夏は苦手だ。
 ただでさえ常人より平常体温が高いというのに、外気温がそれに勝られては、際限なしに体温が上がっていくような錯覚にとらわれる。
 まあ、人間は恒温動物だからそのようなことは絶対にありえないわけだが、気分の問題である。
 夏の空気は重い。
 湿気が身体に纏わり付いて、腕一つ、足一つ動かす度に、汗が拭き出て皮膚をじっとりと覆う。そして立ち上がってそれなりの活動をしようものなら、透明な珠が肌を滑っていく事請け合いである。
 それもこれも、人類の文明の利器―――クーラーがあれば、そのようなことになることもなく、快適な時間を過ごせるのだろうが、貧乏な公立の中学校にそのようなものがあるはずもない。

 神尾が通う不動峰中。
 惜しくもここは、クーラーのない公立の中学校である。



『HAPPENING』



「あぢぃ」
 唸る。思わず口に出る。口にすればするほど、暑さは増すというのを経験上知っているのに、愚痴は止まらない。
「いっくら公立って言ってもクーラーぐらい付けろってんだよな。職員室には付いてるってのによ〜」
 神尾は机に突っ伏して…というよりも、頬を机に押し付け、両腕をだらしなく伸ばして茹だっていた。
 ぱらぱらと額にかかった前髪が汗で張り付いているが、払いのける気にもならない。
 窓の外に見えるグラウンドは夏の容赦ない陽射しに照らされて晧々と白く輝き、目に痛い。
 その白い長方形の世界の中で、白と黒の人影がぱらぱらと動き回っている。バスケットでもしているのだろうか。
 神尾から見れば、この昼休み、最も気温が高くなる時間帯に外で遊ぶ神経が信じられない。よくもフライパンの上のようなあの地面の上で、あのように活発に動けるものである。
「車のボンネットで目玉焼きが焼けるんだぜ。信じられねぇよなあ」
 誰に言うでもなく、神尾は喋る。聞く相手もいないので、完璧独り言の域を出ない。
 しかし、深司のようにぼやきたくなるのも、この暑さの中では分かろうものである。
 窓を開け放っているというのに、横にまとめた薄っぺらいカーテンの裾は、まるで鋼鉄でできているかのように微動だにしないのだ。
 風さえ吹けば少しは楽になるのかもしれないが、夏の重い空気は澱んで、身体に纏わりついて離れない。
 風が恋しい。
 いや、風なんかじゃ足りない。野菜や肉と一緒に冷蔵庫に入りたいくらいだ。冷蔵庫の中はさぞ涼しいだろう。
「ああ、ここが北極とか南極だったらな」
 神尾は、テレビや写真などで見た、広広とした氷の平原や大きな流氷、ホッキョクグマ、ペンギンなどを思い浮かべる。ホッキョクグマとペンギンを並べて思い浮かべるあたり、既に北極と南極の区別がまるでついていないが、そんなことはどうでもいい。
 しかし、想像はあくまで想像で、現実になる事などはない。
「………暑い暑いって思うから暑いんだとかよく言うけど、いくら氷を思い浮かべたって実際の暑さに変わりがあるわけじゃねぇよな」
 神尾はため息をついた。
 地獄の茹で釜のようなこの教室で、あと二時間も授業があると思うと、虚脱感が全身を襲う。
「そういや保健室にもクーラーあったっけな」
 神尾はふと、保健室の白いシーツに覆われた清潔感溢れるベッドを思い出した。そこは神尾の想像の中できらきらときらめき、まるで天国のような様相を呈している。
 快適な環境の中、昼寝できたらどんなに心地良いだろう。
「…フケるか」
 半ば冗談、半ば本気に、誰にともなくぼそりと言う。
 すると―――。
「ダメでしょ、そんなことしちゃ」
 澱みきった空気を裂く澄んだ声が、神尾の丸まった背中に突き刺さった。
「!?」
 まさか返事が返って来ると思っていなかった神尾は、驚愕しきって飛び起きた。そして弾かれたように振り向くと、そこには杏がプリント片手に立っていた。
「あ…杏ちゃん……!?」
「?何そんなに驚いてんの?」
 杏は首を傾げてから、ああ、と手を打った。
「これ?最近暑いじゃない。私の髪って長さが中途半端で首まわりが暑いからさ、ちょっと括ってみたんだ。…変?」
 杏は言いながら、手を後頭部に回す。
 薄い色彩の髪が後頭部で束ねられていて、後れ毛はピンで留められている。初めて見る姿だった。
 杏はその姿に驚いたと思っているようだが、神尾はそれに驚いたのではない。もちろんこれも驚いたといえば驚いたが、神尾が驚いたのは、杏の不意の登場に、である。
(見られた…!!)
 自分がこの暑さにやられてウダウダしている情けない姿を見られたことに、神尾は思わず赤面した。
 神尾はドキドキと脈打つ鼓動を感じながら、杏の問いに答えるべく口を開く。
「い、いや…そんなことない」
 懸命に平静を装った声を出したつもりだったが、僅かに震えた。
 ”似合ってるよ”と続けようと思っていたのに、この調子ではとてもじゃないが言えそうにない。
(落ち着け…落ち着け、俺!)
 神尾は杏にばれないように、こっそりと深呼吸をする。
 ―――ちょっと落ち着いた。
 神尾は心の中で準備しておいた、”似合ってるよ”発言をしようとして口を開きかけたが、少々遅かった。
「そう?良かった。あ、んでコレ、夏休みの練習日程表」
 杏に先を越され、結局言えなかった自分の不甲斐なさに心中落胆している神尾に、杏は手にしたプリントを差し出す。
 その時、少し屈んだ体勢の杏の白い項が目に入った。いつもは意識する事がなかった項。
 すらっと伸びやかな線を描いたそこに、僅かな後れ毛がかかって、神尾にはなんとも艶めいて見えた。
 いつもと違う雰囲気に、少し落ち着いたと思っていた鼓動が一気に跳ね上がる。
「あ…」
 突然の刺激に、思わず神尾は呻いていた。
「ん?どしたの?」
 不意の声に杏が不思議そうに目を瞬かせ、座席に座っている神尾と目線を合わせるようにさらに体を屈める。
「〜〜っ!!!!」
 神尾はそれを見て、声にならない悲鳴をあげた…いや、上げかけた。
 神尾の理性は、悲鳴をあげる事を、寸手のところで、必死で留めさせたのだ。
「神尾君?」
「あ…ああ、い、いや、なんでも、ないよ、うん」
 神尾は、降参、と言うときのように両手を軽く上げて、作り笑いを浮かべた。混乱の極地に達して頭が真っ白になっている今、顔の筋肉があまり言う事を聞いてくれなかったが、それでも神尾は頑張って笑顔を作る事に努めた。
 その甲斐あってか、少々引きつった笑顔であったように思うのだが、杏はまだ不思議そうな表情をしながらも、
「そう?」
 と言って身を引いた。
 神尾は、ほっと息をついた。
 なぜなら、身を屈めた時に見えてしまったからだ。
 何を―――と神尾に聞くでない。
 夏服のセーラー服というものはなかなかに無防備なもので、手を挙げればそのまま上着が持ち上がって脇腹が覗きかねなく、身を屈めれば…覗き込むような角度であれば胸元がかすかに顕わになることが、ままある。
 痛いほど高鳴る胸を、神尾はそっと押さえた。
 嬉しいやら何やら……とりあえずこんなことは心臓に悪い。
(ああ、もうっ…!!)
 神尾は心の中で何にともなく毒づく。
「でも…神尾君、顔赤いよ?」
「へっ?」
 ほっと息をついたのも束の間、杏がそう言った。
 言われてみれば、体中の血液が全て頭に上ってきたみたいに、顔が熱い。
 意識してみると、こめかみがドクンドクンと波打っている音が聞こえてくる。
 恥ずかしさで、途端に汗が一気に噴いた。
 それまでに暑さのせいで浮かんでいた汗の上塗りをするかのように、だらだらと汗腺から汗が出てくる。カッターに隠れた背中を一筋、いや、幾筋も汗が伝っていくのが分かった。
「ああああああ…いや、大丈夫だから!何でもないって!!俺、ちょっと人より暑いのに弱いからさ…」
「ああ、そうだったね。…そういや前から不思議だったんだけど」
 話の流れが変わりそうな雰囲気に、神尾は再度ほっと胸を撫で下ろす。
「神尾君の前髪長いよね〜。暑くない?」
「え?いや、あんま考えた事ないけど…」
「こうした方が涼しくていいんじゃない?」
 言いながら、杏は自分の胸ポケットに手を伸ばした。
 何が出てくるのかと思えば、透明のケースに入った、杏が使っているピン。
 それを二本取り出して、杏は手際よく神尾の前髪を纏めて、左耳の上あたりで止める。
「うん、結構いいんじゃない?」
「……………」
 神尾は、差し出されたコンパクトの鏡に映った自分の顔を見ていた。いや、目は確かにそこに行っていたが、心はそこにはなかった。
 神尾の心にあったのは、杏に触られたという事のみだった。
 細い指が自分の髪を掬って、杏が日頃使っているピンを―――。
 神尾は一瞬前の出来事を反芻して、またまた鼓動を早めた。鏡の中の自分の頬が、たちまちボッと赤くなる。まるで茹蛸みたいだ、と神尾が少々情けなく思ったその時。
「あれ?」
 杏が突如素っ頓狂な声を上げた。
「神尾君…」
 杏はコンパクトをぱちん、と小気味よい音を立てて閉じた。
 そして、ん〜、と僅かに眉を顰めながら顔を近づけてくる。
「っ!?」
 神尾は予想だにしていなかった杏の行動に、驚愕の色を隠せなかった。
(なっ…何だ!?)
 近づくにつれ、杏の濡れたように光る黒めがちの瞳に自分の姿が映る。
 杏の瞳に映る自分は酷く狼狽していて、耳まで真っ赤になっている。
「あ、杏ちゃん…!?」
「ん〜、神尾君って奥二重だったんだね。いっつも前髪で隠れてるから分かんなかったわ」
 杏はそう言って、くすくすと笑った。
 無邪気に微笑む杏を見て、神尾は一気に全身脱力する。
(なんだ、そんなことか…)
 そんなこともこんなことも、これ以上の事が起こり得るはずもないのだが、ともかく神尾は脱力して机に突っ伏した。
「やだ、大丈夫?」
 神尾はなんだか狼狽した自分がバカみたいに思えてきて、思わず、はぁ、とため息をついた。
 しかしまだ心臓はドクドクと通常の倍の速さで波打ちつづけている。
 火照った顔に、机のひんやりとした冷たさが気持ち良かった。
 立ち続けに鼓動を高鳴らされて、体温が上昇している。暑さも相まって、体力を激しく消耗した気がした。
「クラブ出られる?」
 心配そうに杏が覗き込んでくる。自分の目線は杏より大分低い。
 ――この体勢はマズイ。
 神尾は今日学習した事を思い出し、ばっと起き上がった。
「大丈夫大丈夫!」
 そう言う声が多少上擦っていたのは、仕方のないことかもしれない。


<了>



※あとがき※