど、俺はコンマ1秒を争う世界にどうしても興味が持てないんでね」
「そのコンマ1秒をあっさり縮める事の出来る奴が、そんな贅沢を言うもんじゃない!お前のその黄金の足を喉から手が出るほど欲している奴が、世の中にどれ程いると思うんだ?」
「何と言われても、俺の決意は変わりませんよ。元々俺は体力作りと運動神経を養う為にスケートをやってただけなんだ。別に嫌いなわけじゃねえけど、それ程入れ込んでたわけでもない。もうこれ以上スケート競技を続けるつもりはありません」
夕闇が迫る中、新一はスケートクラブを出て家路をたどっていた。
「多分、かなり叩かれるだろうな・・・」
新一の口から苦笑いと共に言葉が漏れる。
マスコミや世間は、将来有望である筈の新一が「コンマ1秒の争いには興味がない」とあっさりスピードスケートの世界を捨ててしまった事を、面白おかしく書き立てるだろう。
今年、世界選手権の代表に選ばれなかった位で、あっさり諦める情けない男だと陰口を叩かれるかも知れない。
しかし実は新一としては、下手に結果を残し始めた方がこの世界から抜けられないと考え、まだ今なら引き返せるという思いがあった。
スポーツ万能で何でもこなせる新一が、今迄スケートを続けて来た動機、それを知られたらそれこそ世間やマスコミは驚愕するだろう。
彼がスケートを続けてきた理由は、ある少女との思い出だったのである。
「蘭は、この世界には居ない、か・・・」
新一はため息を吐きながら呟いた。
新一がまだ幼かった頃、毎冬訪れていた長野の祖父母宅の近くに、小さな湖があった。
冬場は凍って格好の天然スケートリンクになるので、新一は毎冬田舎でスケート三昧の日々を送った。
あれは、新一がまだ小学校に上がる前である。
スケートリンクで、いつも顔を合わせる地元の顔馴染みのメンバーと違う少女を見かけた。
たった1人で寂しそうに、俯いて佇んでいる少女。
その可愛さと憂いを秘めた瞳に、新一はひと目で恋をしていた。
「オメー、どうしたんだ?最近引っ越してきたのか?」
声をかけた新一に、少女は瞳を向けて、頭を横に振る。
「ううん、お爺ちゃんの家がこの近くだから・・・でも、お爺ちゃんもお婆ちゃんも・・・お母さんも忙しいから、私1人でここまで遊びに来たの」
「じゃあ、俺と一緒だな。俺も、毎年お爺ちゃんの家に遊びに来てんだ」
少女がじっと新一を見詰める。
その大きくつぶらな黒曜石の瞳には、どこか翳りがあり、新一は胸が痛むのを感じていた。
「俺は新一って言うんだ。君は?」
「わたし・・・?蘭よ」
「よし、蘭!せっかくスケートに来てんだ、滑ろうぜ!」
新一が殊更に明るくそう言うと、蘭と名乗った少女は目を伏せた。
「でもわたし、スケートってやった事ないの・・・」
その言葉を聞いた新一は思わず蘭の両手を取った。
「来いよ!俺が教えてやっからよ!」
「ええ?でもっ・・・」
「ホラ!」
半ば強引に手を引く新一に、蘭もおずおずと付いて歩く。
「きゃああっ!」
氷の上に立った途端に、蘭はバランスを崩し、倒れそうになる。
それを新一が支えようとしたが、一緒に引っ繰り返り、蘭は新一の上に重なる格好で尻餅をついていた。
「し、しんいちっ!だいじょうぶ!?」
蘭は慌てて新一の上からどこうとするが、バランスが取れずにまた引っ繰り返りそうになった。
それを新一が上手に捕まえて引き寄せる。
新一は、自分も尻餅をついた格好で、その上に蘭をかかえるようにしてふわりと抱きしめた。
「大丈夫。こけそうな時は逆らわずに、できるだけお尻から落ちるようにするんだ。そうしたら、大きな怪我はしないから」
「しんいち?」
「怖がらないで。こけてもいいんだから。みんな何回もこけながらうまくなって行くんだ」
そう言って新一は蘭をゆっくりと立たせた。
「まず、滑るより先に、バランスを取って、立つんだよ。そうそう・・・足先を広げて、八の字型にして・・・」
新一は、昔自分が親から教わった通りに、ゆっくりと丁寧に「氷の上に立って、歩く」事から蘭に教えて行く。
最初は怖さのあまり縮こまっていた蘭が、少しずつ表情も和らぎ、落ち着いて氷の上に居られるようになって来た。
「蘭ちゃ〜ん、ら〜〜〜ん」
遠くから蘭を呼ぶ声が聞こえ、2人はハッとなる。
もう辺りは薄暗くなっていた。
2人がスケートの夢中になっている間に、かなり時間が経ったものらしい。
「おばあさん、ここよ〜」
蘭が叫んだ。
「もう遅いから帰りなさ〜い、晩御飯だよ〜」
蘭は駆けて行こうとして、新一を振り返る。
「しんいち、今日はスケートを教えてくれて、ありがとう。とってもうれしかった」
「・・・明日、またここに来る?」
新一は喪失感を感じながら、そう問うた。
蘭は大きく頷く。
「うん!明日もここに来るよ」
その答えを聞いて、新一の胸は躍りだす。
「じゃあ、明日もスケートを教えてやっから。きっと来いよな!」
「うん、わかった!また明日ね!」
そう言って、蘭は駆けて行った。
新一の胸に何とも知れない暖かいものが満ちていた。
顔がにやけているのを自覚しながら、新一は祖父の家へと帰る。
近くの小さな湖でスケートが出来る以外は、何も面白いものはないと思っていた長野の祖父の家が、急に彩り豊かなものに思えてきたのだった。
子供の順応力は早い。
毎日天然のリンクに通う内に、危なっかしかった蘭の足取りはしっかりしたものになり、数日後にはすいすいと滑れるようになって行った。
それと同時に、蘭は花がほころぶ様な笑顔になって行く。
新一は、蘭の笑顔に見とれながら、一方で、自分が蘭より優位に立って教え続ける為に、自然と自分の練習にも身が入るようになって行った。
2人とも、地元の子達ともそれなりに仲良く過ごし、大勢で一緒に滑る事もあったが、2人だけで仲良く滑る事が圧倒的に多く、時には地元の子達からやっかみ半分からかわれる事もあった。
新一は、からかわれようとどうしようと、蘭と2人でいる事がとても楽しかったので、いつも朝早くから湖に通っては、蘭の姿を探すようになった。
ある日、いつものようにスケートリンクに行くと、蘭が泣いていた。
新一は思わず蘭に駆け寄って聞く。
「蘭、どうした?」
「明日、お家に帰らないといけないの・・・」
新一は息を呑む。
しかし冬休みは終わりに近付いていて、本当に別れの日は迫っているのであった。
「お家に帰るのはうれしいけど、新一とお別れするの、悲しいよ・・・」
そう言って泣く蘭を見て、新一の胸もつぶれそうだった。
「蘭・・・」
蘭と離れたくない、ずっと一緒にいたい・・・その気持ちは新一にもあった、すごく強かった。
けれど、ほんの子供の新一と蘭がずっと一緒にいたいと言ってもそれが叶わない事は、子供心にわかっていた。
新一は黙って蘭を抱きしめた。
蘭は新一に縋ってしゃくりあげて泣いていた。
「蘭。来年も、ここに来るだろ?そしたら、また一緒に滑ろう」
「ほんと?来年も、一緒に?」
「ああ。来年も、再来年も、その次の年も、ずうううっと」
「ほんとにほんと?ずっと蘭と一緒に滑ってくれる?」
「ああ、大人になっても、一緒に滑ろう」
「約束だからね、大人になっても、ずうっとずうっと一緒にすべろうね」
「ああ、約束。忘れるなよ」
蘭が右の手袋を外し、愛らしい小指を出してきた。
新一も自分の手袋を外して、蘭の小指に自分の小指を絡める。
それから新一と蘭は、冬が来る度に長野で会い、小さな湖で一緒に滑って遊んだ。
別れ際に必ず、「ずっと一緒に、大人になっても一緒に滑ろう」との約束を交わして。
決して忘れないように指切りをして。
けれど、小学校3年になった冬。
蘭はその湖に来ていなかった。
次の年も、その次の年も、蘭が長野のその湖を訪れることはなかった。
新一は、まだ幼かったとは言え、連絡先も苗字も聞かなかった事を心底後悔する事になる。
そして新一が自分の恋心を自覚したのは、蘭と会えなくなってしまった後の事であった。
新一は成長しても、スケートを続けていた。
リンクが少なくなる夏場にはローラースケートを行い、本格的に練習を積んだ。
中学校に上がる頃には試合で優秀な成績を収めるようになり、知名度も上がり、オリンピックや世界選手権での候補にも挙がるようになった。
一方で新一は、各種の選手名簿に目を通し、新一と同学年の選手の中で蘭の名を探した。
何人か名前でヒットするとどんなに遠方の相手でもすぐに調べたが、「あの」蘭ではなかった。
蘭は、幼い頃の約束をもう忘れてしまったのだろうか?
スケートは続けていないのだろうか?
新一はそう思う一方で、蘭はもしかしたらもうひとつのスケートの世界・フィギュアスケート界に居るのかも知れないと思い始めていた。
ただ、純粋に速さだけを競うスピードスケートと違い、フィギュアスケートで表舞台に出て来る事は非常に困難である。
学校のスケートクラブに所属している選手ならともかく、そうでなければ名簿にも上がっていないかも知れない。
そして、大学ならともかく高校の部活動では、フィギュアスケートのクラブというのは稀なのだ。
フィギュアスケーターは、殆どがクラブチームに所属している。
新一は、クラブチームを調べ始めたが、部外者にまでメンバーを教えてくれる所と言うのは、そうそうなく、裏の手を使ってもまだ蘭には行き当たらなかった。
「工藤君、もうスケートは止めたんでしょ?何でこんなに帰りが遅いの?」
新一は、自宅の門の所で声を掛けられて振り返った。
声を掛けて来たのは、茶髪で切れ長の目の美人・隣人の阿笠志保である。
「あのなあ・・・俺が何時に帰って来ようが、志保には関係ねーだろ?それに、止めたのはスピードスケートの選手であって、スケート自体を止めようとは思ってねえよ」
新一と志保とは幼馴染であるが、それぞれに忙しく、最近では顔を合わせる事すら滅多になかった。
「そう?私はどうでも良いんだけど・・・父と母が工藤君をフィギュアスケーターにしたいって気持ちはまだあるらしいから、もし良ければ父のクラブに入ってやってくれない?」
新一は、志保の言葉に返事をせずに考え込んだ。
志保がちょっと笑って言う。
「あら・・・即答しないって事は、脈ありなのかしら?父と母は、世界に通用するペアスケーターを育てるのが夢なのよねえ、あわよくば工藤君と私、って考えてるらしいわ。もっとも私はそんなの願い下げだけど」
志保の両親である阿笠博士・フサエ夫妻は、小さなスケートクラブを経営している。
阿笠博士は元々資産家で、アメリカ国籍のフサエ・キャンベルと恋に落ち結婚し、スケートクラブ経営に乗り出した。
フサエ・キャンベルは兄と組んでのペア・スケーターであったが、その兄が不慮の事故で亡くなってからは選手を引退し、今は後進の育成に力を注いでいる。
2人には、明美と志保という2人の娘が出来た。
明美はスケートは趣味程度にしかやらず、今は普通のOLをやっている。(結婚して、今も仕事を続けている)
志保は母親の才能を受け継いでスケート選手になったが、シングル志向でペアスケートには興味を持っていない。
新一は幼い頃からスケートが得意だったから、阿笠夫妻からはスケートクラブに入るようにと随分誘われた。
しかし新一は、「フィギュアには今のところ興味ねえから」とそれを断って来た。
もっとも、新一がそもそもスケートを続けていた理由を夫妻が知れば、おそらく仰天する事であろうが。
新一の父親・工藤優作は、国際的に名の知れた推理作家で、夫婦揃ってアメリカのロサンゼルスに移り住んでからもう2年以上になる。
新一は日本に残り、馬鹿でかい屋敷で1人暮らしをしている。
自分の身の回りの世話位はできるが、心優しい隣人夫妻には何かと世話になっていた。
その阿笠夫妻も蘭の存在は知らず、新一が日本にいる事に固執していた理由を知る者はいない。
「ねえねえ、工藤君、お願いがあるんだけど」
ある日の帝丹高校の昼休み。
推理小説を読み耽っていた新一は、クラスメートの鈴木園子から声を掛けられた。
「断る」
新一は言下に言い放ち、園子はむくれた。
「何よ〜、まだ何のお願いかも言ってないのにさ〜」
「オメーの事だ、どうせ合コンか何かの誘いだろ?」
「さすが工藤君、名推理!!」
園子がパチパチと手を叩き、新一は内心「バーロ、何が名推理だ、こんなのに推理力なんか必要ねえだろうが」と突っ込みを入れていた。
「ねえ、冗談抜きでお願い。どうせクラブやめたんだから暇でしょ?相手は白鷺女子高でさ〜、工藤君が興味ないのわかってるけど、面子が足りないのよ。それに、私『あの工藤新一を連れて行くわ』って約束しちゃったしさあ、工藤君のファンって子達が来るのよ。ここはクラスメートを助けると思って、お願い!」
新一は「クラスメートを助ける」気など毛頭なかったのだが、クラブをやめてとりあえず暇だったのは確かなので、園子の誘いに付き合う事にした。
行き先が「トロピカルランドのスケートリンク」という事で興味を引かれたのもある。
「来んじゃなかった・・・」
新一はグッタリとリンクサイドのベンチに座り込んでいた。
冬場のトロピカルランドスケート場は、芋の子を洗うように人が多くてのびのび滑るどころではない。
おまけに、ファンだという女達に無遠慮に囲まれて、散々だった。
結局新一は、滑っている間にはぐれた振りをして合コンの集団から抜け出し、目立たない隅の方のベンチで溜息を吐いていたのである。
その時新一の耳に、さわやかで綺麗で透き通った声が届いて来た。
「スケート教室Bクラスは、第2リンクですよ〜。こっちの方よ、間違えないでね」
このトロピカルランドスケートリンクでは、冬場には子供向けのスケート教室が毎年開催されている。
子供達を会場に誘導しているのは、新一と同じ年頃の少女だった。
長くサラサラの黒髪、黒曜石の瞳、桜色のふっくらとした唇、整った顔立ち。
スラリと細身で姿勢が良く、服の上からでも胸が豊かなのがわかる。
純真で清楚な美しさを持った少女。
新一は大きく目を見張った。
相手も視線を感じてか新一の方を見、そして目を見開いて動きが止まる。
新一が想像していた以上に美しく成長した、蘭との再会であった。
銀盤の恋人たち(1)に続く
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銀盤の恋人たち:プロローグ後書き
事の発端は、某サイト様のチャットに参加したことから。
maa様のサイトで、「手足腰企画」が発動した事は知っていました。
う〜ん、新一くんが蘭ちゃんに手取り足取り腰取りスケートを教え込む事からの連想ねえ。
面白そうだけど、私には無理だわ、と思っていました。
maaさんにも「私には無理です」とはっきり言いました。
「まだ時間があるので無理なんて言わないで下さい」と泣き付かれたけれど。
で、チャットではスケート新蘭の話で盛り上がり、フィギュアスケートのペアも面白そう、という話題が持ち上がっていました。
私は他人事と思いながら「でもそれだと完璧にパラレルね」などと言っていたのですが。
それが、どこをどうしてか、いつのまにか「私が書く」話に。
何故だ。何故こんな事に。(単に乗せられ易い性格だったらしい)
おねだり元は、じゅんぱちさんだったらしいです。
いや、「らしい」ではなく、チャットの過去ログを見ると確かにそうでした(・・・)。
おーっほっほっほ、じゅんぱちさん、この次はこちらからおねだりをして差し上げてよ、首を洗って待っててねvv
で、「白鳥の王子」もまだまだ先が長いのに、またもや新連載をする事に。(だって・・・フィギュアスケートをするパラレル新蘭で、短編なんて私には無理だっつーの)
けどまあ、あけさんから素敵なイラストを貰えたし、実は昔結構スケート漫画に入れ込んでた事があるので、楽しかったです。先は長いけど(泣)。
あけさんのイラストは、もう本当にツボでした、やられました!
私は「幼い頃の約束」は想定してたのですが、あの可愛い指切りの絵を見て、「これは是非チビ新蘭に指切りをさせなくては!」と張り切っちゃいました。・・・の割に大した内容にならず、すみません。
最初、阿笠博士も志保さんも出る予定はなかったのですが、そちらもあけさんの別の漫画に触発されて、出す事にしました。
他の人との会話で連想ゲームのように妄想が浮かぶのって楽しいですねえ。
ある意味地獄も見ますが。
で、この後は連載を2つ(某場所も含めると3つ)抱えた身で、新蘭オンリーに向けて本作りをしなければなりません。
自分で自分の首を絞めまくって、でもそれが楽しい私は、自分で気付いていないだけで既に病状が進行しているようです。
ちなみに、この話を書く為にいくつかのスケート漫画を参考にしましたが、大きく影響を受けたのは「銀のロマンティック・・・わはは」(川原泉さん)、「銀色の閃光(フラッシュ)」(ひだのぶこさん)、タイトルは「氷上の恋人たち」(ひだのぶこさん)からのパクリです。
多分、川原泉さんの「銀のロマンティック・・・わはは」はご存知の方結構居られると思うけど、ひだのぶこさんをご存知の方は殆ど居ないだろうな。