『ツイてるねノッてるね』



「ちっ…あの先公、話長ぇんだよ!どーでもいいようなことをグチグチと…。女々しいったらありゃしねぇ」
「…神尾もさっきからグチグチ言いっぱなしじゃん。……神尾こそ女々しいんじゃない?」
「お前に言われたかねー!!」
 神尾は廊下を駆けながら、斜め後ろを付いて走ってくる深司に噛み付くように言った。
 二人は全速力とは言わないまでも、かなりそれに近い速度で、放課後のほぼ無人の廊下を駆け抜けていた。規則正しい二重の足音が、硬質の壁に当たって砕ける。
 急がなければ、クラブに遅れそうだった。実際、廊下に面した校庭からは、体育系のクラブの威勢の良い声が既に遠く聞こえてきている。
 こうなったのは、教師に二人揃って呼び出されてしまったからだが、一体何で呼び出されたのか、神尾は良く分かってない。それは深司も同じだった。
 そもそも、昨年クラブ内暴力騒ぎを起こしたことが仇になっているのか、数人の教師から元々目を付けられていたようで、大したことではなくても何だかんだと言いがかりをつけられるのはいつものことだった。
 最初は腹立たしい事この上なかったが、既に日常茶飯事の域だから、もう慣れた。
 なんのことはない、こちらが大人になって黙って頷いてやってればいいのだ。
 いつもそんな風だから、呼び出し理由を理解してやる気などは毛頭ない。何で呼び出されたのか覚えているわけがないのは当然である。
 何はともあれ、一応律儀にも職員室に出頭した二人は、長々と筋の通らない説教を食らって、先ほどようやく解放された所であった。


 深司はすっと眉根を顰めた。
 といっても、神尾の言葉が気に障ったのでは多分ない。肩に提げたテニスバックの中で、中身が触れ合ってがちゃがちゃと音を立てるのが耳障りなのか、先ほどから深司はずっとちらちらとバックに視線を送りながら不機嫌そうな顔をしている。
 深司は歩調に合わせて弾むテニスバックを器用に肩にかけ直して、ぼそりと呟いた。
「ああ、うるさいなあ」
「なんだと!?」
 神尾は耳ざとく深司のぼやきを聞きつけて叫ぶ。
 深司はテニスバックのことを言っていたのだが、神尾は自分のセリフに対してのコメントだと理解したようだ。
 だが、そんな些細なことは訂正するのも面倒なので、深司は口を噤んだ。
 が、しかし。
 廊下を折れて階段を駆け下りていた神尾が踊り場に差し掛かり、深司はその後ろ、5、6段上に差し掛かっていた丁度その時。
 深司の目の端に、階段を猛スピードで昇ってくる人影が目に映った。
 完全に折り返した形をした階段だから、深司の位置からは手摺りの上からその人物の存在が見えるが、神尾の位置からは手摺りに隠れて見えないようだ。神尾は走るのをやめようとしない。
「大体なあ!お前、先生にもその口調だからやたら誤解されるんだぜ!?もうちょっと大人しく、せめて今日みたいな時は見た目だけでもしおらしくするとか…」
 神尾は器用にも、前に走りながら顔を後方の深司に向けて早口に言った。
 そこで深司が立ち止まっているのに気付いて、神尾も踊り場の真中でぴたりと立ち止まる。
「何ぼーっと突っ立ってんだよ。遅れ」
 そこまで言って、神尾の言葉が途切れた。
「あ」
 深司が声を発しようと口を開くのに続いて、階段を昇ってきていた影が神尾にタックルをくらわすようにぶつかり、衝突の鈍い音があたりに響く。
「ぅげっ」
「きゃあっ!!」
 神尾の悲鳴をまるでひき潰された蛙のようだと思いながら、深司は他人事のように(もちろん他人事だが)、揉みくちゃになって倒れた二人を無表情に見つめた。
「危ない神尾」
「ッ遅いわボケっ!!」
 神尾は四肢を床に投げ出し、衝突してきた人物を身の上に載せた状態で叫んだ。
 叫んだ直後、押し倒されるようにしてしたたかに打ち付けた背中や腰がずきずきと痛み出す。
「痛…ったく、ちゃんと前見ろよ…」
 自分も前を見ていなかったのだが、そんなことは忘れて、神尾は怒気の孕んだ声で言う。 体全体を襲う痛痒に顔を歪め、それでも身を起こそうと、神尾は床に手を付いて腕に力を入れた。
 すると不意に、まるで漬物石のように体を押さえていた重みが、ふっと消えた。
「ごっ、ごめんなさいっ!!」
「え?」
 聞きなれた澄んだ声が耳に届いて、神尾は驚愕した。
「…大丈夫?杏ちゃん」
 深司がとんとん、と階段を下りながらそう言うのを聞いて、自分の聞き間違えでは無い事を神尾は確信した。
「あ、杏ちゃん!?」
 神尾は体の痛みも何のその、全身のバネを総動員して素早く上半身を起こす。
「ごめん、ごめんね!神尾君!!」
 驚きに目を丸くしながら見やると、杏が倒れている神尾の片脇で両膝をついていた。
「ケガない!?手、大丈夫!?足、大丈夫!?」
 杏はそう口早に言いながら神尾の右腕を手にとって、肘から下腕、手首にかけて服の上から軽く揉むように押さえた。痛い?と尋ねながら、杏は神尾の目を覗き込んでくる。
 神尾は杏に触れられていることに卒倒しそうになりながら、なんとか「大丈夫」と一言だけ発した。
「大会前なのに、神尾君に何かあったら…」
 杏が珍しく、泣きそうな顔で唇を噛んだ。
 その様子を間近で見て、神尾はぎょっとする。
「だっ…大丈夫だから!ほら」
 神尾は自分の腕を掴む杏を振りほどくように、ばっと勢いよく立ち上がった。
 その場で軽く足踏みして、数回腕を回す。
「もう、痛くないし」
「ホント?やせ我慢してない?」
「してないしてない」
「保健室、行かなくても大丈夫?」
「大丈夫だって!」
「…神尾はそんなヤワじゃないよ」
 深司が踊り場まで降りてきて、床にへたり込んだままの杏に手を差し伸べる。
 杏は深司の手を借りて立ち上がると、ぱんぱん、と自分の制服についた汚れを叩いた。
「ホント…ごめんね」
 杏の瞳が申し訳なさそうに曇る。
 神尾はそんな杏の顔を見て、自分がそのような顔をさせているのだという自責の念に襲われながらも、逆に自分の身をそんなにも案じてくれているのだと不謹慎にも嬉しくなった。もちろん、神尾自身を心配してくれているというよりも、一人でも欠けたら大会出場が不可能になってしまう不動峰男子テニス部員の貴重な人員としての神尾の身を心配してくれているんだろう。
 神尾はそんなことは百も承知だったが、それでも嬉しいものは嬉しかった。
 神尾は手をブンブンと振って、少しでも杏の表情を明るくさせてあげるために、精一杯笑う。
「いいって。気にしないで。俺こそ前見てなかったし」
 さっきは「前を見ろよ」と愚痴をこぼしていたのに、相手が杏だと分かって掌を返したように笑顔を浮かべる神尾が馬鹿馬鹿しくて、深司は思わず半眼で睨んだ。
 しかしそんな視線に全く気付いてない神尾は、謝り続ける杏にひたすら大丈夫と繰り返していた。



 結局クラブにはだいぶ遅れて参加する羽目になった二人は、まず部長の姿を探した。
 今はグラウンドを周回しているのだろう、コートの上には部員の姿が一人も見当たらなかった。
 予想は正しく、暫く待っていたら、グラウンドを周回していた部員たちがちらほらと前を通り過ぎ始めた。
「よう」
「遅かったな」
 通り過ぎざま、石田と内村と挨拶を交わす。
 3人目に走ってきた部長橘は、2人の姿を見つけて速度を落としてゆっくりと足を止めた。
 神尾と深司が開口一番「すみません」と謝ると、先生の呼び出しがあったことをどこからか聞きつけていたのか、橘はごく短く「気にするな」と言って、すぐ練習に加わるように指示した。
「グラウンド30周な」
『はい』
 二人は軽く準備運動をしてから同時に駆け出した。橘もその二人の後を追うように走り出す。
 そして暫くも経たないうちに、神尾がぽそりと言った。
「…リズムに乗るぜ♪」
 それまで並んで走っていた深司を置いて、神尾は途端にスピードを上げた。
「……………」
「……………」
 神尾が足音軽く駆けていく様子を、深司は半眼で眺めた。
 深司の横――神尾が先に走っていたために空いたスペースに、橘が入り込んできた。
 橘はリズムに乗ってどんどん小さくなる神尾の背中を見つめながら、深司に問う。
「…何かあったのか?」
 ため息混じりのその声音は、既に深司の答えを予測しているような感じだ。
 深司は顔色一つ変えず、無表情に答える。
「まあ…橘さんが考えてる通りなことが」
「………」
 橘は盛大にため息を吐いた。
「なんとかならんもんかな」
 思わず空を見上げる。
 まるで自分の心のうちを映し出したかのように、どんよりと曇っている。もしかしたらクラブが終わって帰路につく頃には雨が降り出すかもしれない。
 しかし神尾は、そんな自分の鬱々とした状態に対して、気分晴れ晴れといったところなのだろう。もう既に神尾の姿は視界には無い。よほど嬉しい事があったらしい。
「…神尾の馬鹿が治らない限り無理でしょう」
「いや、神尾が馬鹿だとは思わんが…そういう風に言うな。気が滅入る」
 橘がこめかみを押さえて呻くのを見てから、深司は神尾が走っていた方に視線を戻した。
「…あんなことくらいで舞い上がって…バカだよなぁ。自分で突っ走って体力消耗してバテてるようじゃ世話ないっていうんだよ。全く、もう少し冷静になったらどうかなぁ。俺みたいにさ…」
 深司がぶつぶつとそうぼやいた。
 深司の言う通り、ランニングが終わった後の神尾のバテ具合を想像して、橘はこっそりため息をついていた。今日は神尾は使い物にならないだろう。練習メニューを変える必要がある。
(しかし…深司のぼやきもなんとかならんもんか…。これを聞きながら30周するのは精神的に辛いな)
 橘は深司にばれないように横目で盗み見ながら、喉の奥でため息を吐いた。

<了>



※あとがき※