大好きな、大好きな人がいる。

 真っ直ぐに前を見つめる凛とした目。
 自信に溢れた姿。
 苦境を跳ね飛ばす不敵な笑み。

 私は、何をやっても上手く行かない不器用な自分に自信がなくて、恥ずかしさで俯いてしまうのに。

 だから私の見える世界は自分の足の爪先。そして自分の影で切り取られた平らな暗い地面。


 でも。あなたは違う。

 あなたの目には、この世界は一体どういう風に映っているんだろう。



『Another World』



 晴れ渡った空、真っ白い雲。
 心地良い陽気に道行く人の足取りが心なしか軽く見える、そんな日なのに。
「う〜…」
 竜崎桜乃はしかめっ面で壁に手をついていた。
「痛い…」
 なんとなく顔色の優れない桜乃は、白い額に脂汗を浮かべ、半ば呻くようにそう呟いた。
 既に1時限目が始まっていて登校者の列も絶えている為に、そんな桜乃の様子を気にかけてくれるような通りすがりの人はいない。
「…保健室……」
 ヨロヨロと壁に手をつきながら、歩くというよりも這うような速さで、重い足を引きずりながらなんとか自力で前に進む。
 数歩進んでは休んで息を吐き、数歩進んではまた休んで息を吐くが、一歩一歩進むごとに脳天に鈍い痛みが突き刺さり、微かな嘔吐感に襲われる。
 歩き出してから10分ほど経ったような気がするのに、まだ数メートルしか進んでない。
「…保健室って…こんなに…遠かったっけ…」
 あまりの疲労感に、はあはあと大きく肩で息をして、暫く休んでからまた一歩進もうと、まず、手を壁伝いに前にやる――と、そこで壁が途切れてしまっていた。桜乃の手が空を掻く。
「わっ…!!」
 前のめりに倒れそうになるのを、かろうじて残りの手でふんばって堪えた桜乃は、ほっと胸を撫で下ろして思わずその場に座り込んだ。
 誰も通らない今、自分で行かなきゃ、自分で動かなきゃとは思うが、足が言う事を聞いてくれなかった。
 壁がなければ、先に進む事はできそうにない。
「どうしよう……」
 熱を帯びた自分の足を押さえながら桜乃がそう呟いた、丁度その時。
「…どうしたの?」
 聞き慣れた声が頭上から降ってきた。
 見上げると、身を屈めて覗き込んできている男と目が合った。
「……リョーマ…くん…?」
「なんで朝っぱらからそんな泣きそうな顔してんの?……って、何……怪我?」
 リョーマは桜乃の手の先を目で追って、眉を顰める。
「…捻挫?」
「あ…うん…。さっき転んで……ひねっちゃったみたい……。そんなことより、リョーマ君……また遅刻?」
 桜乃とリョーマがいるのは、校門を入ってすぐの所である。
 もう1時限目が始まっているのにこんなところにリョーマがいるということは、多分そうなのだろう。
 案の定、リョーマは憮然とした顔で肯定する。
「…そーだよ。悪かったな、また、で…」
「あ、いや、その…そーゆー意味で言ったんじゃ…」
「…でも今日は遅刻して良かったかな」
「へ?」
「オレが遅刻しなきゃ、竜崎はここでずっと座り込んだまま過ごすとこだっただろ?」
 リョーマはそう言ってしゃがみ、くるりと桜乃に背を向ける。
「おぶされよ。保健室まで運んでやるから」
「えぇっ!?いっ…いいよ!そんなの…悪いよ…」
(だっておぶってもらうなんてそんなっ…!!)
 申し出は嬉しかったが、それよりも恥ずかしさが勝って、とてもそんなことは出来ないと桜乃は首をぶんぶんと降った。
 うろたえる桜乃に、リョーマは半眼で問い掛ける。
「ふーん……じゃあ、一人で保健室行けるんだ?」
「うっ…」
 座り込んでいる今は大分マシだが、先ほどの壁伝いに移動していたときの辛さを思い出して、桜乃は言葉を詰まらせる。
 そんな桜乃を見て、リョーマは小さく息を吐いた。
「無理だろ?だから…ホラ」
「………人に…見られたら…」
「こんな時間だから、誰も通らないよ」
「……えっと…………お……重かったら降ろしていいから…」
「…りょーかい」
「しんどくなったら言ってね、降りるし…」
「…はいはい」
「………あ、やっぱり…」
「…いーから、早くしろよ」
「ごっ…ごめんなさい」


「お…重いでしょ!?ごめんね、ごめんねっ!」
「いいって言ってんのに…。別に重くなんかないし。それより、しっかり捕まってないと落ちるよ」
「しっ、しっかりったって…!!」
 早鐘のような自分の鼓動の音がリョーマに聞こえてしまいそうで、桜乃は手をリョーマの肩に置いて、僅かに身を反らしていた。
 リョーマに触れられているというだけで心臓がパンクしそうなのに、今よりもさらに体を密着させるようなことは出来る筈もなく、桜乃は狼狽しきった声を上げた。
「……まあ、いいけど。しっかり捕まってくれた方が、オレとしてはもっと軽くなっていいんだけどね」
「う……」
 そう言われては、リョーマの言う通りにするしかない。
 桜乃は恐る恐るリョーマの首に腕を回した。
「じゃ、行くよ」
 桜乃が捕まったのを確認し、さして人一人を背負っているような負担を感じさせない足取りで、リョーマはてくてくと歩き出した。
 桜乃は、自分の体に流れる血が沸騰しているような感覚に襲われる。きっと、茹でダコのような顔をしていることだろう。
(顔が見えなくて良かった)
 桜乃はほっと息を吐く。
(でもきっと、この音は聞こえてるよね…)
 桜乃は、自分の胸の内でトクントクンといつもより倍以上のスピードで波打つ鼓動を、耳元で感じていた。リョーマは背中で感じ取っていることだろう。
 そう考えるとあまりにも恥ずかしくなってきて、桜乃はぎゅっと目を瞑る。
 すると、不意に。
「……桜」
 リョーマがぽつりと呟いた。
「……え?」
 桜乃がそう聞き返すと、リョーマが短く答える。
「桜、咲きそう」
「あ…ホント」
 見上げると、ついこの前まで固い冬芽が寒さに耐えていたような気がするのに、校門から校舎まで続く道際に植えられた桜は、今や薄ピンク色の蕾をたくさん付けていた。そして、その内のごく僅かな数の蕾が、訪れかけている春を待てずに、その花弁を開こうとしている。
「よく、あんなの見つけられるね」
「オレ目がいいから」
「そんなもんかな…」
 桜乃は言って、桜から目を逸らした。
 すると、一瞬、いつも見慣れていたはずの景色が、何か見知らぬものに見えた。
 同じなのにどこかが違う。
「…………………」
 桜乃は瞬きを繰り返す。
 しかしまだ拭えない違和感。
「……どうしたの?」
 リョーマから肩越しに声をかけられ、桜乃はふと気付いた。
「声…」
「ん?」
「そういえばリョーマ君、声、全然変わったよね」
「え?…そりゃ、声変わりしたからね」
 桜乃とリョーマが初めて会ったのはお互いが11才の時。
 それから既に3年。
 あの頃の少し澄ましたような少年の声は、いつの間にかどこかに消えてしまっていた。
「……早いなぁ」
「何?声変わりが?」
「ううん、そうじゃなくて…時の経つのが」
 桜乃がそう呟くと、リョーマがくすりと笑った。
「何言ってんだよ。年寄りみたいに」
「だって……」




 私は何も変わってない。
 声然り、髪型然り。
 臆病な性質だって何も変わらない。
 人と喋る時に俯いてしまう癖も治らない。
 不器用なんて、一層酷くなっている気さえする。

 リョーマ君に近づきたいと思って始めたテニスだって、そんなに上手くない。


 でもリョーマ君は、声が変わったように、時間が経つのに伴って確実に変わっていってる。
 テニスだって、高校テニス界はおろか、世界も注目し始めているくらい。

 私だけが取り残されている。
 孤独感。疎外感。

 どんどんリョーマ君が遠くなっていく。
 手の届かない所へ行ってしまう。

 ―――追いつかない。




「…竜崎」
 桜乃は、リョーマの声ではっと我に返る。
「何?リョーマ君」
「竜崎ってさ…縮んだ?」
「…縮む?」
「……なんか小さくなった…気がする」
 首を傾げるリョーマに、桜乃はぷっと小さく吹き出す。
「違うよ、リョーマ君の背が伸びたんだよ」
 言って、桜乃は違和感の正体に気が付いた。

 いつもと違う景色、いつもと違う世界。
 これは――――。

「…これ、リョーマ君の世界だ…」
「は?」
 リョーマが怪訝そうに問い返す。が、その声は桜乃の耳には入ってこなかった。


 視点が変わるとこんなに違うのかと、桜乃は感嘆の吐息を漏らす。

 会った時には、身長は同じくらいだった。
 同じ視点で同じ世界を見ていたはず。
 それなのに。
 リョーマ君は、いつから、こんな高いところから世界を見てたんだろう。


 桜乃は試しにまっすぐ前を向いてみた。
 空が見える。
 果てしなく続く空。ずっと目で追うと、立体だか平面だか分からなくなる。
 自分の爪先なんて見えない。
 地面が視界を占めることなんてない。
 地面は、自分の前に続いていくただの足場。


 影で占められて暗かった自分の世界。
 それとは段違いに、今見える世界には四方八方からの光が溢れていた。

 広い世界。
 新鮮な世界。



「すごい……」
「…何が?」
 問い返してみるも、やはり桜乃からの返事はない。
 変わりに、不可解な言葉が返ってくる。
「リョーマ君は…こんな大きい世界を見てたんだね」
「…?」
 リョーマはますます分からなくなって、しきりに首を傾げる。
 しかしそんなリョーマに構わず、桜乃は知らないうちに、リョーマの体に回した腕にきゅっと小さく力を込めていた。



 ―――私が知らないうちに、リョーマ君は、どんどんどんどん、上へ行っちゃうんだ。

 ずるいよ、リョーマ君。
 一人で変わっていっちゃうなんて。

 声が変わって、背が伸びて。
 そういえば、肩幅も大きくなった?
 手も大きくなった?

 制服がきつそうだもんね。
 カッターの袖が上着からはみ出てるよ。
 ズボンの裾も短くて、足首見えちゃってる―――


 桜乃は淋しさと可笑しさが入り混じった複雑な気分で、くすっと笑った。
「…?」


 どんどん変わっていく大好きな人。
 どんどん遠くなっていく大好きな人。
 どんどん―――手が届かなくなる。


「……………?」
 あれだけ背負われるのを嫌がっていた桜乃がしっかりと腕を回してくるもんだから、リョーマは怪訝そうに眉を顰めた。
 その時、桜乃がリョーマの耳元で呟く。
「リョーマ君」
 口元には笑みが浮かんでいる。少し悲しげな笑みが。
(リョーマ君の大きくて広い世界を少しでも感じたいから、私はもう俯かないようにするね……だけど、きっと…リョーマ君には…)
「いつまでも………追いつけない…けど…私、ずっと…」
 途切れ途切れの言葉が段々先細る。
 最後の言葉が音にならず、桜乃は、胸中で呟く。
(…リョーマ君のこと、大好きだから)
「ずっと…何?」
「…なんでもない…」
 消え入りそうな声が、かろうじてリョーマの耳に届いた。


 桜乃は、背負われていて本当に良かったと思った。
 だってこの体勢でいる限り、リョーマに顔を見られることはないのだから。


 桜乃は、目に溜まった涙が保健室につくまでに渇きますようにと、心の中で祈った。

<了>



※あとがき※