『僕たちがいるトコロ』



 三年生たちはこの一週間、毎日がレクリエーションの繰り返しだった。
 青学はほぼ全員がそのまま高等部へ進学するので、お互い別離を惜しむ気持ちなど更々無いのだが、やはり中学三年間が終わるという寂寥感はどこかにあるのか、最後の中学生活を噛みしめるように、毎日のレクリエーションを楽しんでいた。
 しかしそんな中、その日は学校側の予定により、一日中が掃除に当てられていた。卒業生が、三年間お世話になった校舎に感謝を込めて大掃除をする日…ということだった。
 もちろん一、二年生はまだ授業をしているため、彼らの授業の妨げにならない範囲での掃除であったが。


(拭いても拭いてもなかなか綺麗にならないなぁ…)
 不二は黒くなった雑巾の面を内側に織り込んで、また再び靴箱をごしごしと雑巾でこする。
 いい加減掃除も飽きた、と思い始めたその時。
「まあ…3年間分の汚れが溜まっているからな」
 いきなり背後から声が降る。
 驚いて振り返ると、乾が搾った雑巾を片手に立っていた。
「あれ、乾。なんでいるの?」
「俺もここの掃除割り当てられた」
「そっか、11組の分ね」
「そういうこと」
 二人は、各クラスで、昇降口の掃除を割り当てられていた。
 自分のクラスの靴箱を掃除するように担任から言われていたことから察するに、他クラスでも同じように自分のクラスの靴箱掃除が割り当てられているのは当然のことだろう。
「3年ってあっという間だったような気がするのにな。ちゃんと汚れは溜まっているもんだよ」
 乾は自分の雑巾を広げてみせ、何度洗っても汚れが落ちないんだと不二に告げる。
 不二は小さく、そうだね、と答えた。

 青学に入学してから今まで、たくさんのことがあった。
 クラブのこと、行事のこと、友達のこと。時には恋愛のこと、自分のこと。
 いっぱい遊んだ、学んだ、悩んだ。苦しい時もあった。でも楽しかった。
 楽しくて、毎日が短くて、3年という月日も知らないうちに流れてしまっていた。
 そう、あっと言う間だった―――。

「ホントこの三年間、あっという間だったね」
 言って不二は微笑んだ。
「でも……3年ってやっぱり時間にしたら長いんだなって、今日思ったよ」
「?」
「だって…見て、この名札。黄ばんじゃって、名前も霞んできてる」
 不二が指差したのは、それぞれの靴箱の棚の上に貼り付けられている、名前が印刷された小さなシール。
「元は白かったのに、もうこんなになっちゃってる。僕たちにはあっという間だったけど…やっぱり3年っていうのは…普通のモノにとっては長いんだ。真新しい白いシールに書かれた自分の名前を指で辿って探したのは、昨日のことのようなのにね」
 不二は言って、自分の名前が書かれた札を指でなぞる。
 『不二周助』と印刷された文字は、三年の月日に相応しく、鮮やかな黒いインクが灰色に転じ、入学した頃の真新しさはもう微塵もない。
「…そういえばこれ、剥がせって言われてなかったか?」
「あ、そういえばそんなこと言ってたね」
 乾の言葉に、不二は担任からそのように言われていた事をふと思い出した。
「ここは新入生の靴箱になるからな」
 乾はそう言って、他クラス――3-6の靴箱であったが、手を伸ばして一番上の人のシールを剥がした。
 ぺりぺりと軽く剥がれていくシール。粘着力も大分弱っているのかもしれない。
 不二もとりあえず自分の名前のシールを剥がそうと、シールの角に爪を当てる。
 が、少し端を剥がした所で指が止まった。
「どうした、不二?」
「……もう明日からは学校としてのレクリエーションはないから、別に登校する必要ないんだよね」
「ああ。だが、それが?」
「この靴箱…使っちゃいけないんだっけ」
「置き靴も大方持って帰っているし、今日上履きも引き上げるように言われてるから…そういうことなんじゃないのか?もし学校に来て上靴が入り用になっても、客用のスリッパを使っていいみたいだし」
「……………」
 不二は視線を上げた。
 見渡すと、靴箱にはみんなの下靴が所狭しと、それぞれの自分の棚に収まっていた。
 しかしこれらの靴は、もう明日からはここに収まる事はないのだ。
 今までは、たとえ休暇中でも棚には置き靴が並んでいたし、時には家に持ち帰るのを忘れられた上履きが所在なげに入っていたりした。
 それなのに、明日からはその一切が姿を消す。
 靴も、名札シールも、三年間分のホコリも汚れも。
 残るのは、靴が入っていない空っぽの靴箱。規則正しい直方体の空間を外に向けて開いているだけの、ただの箱。
 いずれそこには真新しいシールが貼られる。今年入学する新入生の名前が印刷された、真っ白なシールが。そして春には、自分達の古びた靴の代わりに、真っ白な真新しい上靴が並ぶ。
 そこには、三年間過ごした自分達の面影は何も無い。
「なんだか追い出されるようなカンジだね」
「?」
 疑問符を浮かべる乾に、不二は苦笑を向けた。
「靴がなくなって、名札がなくなって。どんどん僕たちの存在が消えていく」
 不二はシールの端を摘んだ指先をゆるゆると離した。
「そう思うと……自分で剥がすのって、なんか…辛いな。今まで三年間、僕たちは確かにこの学校に”いた”のに、その証が無くなって、僕たちはこの学校には”いない”人になる」
 不二はしんみりと言った。
「…寂しいな」
「………………」
 乾は咄嗟にどう言って良いのか分からず、言葉を胸の内で探していた。
 丁度その時。
「不二〜!!乾〜!!」
 二人の間の重い空気を吹き飛ばすような、明るく溌剌とした声が右手の方から聞こえた。
 声の方を見やると、昇降口に面した廊下の窓の外に、空のゴミ箱を手にした人影が立っていた。
「英二」
「掃除は終わったの?」
「うんにゃ、まだ残ってる。とりあえず溜まってたゴミを捨てただけ」
 英二は、確か教室掃除だった。
 教室は…以前は私物で物が溢れ返っていたのに、卒業間近な今、あるのは最低限の机や椅子、ロッカー、教卓。
 私物がロッカーの上に山と積まれていたときは、正直邪魔だなと思ったことがしばしばあった。
 でもそれらが全てなくなってしまうと、教室はいきなり無機質に見えた。
 今となれば、あの雑多な生活感が懐かしい。
 教室は毎日掃除していたけれど、やっぱりロッカーの後ろや教壇の下には、一年分の大きなホコリが溜まっているんだろう。
 そのホコリを取り払ってしまったら、教室はいつでも次の学年に引き渡せる。
 ―――自分の過去の居場所が失われていく。奪われていく。
 そう思うと、不二はひどく悲しい気分になった。
「それはそうと」
 沈みかけていた不二の気分を浮上させるような抜群のタイミングで、英二が声を上げる。
 そんな英二だったが、なぜかバツが悪そうに切り出した。
「さっき不二と乾が話してたの、聞いちゃったんだ。立ち聞きするつもりはなかったんだけど…」
 そこで一端言葉を切ったかと思うと、次の瞬間、英二は曇った表情を笑顔に転じた。そして明るい声を上げる。
「でさ、俺考えたんだ!タイムカプセル埋めようよ!」
「タイムカプセル?」
「ほら、何か記念になるものを箱とか缶とかに入れて、土の中に埋めるの。んで何年後かに掘り返す」
「いや、タイムカプセルが何かは分かるけど…」
 キョトンとしている不二の肩を、英二がぽんぽんと叩く。
「これなら俺たちが青学に”いた”証、残せるだろ?」
「それはいい案だな」
「だろ?」
 乾が賛成してくれたので、英二は得意そうに胸を反らした。
「密封性の高い容器を探さなければいけないな」
「そーだ!俺たちだけじゃなくて、テニス部卒業生みんなでやろうか」
「ああ、それいいな。手塚と河村には俺が言っておこう」
「じゃあ俺は大石に声かけるよ」
「何入れる?」
「何がいいかなぁ?何年後かのオレたちに向けたメッセージってのは必須だよね」
「テニス部卒業生でやるんだったら、テニスボールに何か書くってのはどうだ?」
「あ、乾、それ名案!!」
 英二と乾はトントン拍子に計画を進めていく。
「ちょ…ちょっと待ってよ」
 そんな二人のいきなりの展開に戸惑った不二は、思わず声を上げていた。
「なに、不二?」
 声をかけられた二人は、会話を止めて不二の方へ身体を向ける。
 が、実際のところ、不二は困惑して無意識のうちに口を開いていただけであって、何て発言するか、明確な言葉を考えていなかった。
「いや、何って言われても…」
 結果、困ったように口を噤む不二。
 そんな不二を見て、英二は僅かに苦笑いを浮かべた。
「ねえ不二。オレはタイムカプセルを提案したけど…本当のところは、モノにオレたちが”いた”って証を求めなくてもいいって思うんだ。えっと…なんて言ったらいいんだろ…」
 英二は暫く腕を組んで考えていたが、一向に考えがまとまらないのか、うーんと呻きながら言う。
「なんかうまく言葉が出てこないや。…乾はどう思う?」
 突然話を振られて、乾もしばらく考えていたようだったが、言うべき言葉を決めたのか、ややあった後、ゆっくりと口を開いた。
「不二。俺はこういうことはご都合主義みたいであまり好かないけど…俺は青学でみんなと一緒に過ごした学生生活は忘れない。不二、お前もそうだろう?」
「それは、そうだけど…」
「この校舎の中から俺たちの存在を表すモノが消えても、俺の記憶にも、不二の記憶にも、もちろん英二の記憶にも、俺たちが青学に通っていた事実は確実に残ってる。記憶の中で、中学生の俺たちは、ずっと生き続けるよ。……って、こんな感じで良かったか?英二」
「じゅーぶん!ナイス乾!!まぁ、つまり、そゆこと。分かる?」
 英二は言いながら、首を傾げるようにして不二の目を覗き込んだ。

 英二の黒い瞳に、自分の顔が映る。
 ―――なんか変な顔。いつもと違う顔。強いて言うなら…暗い顔?
 それを見て、ああ、と不二は得心した。
(気遣ってくれてるんだ―――英二も、乾も。僕がこんな顔してるから)


 英二の丸くてくりくりと良く動く瞳とふと目が合って、不二は思わずぷっと笑った。
「なんで笑うの??」
「…嬉しいからだよ」
「嬉しい?」
「なんか…もう、どうでもよくなっちゃった」
 悲しい気分なんて、どこかに吹き飛んだ。
「あ、でもタイムカプセルは面白そうだからやろうよ」
「うん、それはいいけどさ…なんだよ、いきなり憑き物が落ちたみたいな顔しちゃって」
「――憑き物が落ちたんだろうよ」
 疑問符を浮かべる英二の頭を乾がぽんっと叩いて言うと、不二はにっこりと笑った。
「うん。そんなトコ」



 その後、不二は自分の名前が書かれた黄ばんだシールを自分で剥がした。
 老朽化したシールは、やはり簡単に剥がれ、指先で丸めるとくしゃりと音を立てた。

 色褪せた『不二周助』のラベルは、その瞬間から、記憶の中に移っていった。



<了>



※あとがき※