『年末の菊丸家』




「英二ぃーっ!!」
「…んにゃ?」
 今日は大晦日。
 クラブは休み。それに加えて朝御飯当番でもないため、ゆっくり惰眠を貪っていられると踏んで目覚ましをセットしていなかったのだが、いきなり長姉の大声に夢うつつの状態から引っ張り起こされた。
 暖かい布団から出るのが億劫で、腕だけを伸ばして枕元の目覚し時計を手繰り寄せ、まだ開ききらない瞼をこすりながら時計盤を見やると、少し覚めかけていた頭に睡魔が戻ってくる。
「…なんだよー。まだ9時じゃん」
 言って布団にもぐろうとする英二に、また声が降りかかる。今度は二人目の姉。
 しかも先程より声がはるかに近い。
「英二っ!!いい加減起きなさい!!」
 声と共に上布団が引き剥がされ、冷たい部屋の空気が肌を刺す。
「寒っ!!姉ちゃん、布団返してよ!!」
「何言ってんの!ほら、起きた起きた!!」
 次姉はそう言いながら、部屋のカーテンをさっと開けた。冬の朝の白い光が部屋に差し込む。
「ええ〜…今日ぐらいゆっくり寝させてよ」
「駄目よ。大掃除手伝ってもらわなきゃ困るんだから」
「なんで?人手は足りてるだろ?」
「足りてないの!だからこうやって起こしにきたんじゃない!ほら、早く起きて!!」
 姉が腕を組み、仁王立ちになってすごむものだから、英二は仕方なく身を起こした。第一、上布団を返してもらえそうにないので、引き続き眠れるわけもないのだが。
 二段ベッドの上の部分を占有している英二は、簡易梯子をとんとんと降りた。
「あれ?兄ちゃんは?」
 二段ベッドの下の部分で寝ているはずの兄の姿がない。もう起きたのだろうか。それにしては部屋が暗いままだったのが謎である。
「知らないわ。デートにでも出かけちゃったんじゃない?全く、こんな忙しい時に!」
 姉はぷりぷりと怒りながら、上布団を持って部屋を出て行きかけ、そして一言。
「あ、今日天気いいから、マットと敷布団、干しときなさいね」
「へいへい」



 着替えを済ました英二が階段から降りてくる音を聞いて、長姉が台所から顔を覗かせる。
「あ、英二、起きた?」
「…布団持ってかれたらそのまま寝てられるわけないじゃん」
 英二は口を尖らせて眠りを妨げられた不満を表すが、姉は全く意に介さないようだった。
「朝御飯用意してあるから、ちゃっちゃと食べてね」
「オレは何したらいいの?」
 英二はダイニングの椅子に腰掛け、テーブルの上に乗っているバスケットにはいったパンを口に突っ込んだ。
「まずは窓拭き。それから玄関掃除。タイル汚れてるから、ちゃんと水をまいて、ブラシで磨くのよ」
 言いながら、姉が英二のために手早く用意したホットミルクを置く。
「水使うの?やだなぁ。寒いじゃん」
「我儘言わないの」
「分かったよ」
 言ってホットミルクをぐびと飲み干し、パンを二つほど口に放り込む。
「ごちそうさま」
「食べ終わった?じゃあまずこれね」
 長姉がそう言って差し出したのはバケツと新品の雑巾2枚。
「濡れ雑巾で拭いた後、ちゃんと乾拭きをしてね」
「…そういえば、姉ちゃんは何してるのさ?」
 英二はバケツを受け取りながら姉を見やる。
「あたし?あたしは台所を綺麗にしてるのよ。油がこびりついて取れないったら」
「兄ちゃんは?」
「ああ、あいつ?あいつには自分の部屋を片付けさせてるわよ。あいつの部屋、足の踏み場もないほど物で溢れてるんだから。いい加減片付けてもらわないと、いつか虫が湧きかねないわ」
 英二は一番上の兄の部屋を思い浮かべる。
 確かに兄の部屋は、英二とは違って一人で使っているのにもかかわらず、ものすごい散らかりようであった。どこからあんなに物が出てくるのか不思議なほど、床は物で埋め尽くされており、一度見失った物は一向に見つからない状態であった。…虫が湧くかどうかは知らないが。
「窓拭きはあんたに頼むしかないのよ。あたしじゃ背が届かないし。だから頼んだわよ。今年の汚れを綺麗に落としてね」
「は〜い」

「あ〜、忙しい忙しい!!」
 次姉が三角巾をしてハタキで家中のホコリを落として回っている横を通り抜けて、1階の窓を拭き、自分の部屋の窓を拭いた。
 思っていた以上に汚れというものは溜まっているもので、大して汚れているように見えてなかった窓でも、拭く前と比べると、窓越しの風景のクリアさが違っていた。
 窓越しの風景が綺麗に見えるようになるのがなんとなく嬉しくて、散々文句を垂れていた英二だったが、知らないうちに鼻歌なんぞ歌いながら窓拭きに没頭していた。そして――。
「残るは…」
 呟いて足を止めたのは、長兄の部屋の前。
 掃除をしているはずなのに、その部屋の中からは何故かドタンバタンとすごい音がしている。
「…一体何やってんのかにゃ〜?」
 疑問に感じることしきりだが、玄関掃除もしなければならない身としては、早く窓拭きを終わらせたい。もう時計は既に12時近くを指している。
 英二は拳を作ってトントン、とドアをノックした。
「兄ちゃん?入るよー」
 言いながらドアを開けると、片付けようとして余計にごった返したような物に埋もれて倒れこんでいた。
「…何してんの?」
「…上からモノが降ってきた」
 英二が見上げると、クローゼットの最上段が空になっているのが見えた。
「………。…まあ、とにかく窓拭くよ。姉ちゃんにやれって言われてるから」
 言って英二は部屋を横切ろうと物を横によけながら通る。すると、兄の脇に来た時に不意に足首を捕まれた。
「い、いきなりなにすんだよ!」
「英二、片付け手伝え」
「え、ヤダ」
「もちろんタダでとは言わん。いーもんやるから」
 長兄は言ってひょいと上体を起こす。
「わっ!!わっ!!」
 ずっと足首を掴まれたままだったので、英二はその拍子に雑多に散らばった物の中に倒れこんだ。
「もー!!バケツに水入ってなくてよかったよ」
「あ、スマン。えーっと…」
 長兄は部屋の隅の方に積み上げられた雑誌類を一通り漁り、一冊の本を片手に戻ってくる。
「これこれ。英二もう15だよな?これくらい持ってたっていいんじゃないの?」
 言って渡されたのは…あまり健全そうでない写真集。
「〜〜〜ッ!!いらない!いらないよ、そんなの!!」
「まあまあ、照れない照れない」
「ッ…お、オレ、そんなのキョーミないもん!!」
「まぁたまた」
「うぎゃっ」
 本を顔に押し付けられて短く叫ぶ英二。刹那。
 バタンっ!!
「兄貴ぃぃ〜〜〜〜!!英二に何すんの!!」
 ドアを開ける音を追うように、次姉の怒声が部屋に響いた。
「い、痛っ!痛!!や、やめろっ」
 英二が押さえつけてくる力が失せた本を払いのけると、次姉が枕で長兄の頭をぼかすかと殴りつけていた。
「なんか物音がすると思って見に来てみれば!!こんなの英二に見せて!!…もぉ〜っ!英二が兄貴みたいになったらどうしてくれんのよ!!」
「お、お前、兄に向かってなんだよ、その言い草っ…!!」
「あぁ〜?兄貴を敬えってぇ!?ならもっときちんとしろ!!…このっ!!このっ!!」
 次姉はあの手この手で長兄を痛めつける。その度に悲鳴をあげる兄を少し可哀想に思わないでもないが、巻き込まれるのも嫌なので、英二は手に持ったバケツを長兄の頭に被せた。
「兄ちゃん、自分の部屋の窓は自分でしてくれ」



 ごしごしごしごし。ジャーッ。
 水を流しては磨き、水を流しては磨き、を繰り返す。
「ふぃ〜、こんなもんかにゃ?」
 英二が額に飛んだ水を手の甲で拭って呟く。
「だいぶ綺麗になったわね」
「姉ちゃん」
 振り返ると、エプロンをかけた長姉の姿。
「ちょっと遅くなっちゃったけど、お昼にしようか」
「うん!」
 姉に伴われてダイニングまで行くと、簡単に用意された昼ご飯が並んでいた。そして、テーブルの脇には空のタッパーやら重箱が積まれている。
「これは?」
「台所が片付いたから、おせちの用意をするのよ」
 英二の問いに答えたのは台所から姿を現した母親。
「おせちか〜。そういや、お餅はもう作ったの?」
「一昨日作ったわ。今年は餡餅も作ったのよ。おやつに食べましょうね」
「うん!」

 昼御飯を手早く済ませて、母親はおせちの用意に台所へ向かった。
 次姉や長兄が掃除にばたばたと姿を消し、長姉がテーブルの上に残された皿を重ねていく。
 英二は掃除のノルマを終えていたので、長姉を手伝って皿やコップを流しへ運ぶ。
 するとその時、英二の目に奇妙な物体が目に入った。
 それは銀色の小さいボールに入った真っ赤な丸い物体。いや、よく見れば、それは――ゆでタマゴ。
「何?この赤いタマゴ」
 英二はまじまじとその奇妙な卵を見た。
 すると母親がくすりと笑って答える。
「食紅で染めたのよ。姫ダルマを作ろうと思って」
「?姫ダルマ?」
「おせちに入れるのよ。ちょっと作ってみようかなって思って。こんなのよ」
 言って母親が見せてくれたのは、料理カードの見本写真。そこには、赤いタマゴに白い顔と縦縞が掘り込まれていて、目と鼻を黒胡麻で飾られた可愛い赤いタマゴのダルマがあった。
「へー、面白い〜」
「でしょ?英二、暇だったらおせち作るの手伝って」
「おっけ〜♪」
 英二はにこっと笑って頷いた。

「で、オレ何をしたらいいの?」
「ん?」
 長姉はエプロンをして、ガスコンロの前に立っていた。
 弱火でフライパンの中身をゆっくりと混ぜている。香ばしい匂いからして、ごまめを炒っているのだろうと予測できた。
「さあ?母さんに聞いて」
「母ちゃ〜ん」
 ダイニングで重箱の水気を拭いていた母親に声をかける英二。
「オレ何したらいい?」
「じゃあ、まずねぇ…」
 母親は言って、両手鍋と布巾、そして栗を手渡してきた。
「栗きんとんを作ってもらおうかしら。作り方は分かるわね?」
「うん」
 栗きんとんは幼い頃から製作を手伝っているので、作り方くらいは分かる。
 ダイニングに戻って、テレビをつけ、年末の特別番組を見ながらきんとんを作っていく。
 手の上に布巾を広げ、裏ごしされた芋を匙で掬ってそこに置く。そして包んで捻り上げる。もうお手の物だ。しかし――。
「…あちゃ」
「?どーしたの、英二」
 長姉が丁度出来上がったごまめを持ってダイニングに入ってきた。長姉は英二が作ったきんとんを見やり―――。
「…大きさ揃ってないじゃない」
「テレビ見ながらやってたからかにゃ〜…」
 英二が困ったように頬を掻いた。
「…まあ、いいんじゃないの?英二らしくて。そのまま栗、乗せちゃえ」
 長姉はごまめを重箱に詰めると、英二が丸めたきんとんに栗を乗せていく。
「あんたたちったら…大雑把なんだから。まあいいけど」
 母親が苦笑しながらダイニングに現れた。手には例の赤いタマゴを持っている。
「あ!!姫タマゴ!」
「姫ダルマよ」
 ぴしゃりと言う長姉。
「英二、これ切って頂戴。こういう風に切るのよ」
 母親は言って、同じく持ってきた包丁で器用に卵に顔を作り、縦縞を入れていく。そして最後に卵の底を削いで皿の上に載せると…。
「おお〜、立った!!」
 珍しい卵に目を輝かせて喜ぶ息子に微笑んで、母親はよろしくね、と言い置いて台所へ戻っていく。
「せっかく染めたんだから、駄目にしちゃ嫌よ」
 長姉もそう言って台所へ戻っていく。
 英二は今度こそ失敗すまいとテレビを消し、右手に包丁を、左手に卵を握った。
 料理カードに書かれた切り方を見、母親の手つきを思い出しながら、そっと卵の上部に刃を入れる。
 そのまま浅く表面を削ぐように刃を滑らすと、白身が現れ、ダルマの顔になった。
「おお〜っ」
 英二はなんとなく声を上げ、そして縦縞の作成に移る。
 縦縞は三本。まず真中の縦縞を入れ、そして残り二本を入れる。
 それも顔を作ったのと同じ要領で、表面に浅く切込みを入れて赤い部分を除く。
 そして最後に卵の下の部分を削ぐ。
「立つかにゃ〜?」
 独り呟きながら皿に載せると、見事に、ちょこんと赤いダルマ(のようなゆで卵)が立った。
「おおおおっ!!」
「今に始まったことじゃないけど、あんた、独り言多いわねー」
 長姉が台所から呆れたような声を上げる。
「とりあえず最初の一個、上手くいったよ」
「良かったわ。後もよろしくね」
 母親の声が響く。手を離せないのか、姿は現さない。
「おっけ〜、任しといて!」
 英二はそう軽く答え、残りのタマゴの姫ダルマの製作に取り掛かった。
 そして取り掛かること十数分。全てのタマゴの細工を終え、英二はふぅっとため息を吐いた。
 英二が作った姫ダルマが白い面を英二の方に向けてずらーっと並んでいる様は、壮観なような、なんだか間抜けなような、それでいて可愛いような、奇妙な感じだった。
「出〜来たっ!!」
「まだよ、英二」
 もろ手を上げて喜んだ英二の前に、母親が黒胡麻の袋を手に現れる。
「これを使って目と鼻を付けるの」
「あ、そっか」
「好きにしていいから、頼んだわよ」
「はいは〜い」
 母親の手から黒胡麻を受け取って、数粒手にとる。
「どうしようかにゃ〜…」
 暫く悩んでから、英二は額に二筋黒胡麻をつけ、目と鼻を普通に付けた。
「大石だ〜!!」
 英二はきゃらきゃら笑って皿に戻した。そして新たなタマゴを取上げ、また考える。
 次に作ったのは、片目に横向きにした黒胡麻を二粒使ったもの。
「これは不二!」
 そして次々と部員の特徴を黒胡麻で遊びながら表していく英二。
「これ手塚。これはタカさん。これは乾。んでこれが桃で〜、これは海堂!んでもってこれが越前」
 一際目付きを悪く作った姫ダルマを皿に載せて、英二は手をパンパンと叩いた。
「完成〜♪」
 満足げに言って皿の上に並んだ姫タマゴを見やると、青学レギュラー全員がじっと英二を見上げているような感じがした。しかしそのレギュラーはみんな赤くて丸い。
(なんだか可愛い〜)
 ぷっと笑いながら、英二は台所に向かって言った。
「母ちゃん、出来たよ〜」
「ありがと、英二」
 明るい母親の声がキッチンから返ってきた。




 それからも、菊丸家はてんてこ舞いだった。
 おせちに入れようとしていた料理の材料が足りなくて長兄に買いに走らせたところ、『豚の挽き肉』というメモを受け取っていたにもかかわらず『豚の切り落とし』を買ってきて長姉を怒らせたり、長兄の手では一向に片付かない部屋の片づけをしていた次姉が、散らばっている物を片っ端から捨てていくので、長兄とつかみ合いの喧嘩になっていたり、年越しソバにのせる天ぷらを買い忘れたということで英二が買いに走らされたり、ふらっと帰ってきた次兄がこれまた長姉に怒られていたり。
 しかし、その甲斐あって、夕方までにはなんとか一段落し、紅白歌合戦をじっくりと鑑賞して、家族全員(父親は仕事の為居る事が出来なかったが)居間に集まってテレビと一緒にカウントダウンをしながら、菊丸家の年は明けた。

「明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとう」
 
 新年の挨拶を家族と交わして、英二はいい初夢が見れますようにと願いながら部屋に戻っていった。


<了>




※あとがき※