『Human Sciences』



 さわさわと枝葉を揺らして、涼やかな風が吹く。
 穏やかな気候。昼休み後の6時間目の授業。これが終われば、あとは終礼、掃除、そして部活。
 新鮮な緑の匂いを運んでくる昼間の風は、ふわりと薄茶の髪を柔らかく弄んでいる。
(わ、不二が寝てるよ、珍しー)
 英二は机に頬杖をつきながら、二つ前の座席の不二を見た。
 不二は頬杖をつきながら、こくりこくりとゆったりとした間隔で舟を漕いでいる。
(オレが起きてるのに、不二が寝てるなんてねぇ)
 自分は午前中の授業で悉く爆睡していたくせに、それを棚に上げて、英二は内心クスクスと笑った。すると―――。
「―――人間とは何か」
 居眠りしている不二を見ていた英二の意識の中に、唐突に、教壇に立つ教師の眠気を誘うような抑揚の無い声が入ってくる。
(おりょ?)
 青学は基本的に中高一貫校であるせいか、中三にもなってくると、高一の時分にやるはずの学習内容が前倒しで教えられる事がある。
 しかし、いきなりのこの哲学的な問いは何だ?今は歴史の授業のはずである。
 黒板を見やると、「1、ギリシャ文化」と書いたままで止まっている。それ以外何も書いていない。
 耳をそばだてると、教師は、ソクラテスやプラトン、アリストテレスなどを紹介しているようである。
(あ〜…アリストテレスっていえば、昔、教育テレビかなんかで「アリスとテレス」なんて番組があったっけなぁ…なんだっけ、アレ)
 日本史好きな英二にとっては、世界史に出てくるカタカナの名前の羅列を聞くのは、異国の言葉を聞いているのも同然だった。ギリシャ人もローマ人も、お互い似たような名前ばかりに聞こえたし、また、名前が無駄に長くて八つ当たりたくなる。日本人みたいに、名字と名前だけで勘弁して欲しいものである。
 そんなこんなで、英二は、早くも歴史の授業から興味を失いかけていた。
 いつもなら、その時点で機を見計らったかのように睡魔が襲ってくるのだが、今日は午前中たっぷり寝てしまったためか、珍しく目が冴えていた。
(つまんにゃい)
 英二はぱらぱらと歴史の図表を開いて、ふと目に止まった人物画に落書きを施してみる。が、あまり気に入らなかったので、即座に消す。
(………ヒマ)
 暇なら授業を聞けば良いものを、と大石あたりならつっこむのだろうが、今ここにそんな殊勝な諫言をする人物はいない。
「『人間は考える葦である』―――これはパスカルの言葉だが…」
 教師の話は、いつの間にかギリシャを大きく逸脱し、17世紀にまで飛んでいるようだ。
 始めは歴史の授業だったはずが、知らぬ間に倫理の授業に取って代わっている。
 そういえば、教壇に立つこの教師は、今年高校から中学へ転任したばかりの教師だった。専門は倫理であると最初に言っていたような気がする。
 ならばソクラテスやプラトンをきっかけに大きく話が逸れているのもなんとなく頷ける――――かもしれないが、英二にとっては、世界史だろうが倫理だろうが、今現在の興味の引かれ具合には何の変わりも無かった。
 現に、教師の口から流れる言葉の数々は右耳から左耳へ一方通行で抜けていくのみで、英二の頭に留まる所を知らない。
「人間には動物とは違って知性・理性があり、言語を扱い、物を作り、火を使い…」
 いい加減教師の言葉が意味を為さないお経のように聞こえ始めてきた―――丁度その時だった。
「人間とは、”笑う”ものだと言う人もいる。確かに、他の動物には”笑う”という機能は…」
(ん?笑う?)
 英二はぴくり、と、その一言に反応した。
 その言葉だけが、鮮烈に、存在感を放って英二の記憶に焼きついた。
(笑うって………)
 英二の脳裏にまず最初に浮かんだのは、不二である。いつも穏やかな笑みを浮かべている不二。
 尤も、”いつも”と言ったところで、不二の心中も同様に穏やかかというと、そうでもないようであることが最近英二は分かってきていた。
 不二だって怒る時もあれば悲しい時もあって、時折それが垣間見える時があるのだ。当然と言えば当然なのだが、人は演技ができるのだ。尤も、不二が演技しようとしてしているのか、それとも元々そういった感情が表に出にくい性質なのかは、知る由も無い。
 ともあれ、不二の場合、笑っている時の方が圧倒的に多いため、不二=笑顔なのである。
 そして、不二に続いて、様々知人の笑顔が脳裏をよぎる。
 そうやって一通り思い浮かべてから、英二は違和感に気付いた。
 誰かを忘れている。身近な誰かを。
 脳裏にぼんやりと、名が、顔が、浮かんでいるような、浮かんでいないような。
 像を結ぼうとすると途端に雲散霧消して輪郭があやふやになり、名を唱えようとすると手から砂が零れ落ちるように言葉が抜け落ちていく。
 忘れてしまっている人間に申し訳ないような気がして、忘却の河の向こうに置き去りにしているのは誰か、英二は懸命に考えた。
「うー…?」
 英二は集中力を高めようと、眉間に指を当てた。
 そして唐突に思い出した。
 眉間――眉間と言えば…皺――。
(あ、手塚だ)
 突如として忘却の河を渡ってきたのは、”笑う”こととは対極にいる、手塚だった。輪郭を得る前に崩壊した像は今や、眉間に皺を寄せて不機嫌そうな顔をした、同い年には見えないクラブ仲間をはっきりと象っている。
(手塚を忘れてた)
 英二は内心苦笑した。
(…手塚が笑ってるトコって見たことないな〜)
 同じクラスになったことこそないが、同じクラブで2年強過ごしているのに、未だに手塚の表情は一パターンしか知らない。すなわち、不機嫌そうに眉根に皺を寄せている表情である。だから、先ほど知人の笑顔が脳裏をすぎていく中に、手塚がいなかったのだ。
 英二は想像の中で、口端を吊り上げさせたり、目尻を下げさせたりしてみたが、どうしても手塚の顔には馴染まない。はっきり言って、アンバランスで気持ちが悪い。
(うえ。手塚って全然笑顔が似あわないのな)
 英二は仏頂面の手塚を脳裏に浮かべながら、教師の言葉をゆったりと反芻した。
(でも『人間とは”笑う”ものだ』…………って、あり?手塚って笑わないよな?手塚って……)
 英二は考え込んだ。そして―――。
(そっか、手塚、人間じゃないのか!)
 英二は心の中で、ぽーん、と手を打った。


「今日はこれで終わり」
 教師のその一言を皮切りに、教室に喧騒が満ちた。
 教師が教室を出ていくと、その喧騒は一層力を増す。
 それもそのはず、一日の全ての授業が終わり、残るは終礼・清掃、そして気ままなアフタースクールのみ。その開放感からくる浮ついたざわめきが教室中を席巻する中、そんな周りからワンテンポ遅れるように、不二がもそりと起き上がった。いつの間にか机に突っ伏して本格的に寝てしまっていたらしい。
 英二は、とんとんと軽い足取りで、そんな不二に近づいた。
「おはよ、不二♪」
「…………おはよ」
 まだ覚醒しきれてないのか、不二は右手で目を擦りながら、くぐもった声で答えた。
「珍しいね、不二が授業中寝るなんて」
「…僕だって眠くなる時くらいあるよ」
「ハハハ。ま、そりゃそーだ」
 英二は笑い声を上げながらしゃがみ込み、不二を見上げながらちょいちょい、と自分の頭を指差した。
 未だ醒めない眠気のせいで頭の回転が鈍っている不二は、一体英二が何を言いたいのか暫く掴めなかったが、どうやら自分の髪に寝癖がついているということを体現してくれているのだと理解して、不二は軽く指で自分の髪を梳いた。なるほど、確かに横髪が外向きに撥ねている感触がした。
「…さっきの時間、どこまでやった?英二、今日のノート貸して…」
 髪のハネを撫で付けて直そうとしながら尋ねる不二に、英二は黒板を親指で差した。
「あんま進んでないよー。ってか脱線しまくり」
「………」
 英二が指差した黒板には、「1、ギリシャ文化」とそこそこ大きく丁寧に書かれた文字と、明らかに走り書きと思われるミミズがのたくったような文字がそこここに書かれていた。その糸ミミズのような黒板の文字を何とか解読しようと不二は目を凝らしてみたが、不二には到底それが意味を為す文字に見えてこなかった。
「………一体何をやってたの?」
 怪訝そうに不二が尋ねると、英二は何やらにやっと笑った。
「人間とは何か、って話」
「なんでそんな……ああ、元は倫理の先生だっけ」
 不二が一人納得したように呟くと、英二は、
「ねぇねぇ、不二は人間って何だと思う?動物と人間ってどこが違うと思う?」
 そう言いながら首を傾げた。
 英二にしてはえらく高尚な問いだったが、なぜか英二の瞳はきらきらと輝いて、まるでおもちゃを見つけた子犬のようだった。心なしか、にこにこと笑顔すら浮かべているようにも見える。
 不二は英二の真意が読めず、暫くどう答えるものか考えていたが、別に嘘偽ったところでどうということもないので、不二は正直に思ったところを述べた。
「うーん、そうだね…僕は人間って「死」を知る生き物だと思うよ」
「は?「死」を知る?」
「うん。自分はいずれ死ぬってことを知っている唯一の動物じゃないかな。あ、「死期を悟る」というのとは違うよ。「死」がある、ということを、健康な時でも概念的に知っている――だから人間は自殺出来るんじゃない?自殺なんてするの、人間くらいなもんだよ」
 言い切って、不二は英二を見下ろした。
 英二は驚いているのか、目をぱちくりさせて不二を見上げてきていた。
「不二…それ、自分で考えたの?」
「まさか。誰かがそう言ってて、それを聞いて、「あ、その通りかも」って思っただけだよ。他には……そうだね、世界がある意味、自分が生きている意味、なんにでも意味をつけたがるのも人間だけかも。時間の概念にしてもそうかな。過去現在未来、繋げて意識できるのは人間だけじゃない?と言っても、動物と人間は言葉が通じないから、それが本当かどうか確かめようも無いよね。もしかしたら猫だってイヌだって、自分がいずれ死ぬ事が分かってるかもしれないし、未来というものがあることが分かってるかもしれないし、案外「自分とは何か」って哲学してるかもしれない」
 言いながら、不二は欠伸を噛み殺した。どうやらまだ、完全に覚醒できていないらしい。
 英二はぽりぽりと耳の後ろを掻きながら、ふーん、と感嘆の息を漏らした。
「なんか、よく分かんないや。不二ってスゴイね」
「そうかな?普通だよ」
「先生は不二とは違う事言ってたよ」
「へぇ、何て?」
 不二がそう尋ねると、英二は待ってました、と言わんばかりに身を乗り出した。そして意気揚揚と口を開く。
「人間とは、笑うものだってさ」
「笑う?」
「うん」
 鸚鵡返しに問う不二に、英二は大きく頷いた。
「なんでも、「人間は笑う力を授けられた唯一の動物である」だって。グル…いや、グレ……まあ、いいや。そのナントカっていう人の言葉らしいよ」
「………グレビル?」
「あ、そう。それ」
 言って英二はぽんっ、と手を打った。どうやら本当に忘れていたらしい。
 たった四文字なのに、と不二は内心思ったが、口には出さない。
「んでさ、オレそれ聞いて思ったんだけど」
「うん?」
 続きを促すように言った不二の耳元に、英二はやけに真剣な顔をしながら口を寄せた。
「手塚って人間じゃないんじゃない?サイボーグとかかも。『サイボーグ9232』って感じ。どう?」
「………ぷっ」
 不二は思わず小さく吹き出した。
「英二、本気?」
「本気も何も!思い当たる節、いっぱいあるじゃんよー!!」
「例えば?」
 不二はともすれば爆笑しそうになる衝動を抑え込むように、腹を押さえながら聞いた。
 英二は確認するように自分の指を折りながら言う。
「例えば…何かやらかすといっつも『グラウンド何周!!』ってワンパターンに怒るし、クラブと生徒会で勉強する暇なんて殆どないはずなのにテストはいっつも学年トップだし、いっつも眉間に皺寄ってるし、髪形乱れないし、あの歳であの顔だし、えぇと、えぇと…」
 英二はそこまで言って、うーん、と腕を組んだ。手塚サイボーグ説を裏付ける証言が出てこないらしい。といっても、どれもこれもサイボーグ説を支持する証言には到底思えない代物であるが。特に最後の三つは全くそれに関係無いのではないだろうか、と不二は思わず笑った。
「英二、その説は無理だよ」
「ええ、何でぇ?ってか手塚がサイボーグだったら面白いじゃん。このセンで行こうよ」
 何が”このセンで行こう”というのか。
 英二らしい物言いに、不二はますます笑いがこみ上げてくる。
 英二は、不二に笑われて機嫌を悪くしたかのように唇を尖らした。
「だって手塚って笑ってるとこ見たことないじゃん。だから人間じゃないんだって」
「確かに手塚が笑ってるところは見たことないけど……」
 不二は一旦言葉を飲み込み、唐突に英二の左頬をぎゅっと抓った。
「痛ーっ!!な、何すんだよ、不二ッ!!」
 英二は飛び退り、抓られた頬を押さえながら叫んだ。
「痛いでしょ?」
「あっ当たり前じゃんか〜!!」
 抗議の声を上げる英二に、不二は微笑み返した。
「抓られたら痛いって感じるもんだよね。それが人間ってもんだよ。手塚も多分似たような反応すると思うよ、僕は。………で、英二が弱いのは首筋?脇腹?足の裏?」
「は?」
「くすぐられて笑っちゃうのは、何処?」
 英二は質問の真意がわからず、しきりに首を傾げる。
「??…さあ?強いて言うなら…脇腹?」
「そう。英二は脇腹くすぐられたら笑うんだね?手塚はドコが弱いのか知らないけど、弱いとこくすぐられたら、笑っちゃうと思わない?それで笑わなかったら、僕も手塚が人間じゃないって認めるよ」
 言い切って、不二はにっこりと笑った。
「ホント?じゃあ手塚の弱い部分を探そう!まずは乾にリサーチだな!!」
 英二は気合いを入れるように、拳を握った。
「頑張ってね」
 不二は期待しているのかしていないのかよく分からない口調で、にこやかに笑いながらそう言った。


<了>




※あとがき※