「やりぃ、一番乗り〜…ってあれぇ?乾、もう来てんの?早いね」
 勢い良く視聴覚室の引き戸を開けて騒がしく飛び込んできたのは、言わずと知れた菊丸英二。
 乾は英二の方を見ることなく、作業の手を止めずに答える。
「みんなが来る前に、色々と用意しておかなくちゃいけないからね」



『雨の日の正しい過ごし方』



 外はバケツの水をひっくり返したようなどしゃ降り。放課後とはいえ、まだ日暮れには程遠いのに、蛍光灯を点けていてもどことなく暗い雰囲気がわだかまる。
 そんな日に外でテニスなど出来るはずもなく、レギュラー以外の部員は、今日は急遽オフになった。それに対しレギュラー陣は、明後日に行われる試合での相手校の研究会を開くことになった。
 その資料として、乾が撮影してきたビデオでも使うのだろうか、乾が8ミリビデオカメラやビデオデッキ、デジカメ等、様々な機器を手際よくセッティングしていく。
「竜崎先生は?」
「ちょっと用事を思い出したとか言って、ついさっき出てったよ。すぐ戻るって言ってたけど?」
 乾がてきぱき準備していくのを、英二は机の上にあぐらをかいて眺めていた。
「…英二、ヒマなら手伝えよ」
「オレ機械音痴だから無理」
「嘘つけ。お前パソコン使えるくせに」
「あはははは」
 視線を宙に泳がせて笑う英二に、乾はため息をついた。
 そんな乾に構うことなく、英二は不意にニヤっと笑う。
「まあ、それはさておき」
 こういう笑い方をするときは、何かを企んでいる時だ。
 乾はそう考え、手を止めて英二を見た。すると。
「面白い事思いついたんだけど」
 案の定、英二がそう言う。
「何だ?」
 乾が律儀にそう問うと、英二はピョンと机の上から降りて、黒板消しを手にとった。
「これをドアに挟んでさ…」
「……今時そんな古典的なトラップ…」
「だからこそ引っかかる奴がいるかもしれないじゃん?」
「………………」
「なあ、誰がひっかかると思う?」
 馬鹿らしいと思いながらも、なんとなく手塚が引っかかったら面白いかもしれない、と思う乾。しかしそれは口に出さない。変わりに、当り障りの無い答えを返す。
「…さぁ?まあ…でも、桃は確実にひっかかるだろうな」
「試してみようぜ♪」
 言いながら、英二は黒板消しを持ってがらりとドアを開けた。
 すると、そこには不二の姿があった。
「うわっ!!」
「っ!?…び、びっくりしたぁ…」
 ドアの向こうに人がいると予想だにしなかった英二が上げた声に驚いた不二は、手を胸に当てて大きく息を吐く。
「心臓に悪いよ、英二」
「ごめんごめん」
「…………」
 謝罪する英二。そしてなぜか沈黙する不二。
 何も言わない不二を怪訝に思い、見やると、不二の目線は下の方――英二の手元に行っていた。
「…なんで黒板消し持ってんの?」
 きょとんと見返してくる不二に、英二はニヤリと笑いながら、先ほど乾と話していた事柄を喋る。
「へぇ、面白そうだね」
 不二が明るい声で答えた。その様子を見て、乾が呟く。
「……不二、”手塚が引っかかったら面白い”と考えているだろう」
「え?乾、なんで分かったの?」
「…もういい」
 乾が疲れたような声で答えるが、3-6の二人は全く気に介しなかった。
「そう?…じゃあ英二、早速やってみようよ」
「オッケーオッケー★」



CASE1>
 ばたばたばた。
 やたらと忙しげな足音が徐々に視聴覚室に近づいてくる。
「…これは桃だな」
「桃だね」
「桃かあ」
 乾と不二と英二の三人がドアと、ドア枠の間に挟まれた黒板消しを凝視する。
 三人の思いは同じ。

 ”桃は絶対ひっかかる”

 そして足音が最大にまで近づいて、一瞬ぱたりと足音が止み、そして…。
 がらり。
「ま…」
 一言だけ発した桃城の頭に。
 ぱふんっ!!
 案外大人しい音で黒板消しが垂直落下した。
「うわッ!?」
 声を上げて、自らの脳天を経て床に落ちた黒板消しを見やる桃城に、英二が指を突きつけて大笑いする。
「や〜い、引っかかった引っかかった!!」
「予想通りだな」
「………予想通りでつまらないなあ…」
 三者三様の反応の仕方に、桃城は一瞬呆然としていたが、やがて我に返る。
「……これ…先輩方が…?」
 おずおずと尋ねてくる桃城に、英二はこくんと頷く。
「そ。誰が引っかかるかなーって思って」
「桃は引っかかるってみんな予想してたよ」
「本当に引っかかるんだもんな〜。いやー、桃って純粋でいいね」
「純粋…というか単純だよね」
『………………』
 不二の言葉にぴしっと固まる他三人。
「も…桃は他に誰が引っかかると思う?」
 空気の重さに耐え切れず、英二が慌てて少し引きつった笑顔を浮かべながらそう尋ねると、桃城ははっと我に返ったように目を瞬かせる。
「あ…そうっスね〜…。案外越前とか引っかかるんじゃないっスか?」
「おチビね。引っかかったら面白いよな」
「でもその前に、海堂のヤツとか引っかかったら、オレ的にはちょー面白いっス」
「海堂か〜」
 首を傾げて少し考える様子を見せる英二。
 しかし、その肩をぽんぽんと叩く者がいた。
「にゃに?」
 振り向くと、乾がドアのほうを指差していた。
「もうそこにいるよ、海堂」
 言われて見ると、床に落ちた黒板消しを怪訝そうに一瞥し、拾って、床についたチョークの汚れを律儀に雑巾ではたこうとしている海堂と目が合った。
「…俺はこんなのにはひっかからないっすよ。そこのバカとは違うんで」
「ンだとコラァ!?」
「……ここで喧嘩は止めてくれよ。機器が壊れたら困る」



CASE2>
 悠然とした足取りの、すたすたと身の軽そうな足音が近づいてくる。
「あれは越前かな」
「越前だろうな」
 桃城の言葉に乾が頷く。
 海堂が拾った黒板消しを奪って新たに設置しなおしたトラップを、桃城と3年生の三人はじっと見る。
 海堂は興味なさそうに息を吐いていたが、やはり気になるのか、横目でちらちらと見ていたりする。
 がらり。
 ドアが開き、リョーマが一歩踏み出す。
 誰もが、”引っかかった!!”と内心喜んだが、直感で何かを感じとったのか―――重力に引っ張られて落ちてくる黒板消しに気付いたのか、部屋の中の異様な雰囲気に何かを感じたのかは定かではない―――リョーマは踏み出した一瞬後に素早く身を引いていた。
 黒板消しがリョーマの体から数cmしか離れていない所を勢いよく垂直落下し、床に当たって景気良い音を立てる。
「………………」
「うん、さすが越前」
 不二がにこやかに笑う。
 何が流石なのか良く分からないリョーマはぼけっと先輩たちを眺める。しかし。
「ちっ!越前は引っかからなかったか!!」
 舌打ちして指を鳴らす桃の台詞で、リョーマはようやく自分の身に何が起こったのか合点がいったようで、むっと不機嫌そうに眉根を寄せた。
 が、ふと、薄白く染まった桃城の頭に目が行き、リョーマはにやりと笑った。
「なんだ、桃先輩、引っかかったんだ。こんな子供だましなトラップに」
「わ、悪かったな!!」
「悪かないっスよ。ただバカだなって思うだけで」
「………お前、やっぱ俺のこと先輩だと思ってないだろ」



CASE3>
「次は誰が来るかな?」
「そういえば大石は?こういう集まりに遅れることなんて滅多に無いのに、まだ来てないね」
「ああ、大石は担任に用があるから、もしかしたら遅れるかもって言ってた」
 英二と不二の会話を横で聞きつつ、桃城やリョーマ(+海堂)は大石が黒板消しのワナに引っかかっている様を思い描いていた。
 引っかかる所も引っかからない所も想像できる、中々に予想を立てるのが困難な人である。
 そうこうしているうちに、一つの足音が視聴覚室に近づいてきた。全員のおしゃべりがぴたりと止む。
「…大石かな」
「大石だろう。手塚は委員会の用事があるから確実に遅れると言っていたからな」
 こそこそと英二と乾が言葉を交わした直後、がらりとドアが開いた。
『!!』
 期待の篭もった眼差しでドアを見つめる6人だったが。
 大石はドアに手をかけたまま、廊下側で立ち止まっていた。床の上には黒板消し。
 どうやら黒板消しのトラップに気付いて、先に黒板消しを落としたらしい。
『………………』
「……大石のバカ〜」
「あ、ごめん…引っかかって欲しかったの?」
 頬を膨らませて不満を表す英二に、大石は反射的に謝った。


CASE4>
「残るは手塚と河村か…」
「あ、河村は今日は風邪で休んでたよ」
「そーなの?大丈夫かなぁ?」
「この時期の風邪はしつこいからなぁ」
 黒板消しをセットし、口々に話す乾や不二や英二を見て、大石がため息をつく。
「…手塚がこんなのに引っかかると思うのか?」
「もし引っかかったら面白くない?」
「…………」
 大石はにこにこと言い返してくる不二に少々戦きながらも、手塚が黒板消しのワナにはまってる様を想像する。
 そして一瞬、面白いかもしれないという意識に囚われる。
「うっ……」
 大石は小さくうめいた。
(ごめん、ごめんよ手塚…!!俺も面白いかもって思っちゃったよ……)
 苦悶する大石の気など露知らず、さほどもしないうちにばたばたと足音が近づいてきた。
 足音の主はよほど急いでいるのか、猛スピードで足音が近づいてくる。
(手塚(部長)か!?それとも竜崎先生!?)
 全員が興味津々で、ばっとドアのほうを振り向く。
 直後、がらりとドアが開いた。
「すまない、遅れた…」
 ぱこんっ。
 可愛らしい音を立てて、息せき切って教室に入ってきた手塚の頭に黒板消しがクリーンヒットした。
「……………」
「ぶっ……」
 英二が吹き出しかけたのを合図に、可笑しそうな笑い声がどっと沸いた。
「手塚が引っかかった〜!!」
「手塚…いいデータが取れたよ」
「面白いのが見れて良かったよ、手塚」
「部長もやっぱ人の子なんスね!!」
 海堂やリョーマはさすがに何も言わなかったが、こっそりと可笑しそうに肩を震わしていた。
 大石はというと、面白くて笑いたいが、手塚に対する罪悪感が先に立って素直に笑えないような、そんななにやら複雑そうな表情を浮かべていた。
 手塚がそんな全員を見回し、わなわなと肩を戦慄かせる。
「…全員グラウンド…!!」
 いつも通りの台詞を言いかけた手塚に――。
「外は雨だよ、手塚…」
 大石がぽつりと言う。
 手塚は、眉をぐっと顰めて一瞬黙考した後、右腕一杯振り上げてドアの向こう、廊下を指差した。
「…校舎内10周!!」
 ずる。
 横で大石がコケたのは言うまでもない。


<了>



※あとがき※