「Phalenopsis」でのまったりとしたひと時。
夕方の分の仕込みも終了して、皆で楽しむティータイム。
美味しい紅茶とお菓子を自分たちのために用意して。
厨房のイスに腰掛けながら、のんびりとした気分で過ごしていた。
「あ、和葉ちゃん。」
「何?蘭ちゃん。」
カチッと小さな音を立ててティーカップをソーサーに戻しながら蘭は和葉に話しかけた。
呼ばれた和葉は紅茶を口に含んでいる真っ最中で、飲む口を離しながらきょとんと返事を返した。
「来週の土曜日ね、お休みにしたから。」
「え?なんで?土曜日なんて稼ぎ時やん!」
「あ、えっとね。ちょっと用事があるの。」
「ふうん?じゃ、臨時休業?」
「うん。」
「ん〜・・・あたし空けよっか?」
「ううん。ここ最近、和葉ちゃんも忙しかったでしょ?ゆっくり休んで?」
「ほな・・・まあ。来週の土曜日やね?分かった。」
「ん。」
にこりと笑って蘭はほっと息をついた。
元来嘘の苦手な蘭。
平次との約束とはいえ、罪悪感が全くないわけではなかった。
和葉にとって、悪い話ではないものの、黙って・・・というのも気が引けるのだ。
鋭いとはいえ、もともと素直な性格の和葉は蘭の臨時休業という嘘を特別不思議に思うことなく受け止めた。
「じゃあ、俺も休みなのか?」
「うん、そうなる・・・かな?」
新一が気づいて、そう問いかけると蘭は、どこか歯切れの悪そうな答えを返した。
その隣では、志保がため息をついていた。
明日の自分の予定が決まったと思っているのだろう。
・・・・蘭はごまかせたと思ってるんだろうなあ・・・・。
新一は蘭の顔色を見ながら、目を細めた。
和葉と違って、疑い深い性格の新一だ。
蘭の子供のような嘘はすぐ分かる。
ふうっと一息ついた新一をよそに、和葉は楽しそうだ。
「ん〜・・何しようかな?土曜日やったら平次休みやし、久しぶりに映画でも行こうかなあ?」
「服部の奴、土曜なのに休みなのか?家庭教師とかは?」
疑問に思って新一が和葉に問いかける。
「うん。普段はな。せやけど今週連休やん?家庭教師しとる子、旅行行くんやって。」
「ふうん。」
新一は簡単に相槌を打って、話を終わらせた。
肝心の服部は、店の手伝いを終えて、家庭教師のバイトへと向かっている。
今日もいつもどおり、午後8時半きっちりにここへと現れるのだろう。
そう考えると不思議なカップルだよなあ?と思う。
幼なじみ同士で親同士が仲がいいと聞いた。
だがそれだけではなく、平次は和葉にベタぼれだし、和葉も平次を想っている。
だが、恋人ではまだないらしい。
マンションの隣同士に住み、休みの日には二人で出かける。
やっていることは、まるっきり恋人だ。
だけどまだ幼なじみのまま。
服部の奴、何がしたいんだ?
あ、でも和葉ちゃんも鈍いもんなあ・・・。
あそこまでのあからさまな奴の態度にまるで気づいてない。
・・・って、人の心配してる場合じゃねーんだよな、俺も。
鈍そうだなあとは思ってたけど、ここまでとはね・・・。
はあっと深いため息を吐き出した。
「ん?新一君どうかしたの?ため息なんてついて・・・・。」
「あ〜・・・いや、なんでもね〜・・・。」
ひょいっと気づいて尋ねてくる無邪気な蘭の顔を見てますます気分が落ち込みそうな新一だった。
今の言葉に「愛」やら「恋」やらってのは混ざってないだろうなあ・・・。
・・・・・。
やめやめ!
今更んなこと言ったところでどうなるわけでもないしな!
それより問題は、明日だ。
新一は、自分の感情をコントロールしてまず考えるべきところへ頭を切り替えた。
「全く。自分ひとりで捌き切れないなら従業員に臨時休業なんて与えないで頂戴。」
「Phalenopsis」から聞こえてくるのはどこか憮然とした志保の声。
すぐ隣では、光彦が「まあまあ、志保落ち着いて。」なんてなだめているが効果があるとは思えない。
「だって、服部君との約束だし・・・。それに有給休暇って考えれば、ね?」
蘭は機嫌の微妙に悪い志保をなだめようと必死だ。
「だからって、こんな人の多そうな日に限って休みを与えるなんてどうかしてるわよ!」
「大丈夫よ。土曜日だけど連休だからそんなに人は来ないわよ。」
「・・・知らないわよ、そんな事言って・・・。」
「え?どうして?」
あっけらかんと話す蘭に最早あきれたようにため息をつく志保。
蘭は意味が分からずきょとんとした瞳をしたまま、首をかしげた。
全く・・・・。
両親のためにもお店を繁盛させなきゃ!って常日頃から言ってる割に・・・・。
どうして店の評判って言うのを全く気にしないのかしら?
取材依頼はひっきりなしだし。
どこの雑誌にも載ってない割には口コミは凄いし。
普通のお店であんなに行列しないものよ?
全く気づけてないし。
どこをどうしたら、こんなに鈍感な子が出来上がるのかしら?
そういえば、恋愛関係もてんで鈍感だったわねえ・・・。
工藤君もかわいそうに。
ま、手を貸すつもりはないけどね。
「ま、いいわ。で?私は何をすればいいのかしら?」
ごちゃごちゃ言ったところで自分が蘭のお願いに逆らえないのは分かりきっている。
無駄な抵抗はやめたほうが得策だわ。
とは、長年の経験から培ったことだ。
最早諦めにも似たような深いため息をつきながら、志保は問いかけた。
そんな風に文句を言いながらも蘭に従う志保を見て、光彦は苦笑いを零す。
やっぱり叶わないなあ、蘭さんには!
僕は志保の手のひらで遊ばれている。
それなのに蘭さんは志保を自由に手のひらでころころと遊ばせている。
付き合いの差なのか、惚れた弱みなのか?
光彦には分からなかったけれども、ちょっとの嫉妬を蘭に持っているのも事実であり。
もしかしたら、お店を手伝うのを志保に頼むのは自分が付いてくるのを蘭は知っているのかもしれない。
そう思うこともしばしばだった。
もっとも、天然な蘭にそこまでの計算はない。
着々と店の準備が整っていく真っ最中に、店のドアが開いた。
「あ、すみませ〜ん!まだ開店前なんですけ・・・ど・・・・。」
蘭の声が店に響いた。
途中で途切れるまでは、いつもどおりに。
「ん?蘭、どうしたの?・・・・・あら。」
押し黙ったままの蘭を気にして志保が出てきて、同じように言葉を失った。
呆然としている蘭とは違い、意外でもなさそうに目の前の人物を視界に入れた。
「新一君・・・。」
ずっと黙ったまま、立っている新一に漸く蘭が口を開いた。
その声は震えていたけれども・・・。
「どういうコト?」
冷静な新一の声が店に響き渡る。
シンッ・・・とした店内。
店に置いてある、アンティークな時計だけが、静かに時を刻む音が規則正しく聞こえてくる。
蘭は、あからさまにうろたえている。
微かに青ざめても居るのかもしれない。と志保は思った。
「今日、休みって言ってなかったっけ?」
「あ・・・。」
新一の声。
いつもと同じはずなのに、どこか冷たく蘭には感じられた。
だから蘭は押し黙ったまま、その場に縫い付けられたように動かないままだった。
・・・意地が悪いわね・・・。
工藤君、理由分かってて、蘭を問い詰めてる。
蘭が工藤君を頼らずに私を頼ったことへの苛立ちからきているのかしらね?
黙ったまま、二人のやりとりを聞いていた志保は冷静にそう分析した。
「あ、だ、だからね・・・その・・・・。」
「・・・・。」
一向に何も言わない新一に蘭は勇気を振り絞って何かを言おうとする。
だが、何を言えばいいのか分からずにいた。
「蘭!こっちの仕込みどうするの?」
突然の志保の大きな声で、蘭は我に返る。
「あ・・・・。そ、それはランチの小鉢用のやつだから仕上げやるわ!」
新一を気にしつつちらちらと視線を向けながらも蘭は厨房へと消えていった。
新一は、その場に残され、軽く息を吐いた。
「意地が悪いわね。」
「・・・・宮野。」
視界に入ったシンプルな黒のエプロンと身近に聞こえた少し怒気を含んだ声にゆったりと視線を向けた。
「昨日から蘭のたくらみ、分かってたんでしょ?」
「・・・俺、そこまで鈍感じゃないつもりなんでね。」
「努めて怒ったような態度を取ったのは今日頼られたのが貴方でなく、私だった事への怒りかしらね。」
「・・・さあね。」
「ともかく、これから忙しくなるの。つまらないことで怒ってないで冷静に仕事して欲しいものだわ。」
最後にはどこか馬鹿にしたような声でそれだけを告げて志保は自分の仕事へと戻って言った。
その場に一人残された新一。
僅かに肩が震えている。
志保の図星に怒りが収まらない。
分かってるよ・・・・。
昨日、俺が「明日休み?」と問いかけたとき、言いたげな瞳を蘭が見せたことも。
和葉ちゃんの前で俺だけ出勤なんていえるわけねーって事くらい。
一旦休みと告げた以上、撤回の電話をわざわざかけてくるような奴じゃないことも。
ただの従業員の俺じゃなく、幼なじみの宮野にピンチヒッターを頼むことくらい。
・・・みんな、分かってるさ。
だけど俺は・・・なりたいんだよ。
困ったときには真っ先に俺を思い出す。
オマエの中でそんな存在に・・・・なりたいんだよ、蘭。
新一は、厨房の中でせわしなく動き回る蘭をずっと見つめていた。
一方の蘭も、いつもは集中できる調理にいつものような集中力がないことに気づいていた。
新一君、怒ってた・・・・。
そりゃ、怒るわよ。
何にも言わずに黙って勝手なことして・・・・。
え?でも待って?
久々のお休みなのよ?
しかも連休の土曜日。
お休みをもらえて嬉しくないの?
馬鹿ね。
新一君は責任感が強いのよ!
なのにそのプライドをつぶすようなことをしたから怒ってるのよ!
謝りたい・・・。
こんなことで新一君と気まずくなるなんて・・・・嫌。
せっかくこんなにもお話できるようになったのに・・・・。
新一君に嫌われるのが・・・怖いよ・・・。
蘭は自分の心の変化には気づかなかった。
確実に大きくなっていた新一への想い。
それが自覚出来る絶好のチャンスではあった。
新一にとっては待ちに待った展開になる。
・・・はずだった。
事件の幕開けはもう、そこまで来ていた。
お、おかしい!今回のお話は平和なのよ!!
新一の機嫌が悪くて、蘭ちゃんが異様にびくついてて・・・。
蘭ちゃんはまだ育ち中の恋心には気付けてません。
そんなに早く新一に良い思いはさせません(爆)。
ひっぱってますが・・・事件っていってもそんな対したことじゃないのです。