世界には、昼の顔と夜の顔がある。
 昼の間見慣れた風景も、夜の漆黒の帳に覆われると、途端に別世界のそれへと変わる。
 見えるはずのものが見えない。
 あの影の後ろに何かいるかもしれない。いや、いないかもしれない?
 疑心暗鬼に駆られた心には、単なる風の音も、獣の唸り声。
 昼間そよそよと涼しげになびく枝葉は、夜には妖しく蠢く影。
 夜は本来、恐怖をそこここに内包した、魔性の世界である。
 獣に比べ遥かに脆弱な人間にとっては、そこは生命の危険を孕んだ異世界。
 しかし人は、そこに光を持ち込んだ。夜空に浮かぶ月も星も敵わない、太陽の明るさを持った擬似的な光。
 それで闇を払拭して恐怖を紛らわしてきた。
 太古の昔から。
 そしてそれは今も変わらない。



『青学夏合宿サスペンス』



 手にした懐中電灯の淡白い光が、数メートル先の地面を照らす。
「へへへ。やっぱ合宿はこうでなくちゃ!!」
 恐怖を孕んだ夜を吹き飛ばしてしまいそうな明るい声が、薄ぼんやりと照らされた闇の中から上がった。
「楽しそうだね、英二」
 同じく、完全な闇ではない中途半端な闇の中で、はっきりとした輪郭を持たない影が穏やかな口調で言った。今はよく見えないが、声の主は、きっといつものような穏健な笑みを浮かべている事だろう。そんな影に向かって、英二は、うん、と大きく頷いてみせる。
「こういうのってワクワクするじゃん?夜の学校って全然昼間と雰囲気が違ってさ、まるで知らないところにいるみたいだよな。探検しようって気がフツフツと沸いて来んの」
「うん、分かるよ」
「で、肝試しか?」
 ウキウキした声とのほほんとした声の応酬に割り込んできたのは、比較的冷静な、それでいて呆れたような声。その声は、はぁ、と聞こえよがしなため息をつく。
「あんまり派手なことはしないでくれよ。守衛さんに見つかったら怒られる」


 夏休みに入ってすぐの月曜日から4日間の、青学男子テニス部恒例、実力強化合宿期間に突入した男子テニス部員は、1日目早々から練習後の余暇を持て余していた。
 といっても、持て余しているのは部員全員ではなく、主にレギュラー陣である。
 なぜなら、強化合宿という名の示すとおり、一日目の今日からして日々のクラブ以上に激しい練習を強いられたヒラ部員たちは、与えられた練習後の自由時間を遊んで費やせるほど、体力が残っていないのである。
 己の持てる限りの体力を使い果たしてしまったヒラ部員達は、今日の疲労が明日の練習に響かぬよう、宿泊部屋(体育館2Fの柔道場に布団を敷き詰めてある)で大人しくトランプをしていたり、談笑していたり、早い者は就寝していたりする。
 ヒラ部員たちに比べて体力のあるレギュラー陣は、特別メニューをこなしたというのにまだまだ元気があり余っているのか、先ほどまでは、就寝部屋――柔道場で枕投げをしていたくらいである。
 ちなみに枕投げだが、暇を持て余した英二が無造作に投げた枕が、見事リョーマの後頭部を直撃したのがそもそもの始まり。
 怒って無言で枕を投げ返したリョーマだったが、英二は「なんじゃらホイホイ」と軽く避けた…までは良かったが、放物線を描いて飛んだ枕は、英二という標的の陰に偶然いた海堂の脳天を直撃。
 ぷつぷつと怒りマークを額に浮かべて、海堂は自分の脇にあった枕をむんずと掴んで投げる。運命というか宿命というか、それが丁度部屋に入ってきた桃城の顔のど真ん中にクリーンヒット。
 もちろん海堂に起因する自分の身の不幸に桃城が大人しくしているわけもなく、彼は自分の顔を経由して腕の中に落ちてきた枕を海堂に向かって全力投球した。しかし全力で投げられた枕は微妙に海堂を逸れて、荷物整理中で運悪くラケットを手にしていた河村の背中に直撃。
 もうそこからは怒号や歓声と共に枕があちらこちらに飛び交う大騒ぎ。
 結局、洗面から帰ってきた手塚に一喝され、枕投げは終了。
 しかしそれでも遊び足らなかったのか、「つまらない」と不平不満を所構わず漏らしまくる英二に校内肝試しを発案したのは、不二であった。

 そして、今に至るのであるが―――。

「なんで手塚といい、大石といい、堅い事ばっかり言うわけぇ?せっかくの合宿なんだから楽しまなくちゃ損じゃん」
 ぶー、と口を尖らせる英二に、いくら言っても無駄だと早々に悟って、大石は口を噤む。
「その意見は大賛成っす」
「おっ、桃、話が分かるね!」
「当然ですよ!」
 桃城は力強く頷いた。
「越前もそう思うだろ?」
 そう言って、体格のいいレギュラー陣に紛れた小さな影に言うと、リョーマは不機嫌そうにキッパリと答える。
「思わないッス」
「なんだよ、つれねぇなあ」
「せっかく人が寝付きかけてたってのに、叩き起こされて…面白いわけがないッス」
 聞こえよがしに大きくため息をつくリョーマ。声がいつもより僅かに低いのが、彼の不機嫌加減を表しているようである。
「まだ10時だぜ?こんな時間から寝なくてもいいだろうによ〜。夜はこれからだぜ!」
「よく言った、桃!!」
「当然!!」
 英二が前に出した拳を、桃城はぱんっ、と小気味いい音を立てて掌で受け止めた。
「ふん、くだらねぇ…」
 夜の暗がりの中、低い声が和気藹々とした雰囲気に刺さる。
「海堂、お前な〜」
 半眼で呻く桃城を、海堂は夜闇の中からぎらりとにらむ。
「肝試しなんて…」
 そう言いかけた海堂の言葉を遮って、桃城の手と拳を合わせた英二が声を上げる。
「にゃ?海堂って案外怖がりだったりすんの?そうは見えないけどな〜」
「ッ違いますよ!ただ、なんか今日は……風が生温くて、ヤな感じが…」
「なになに?海堂って霊感あったりすんの!?」
 弾んだ声の英二に、海堂は眉根を顰める。
「……いや、ンなことはないと思いますけど。今までユーレイなんて見たこと無いですし。俺はそういうものは信じてないっすよ」
「そっか、海堂は信じてないんだ」
「…不二先輩は信じてるんスか?」
 少々驚いているような口調で言ったのは、先ほどまで不機嫌そうにしていたリョーマ。
「越前は信じてない?」
「そんなのを信じてるように見えます?」
「見えないね」
 リョーマらしい返答に、不二はくすくすと笑った。
「僕もね、幽霊を見たことがないから信じるも何も言えないよ。ただ、いたら面白いかなって思うだけ」
「そっかー、不二も見えないのか〜。誰か見える人いないのかにゃ?」
「…部長とか乾先輩とか見えそうじゃないスか?」
「言えてる!!見えそう見えそう!!なんかさ、二人ともイタコ似合うカンジしない?」
 桃城の案に、声を上げて大笑いする英二の言葉を遮って、不二が声を上げる。
「着いたよ」
 懐中電灯の光で丸く切り取られた明瞭な視界に、校舎の昇降口のガラス戸と、その奥の靴箱が現れた。
 光の届かない夜の部分は、相変わらず濃い闇と薄い闇がまだらに広がっていて、毎日校舎に入る際に通っている場所だとは到底認識できないが、光が当たって明確な輪郭を得た部分は、確実に自分達の目に馴染んだ風景が広がっている。
 懐中電灯を動かすと、ガラス戸に鍵がかかっているのが見えた。
「…入れないんじゃないのか?」
 大石が内心安堵の息を吐きながら言う。
 元々大石は肝試しに参加する予定は無かった。
 英二に強く誘われさえしなければ。手塚に監視を遠まわしに言い渡されさえしなければ。
 こういう時、強く頼まれると断れない…いや、強く頼まれなくても、暗に頼られてでさえも断れない、自分の度を超えた優柔不断さが嫌になる。
 もっとも、人に言わせれば、それは優柔不断ではなく、ただ単に人が好いというだけらしいが。
「え〜っ」
 大石の内心をちっとも汲む様子のない英二が上げた不満の声に、
「大丈夫だよ、英二。ここは閉まってるけど、こっちは開いてるみたい」
 言いながら、不二が昇降口の大きな観音開きのガラス戸の脇にある非常用の片開きの扉を押した。
 ぎ、と大きさの割に重たそうな音を立てながら、非常用扉が内向きに開く。
「……………」
「ね?」
「でかした不二!」
 大石は人知れず落胆のため息をついた。
「で、どうするんスか?」
 先輩たちの脇で校内を覗き込み、振り返ってそう言ったのはリョーマ。
「そうだなぁ…。こう言っちゃナンだけど、うちの学校って新しくて綺麗だからあんまり怖くないよね」
 英二が同じく校内を覗き込みながら後ろ頭をぽりぽりと掻いた。
 そんな英二を見ながら、不二はぽそりと呟く。
「でも七不思議はあるよね」
「へ?」
「そうなんスか?」
「そうなのか?」
「…聞いたことないッス」
「……………」
「越前が知らないのは当然かもしれないけど…英二も大石も知らないの?」
 首を傾げる不二に、英二はぶんぶんと首を横に振った。
「そうなんだ。みんな知ってるもんだと思ってたよ」
「七不思議ってどんなのなんですか?」
 目をぱちくりと瞬かせながら桃城が問うと、不二は右手の親指を折り曲げながら口を開いた。
「まず第一に首吊りの木。中庭に一際背が高くて枝がしっかりしている杉の木があるじゃない?あれって首吊りに最適らしくて、今まで十数人近く自殺してるんだって。その怨念があの木には染み付いていて、夜中あの木を見上げると、これまでその木で首を吊って死んだ生徒たちが鈴なりになってぶら下がってるんだって」
「ふーん」
 中庭の杉の木といえば、その下にはベンチが設えてあって、昼食時や休憩時間時はそこでくつろいだり談笑したりして憩いの場として最適とされているのだが、よもやそんな話があろうとは、不二以外の誰も知る由が無かった。
 不二は右手の人差し指を手のひらの方に折った。
「第二に、血塗れの化学教師。なんでも随分前に化学実験で爆発があって、化学教諭が一人亡くなってるらしくて、その人が血塗れの白衣で学校内をうろつき回ってるらしいよ」
 不二は記憶を辿っているのか、どこかあらぬ方向を見て話す。
「で、次に3つめは、増える階段。東館の横に非常階段あるじゃない?あれ、とある日、とある時間に一段ずつ数えながら昇ると、一段増えるんだって。で、その増えた一段を踏むと、知らない世界に飛ばされちゃうとか。でも知らない世界なんて、ナンセンス極まりないよね。次、4つ目。紅い鍵盤。なんでもピアノのコンクール間近で練習に励んでいた女生徒が不慮の事故で指が何本か切断されてしまって、ピアノが弾けなくなってしまった怨念が夜中の無人の音楽室のピアノを鳴らすとか。で、そのピアノが鳴っているとき、鍵盤が血の色に染まってるってさ」
 不二は右手の小指を曲げる。これで右手全ての指が折り曲げられて、拳を握ったような形になった。
「5つめは、骨格標本と人体模型が夜中歩き回るって噂。まあ、お約束だよね。6つ目は北館1階の男子トイレ、時折水の代わりに血が流れるとか。7つ目は夜の校庭で足だけがサッカーボール蹴って練習してるって。何年か前にサッカー部のレギュラーが一人、試合直前に亡くなってるから、その足はその人のものだろうって言われてるね」
「なんかどれもこれもバカらしいっスね」
 リョーマが半眼で呟くのを見て、不二はこくりと頷いた。
「まあね。でも一応、どの噂にも元になった事件はあるみたいだよ」
「…なんでそんなこと知ってるんだ?」
 大石の問いかけに、不二はしれっと言う。
「乾に調べてもらったんだ。だって興味あるじゃない?なんでこんな噂が流れているのかって」
「まあ、興味がないとは言わないが…」
「それはともかく、準備運動も終わった事だし、これからどうやって肝試しする?」
 不二が言う準備運動とは、先ほど不二が語った青学七不思議のことだろうか。
 そうなると、大石は、自分はともかく英二も知らなかった七不思議なんてものは、不二の作り話かもしれないと唐突に思った。
 そうだからといって別にどうってことはないのだが、絶妙なタイミングで自分で作った七不思議を語った不二の話術に、思わず舌を巻かずにはいられない。
「…ってことでどう?」
 思索に耽っていた大石の耳に、英二の語尾が飛び込んでくる。
「え?何?」
「もー、大石、ちゃんと聞いててよ!ここから明かりを持たずに一人ずつ入って、特別教室棟の4階の端のトイレまで行って戻ってくるの!で、そこまで行った証として、予備のトイレットペーパーを持って返って来ること」
「…トイレットペーパー…」
 大石はトイレットペーパーを片手に夜の校内を歩く自分を想像して、可笑しいやら情けないやらで、複雑な気分になった。
 きっと傍から見ると、怪しいことこの上ない…いや、怪しいというよりも、爆笑モノだろう。
 しかし、こういう風な奇怪な行動が他者に目撃され、それが元になって怪談として発展していくのだろうと考えると、あながち不二の「興味がある」という言葉も、分からなくもないなと思った。
「じゃあ、誰から入るかはじゃんけんで決めよ!!」
 英二が嬉しそうにそう言った。
 いよいよ肝試しが決行される。

「で、結局俺からか」
 大石は、チョキを形作った自分の右手を見ながらため息をついた。
 ―――一体、今日何度目のため息だろう?
 考えるのも億劫である。
「じゃ、大石、頑張って来てね〜」
 ひらひらと英二が手を振る。
 大石はいかにもやる気なさげに手を振り返して、非常扉の敷居を跨いだ。
 蛍光灯が点いているわけでもなし、懐中電灯で照らしてもいないため、昇降口はもちろん暗かった。
 ただ、ぼんやりと靴箱が不気味な色に浮かび上がっている。
 振り返ると、頭上に非常口の緑のパネルが見えた。あの光が夜の昇降口の中で唯一の光源のようだ。
 真っ暗でないのが救いである。真っ暗だったら、きっと靴箱は闇に沈んで、人間の目では班別不可能であっただろう。そんな靴箱に真正面から激突するのは、おそらく避けられない。
 大石はそんなこんなで、靴箱を難なくすり抜け、昇降口から繋がっている右手側の廊下に出た。
(そういえば下靴のままだけど…いいのかな)
 大石は場違いな事を一瞬考え足を止めるが、わざわざ戻って上靴に履き替えるのは面倒臭いし、客用のスリッパを探すのはもっと面倒臭い。
 大石は下靴の汚れ具合を明かりの下で確認し、さほどでもないのを確かめてからすたすたと廊下を歩き出した。
 星や月の光が窓から入ってくるが、そんな僅かな光は夜の廊下全体を照らすことの出来る光量には到底満たず、廊下は昇降口に比べて大分暗かった。
 夜のグラウンドを歩いている間に随分夜目に慣れたつもりだったが、こうして見ると、なかなかどうして廊下の輪郭が曖昧で、自分が真っ直ぐ歩いているのか分からなくなってくる。
 しかし、極端に平衡感覚を失って壁にぶち当たるというわけでもないので、気にせず歩く。
「えっと…」
 大石は頭の中で昼間の学校を思い浮かべた。
 今歩いている廊下の突き当り、左の階段を上ると、特別教室棟への中二階の渡り廊下へと出、渡り廊下の先の階段を下りると、特別教室棟1階に入る。
 特別教室棟1階の廊下を真っ直ぐ行って、突き当たりの階段を4階まで上ると、折り返し地点として設定されたトイレに辿り着くはずである。
「トイレって男子トイレでいいんだよな…って、当たり前か」
 ぶつぶつと呟くと、耳が痛くなるほどの静寂に満ちた空気に声が鈍く響き、まるでその声は自分のものでないかのような錯覚に囚われる。
 また、昼間なら決して気にならないはずの足音も、大石の耳に不気味に届き、夜闇に幾重にも響いて、後ろから何者かが追ってきているように聞こえる。
(これはなかなかに怖いものがあるかもしれないな)
 他人事のように思いながら、大石は渡り廊下への階段に足をかける。
 渡り廊下に繋がる階段には、昇降口と同じく非常口への誘導灯が点いていた為、明かりがなかったなら見えなくて大変だったであろう階段で躓くこともなく、難なく渡り廊下を通過した。
「さて…」
 大石は一旦足を止めた。
「化学講義室か」
 言って、顔を上げる。
 目線の先には「化学講義室」「化学研究室」「化学実験室」と書かれたプレートが3つ連なって見えた。
 ちなみに、その奥には「男子トイレ」の表示も見える。これは、目標の4階トイレの真下に当たる。
 大石は、先ほどの不二の話を思い出した。
(確か血塗れの化学教師…)
 少し想像して、バカバカしい、と、考えを振り払うように、大石は軽く頭を振る。
(第一あれは不二の作り話だし)
 もちろん、そうと決まったわけでもないのだが、大石はそう思っていた。
 変わらず歩いていくと、化学研究室の擦りガラス越しに、白い光が不規則な点滅をしているのが見えた。
 何の光だろうと一瞬考えて、外灯であることに思い当たる。
(電球が切れかけているのか…。守衛さんに言った方がいいかな)
 大石は変わらない足取りでそこを通り過ぎ、化学実験室の前を横切り、通り過ぎかけた―――丁度その時だった。
 ずる。
「っ!?」
 何かに足を取られ、足がずっ、と僅かに滑った。
 日頃テニスで鍛えた筋肉でなんとか体勢を保った大石は、自分の足を捉えた何かを確認する為に少し腰をかがめ、床を見る。
 しかし、窓からの光量が微少なものだから、なかなか正体が見えない。
 加えて、屈みこむと自分の影が床に落ち、その部分が奈落のように暗い闇を開け、さらに見えなくなる。
 大石は体の位置を微妙にずらしてもう一度床を見た。今度はほぼ座り込む格好になって、目と床の距離を縮めてみる。
 すると、大石の目に入ったのは、いくつかの黒い円形の染みと、多分自分が踏んで引き伸ばしてしまっただろうその黒い染みの濃淡混じった直線の筋。
「なんだ?これは…」
 大石は怪訝に思って、その染みに右手の人差し指を近づけた。
 ぬるっとした感触。
 液体だ。
「…………」
 大石は正体不明の液体を付けた指先を、自分の目の前まで持ってきた。
 瞬間。
「うわっ!!!」
 思わず声を上げる。無人の廊下に声がこだまして、小さくなりながら夜闇に溶ける。
「これは…血じゃないか…?」
 大石は人差し指と親指を擦り合わせてみた。紅い液体が、その2本の指に薄く広がる。
「そんな、まさか…」
 大石の脳裏に、抑揚のない不二の声が響く。
『…血塗れの化学教師。なんでも随分前に化学実験で爆発があって、化学教諭が一人亡くなってるらしくて、その人が血塗れの白衣で学校内をうろつき回ってるらしいよ…』
「まさか、そんなことあるわけが…」
 大石は怪談や、幽霊や、そういった類のものを信じてはいない。
 しかし、この紅い液体はおそらく血。しかも落ちているのは化学実験室の近く。
 大石は背筋にゾクリと何かが這うような感触を覚えた。
 戦慄で肩が震える。
 そんな自分を落ち着けるように、大石は口を開く。
「そうだ、そんなことあるわけない…!生身の人間のものでしか、有り得ない…!!有り得ない筈だ!」
 大石は言って立ち上がった。
 しかし、なんとも気になる。
 こんなところに血が落ちているというのは、明らかにおかしい。
 丁度この血が落ちている左横には外に通じる扉があるが、何の関連性も見出せない。
「……………」
 大石は暫く逡巡した後、もう一度屈んだ。
 よくよく目を凝らすと、血痕は一定の方向に続いているようだった。
「………よし」
 正体を確かめようと、大石は這うようにしてその血痕を辿る決意を固める。
(たとえこの先に白衣を血に染めた化学教師がいたとしても、驚くものか!)
 点々と続く血痕は、すぐ前方の右手側にある1階男子トイレに入っていっていた。
(…男子トイレ?)
 大石は再び、不二の声が平坦に自分の頭の中を過ぎっていくのを感じた。
 確か―――。
『…男子トイレ、時折水の代わりに血が流れるとか…』
 実際に不二が言ったのは北館のトイレであって、ここのトイレではないのだが、少なからず気が動転している大石はそのことに気付かない。
(何か関係があるのか…?いや、まさか。だってあれは…)
 大石は結論の出ない思考をぐるぐるとめぐらせながら、そのままの格好で男子トイレの敷居を跨いだ。
 その刹那。
 じゃーっ、と大きな水音が響いた。
 予想だにしなかった音に、大石は飛び上がらんばかりに驚く。
 弾かれたように顔をあげると、黒い大きな影が目に入った。
 その影が大石に大きさを合わせようとするかのように、すっと音もなく縮んだ。
 そうして初めて、その影の後ろにあった格子戸からの朧な光が大石の目に届き、大石は僅かに視力を取り戻す。
 目に入ったのは―――大量の真紅の血に塗れた白い衣服を纏った人間。
「うわああああああああああああああああっ!!」
 大石は絶叫した。


「うわああああああああああああああああっ!!」
 絹ではなく、タオルを引き裂くような男の悲鳴が、昇降口で大石を待つ面々の耳に届いた。
「…今の、大石?」
「じゃ、ないスか?」
「何があったんだろうね」
 怪訝そうに声を上げる英二と、飄々と答える桃と、驚いているのか目をぱちくりとさせている不二。
「ンな怖い?ウチの学校…」
 英二はぽりぽりと頬を掻いた。
「副部長って意外とこういうの、弱いんスかね」
 リョーマは今ので機嫌が直ったのか、ぷっと笑った。
「気になるね。見に行ってみる?」
 不二の提案に、全員が思い思いに頷いた。


「今の声…大石か?」
 真っ暗に近い上、眼鏡を外している為に視力はほぼゼロに等しく、乾は手で空を掻きながら、声の主を探した。
 よろよろとしていると、足の先になにかぐにゃりとしたものが当たる。
「大石?」
 乾はしゃがみ込み、ようやっと床の上に倒れいている大石を発見した。
 格子戸から入る僅かな光に頬を青白く染めて、大石は気を失っていた。
「大石?大石?」
 ぺちぺちと頬を叩くが、うんともすんとも言わない。
「参ったな…」
 乾は立ち上がって顎を掻いた。
 どうしようかと乾が悩んでいると、どこからともなく複数の足音が響いてきた。それに遅れて、ガヤガヤと喧騒が追いかけてくる。
 乾はその物音に耳を澄ます。
「……桃か?英二と、不二…あと…越前もいるか。…海堂もいるようだな」
 みるみるうちに音は近づき、乾のいる場所の直前で音が途切れ、その一瞬後、夜に慣れた目を灼くような強烈な白光が、ぱっと頭上から降り注いだ。
 そして―――――。
『ぎゃああああああああああああっ!!』
 本日二度目の壮絶な悲鳴が、特別教室棟を震わせるように響き渡った。

「だ…誰だ!?」
 桃と英二が叫ぶ中、海堂が顔を引きつらせながら誰何の声を上げる。声が完全に裏返っていて、いつもの海堂の声とは思えない。
 目の前にいるのは、男子トイレの中で佇む背の高い男。
 その男は真っ赤な液体――血に見える―――で全身を濡らしていて、明らかに浮世離れしていた。
 その男を見て眉を顰めるリョーマの隣で、不二は目を瞬かせる。
「乾、どうしたの?そのカッコ」
 血塗れの男を不二が乾と呼び、それが自分の一年上の先輩の「乾」という男と結びつけるのに、海堂は数秒の時を要した。
 ようやく我に返った海堂は、驚愕の声を上げる。
「い、乾先輩!?」
「ああ、コレかけてないから分からないんだな」
 一人合点した乾は、洗面台の上に置いておいた自分の眼鏡を取上げてかけて見せた。
「部室でペナル茶の改良をしていたら、盛大に零しちゃってね。頭から被ってしまったんだよ」
 言って乾は肩をすくめた。
「で、汚れた服を洗いに来てたんだが…大石といい、桃といい、英二といい、人の顔見て悲鳴をあげるなんて、失礼な」
 眼鏡を指で押し上げ、乾は憮然とした表情で言う。
「そんな格好してたら、誰だって悲鳴の一つもあげたくなるよ」
(それに、怪談話もしてたことだし)
 不二は大石の心情を思って、不謹慎とは思いつつも、くすくすと笑ってしまった。



 結局、三度にわたる悲鳴が宿直室でうとうとしかけていた守衛さんの耳に届いてしまったらしく、青学レギュラー陣(手塚除く)は現場に駆けつけた守衛さんにこっぴどく怒られた。

 ちなみに、次の日、事情を知った手塚や顧問の竜崎先生ににこってりしぼられたのは、言うまでもない。


<了>




※あとがき※